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「です・ます体」と「である体」の誤解について
- 「です・ます体」と「である体」の説明に誤りがあるという疑問が浮かびました。
- 「いますぐ本を書こう!」(ハイブロー武蔵・著)には疑問を感じる記述がありました。
- 「です・ます体」では名文エッセイを書くことができるとされる一方、女性が日常生活や花鳥風月をテーマに書く場合は「である体」が無難とされています。
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#31です。 >正 解 (←「エッセイを書きたいあなたに」) ただでさえ甘く感傷的に自分本位になりがちなトーンが「です・ます体」によって増幅されかねないからです。 : ありがとうございます。 なるほどですね。 興味深く拝見いたしました。 結局、木村氏は、 エッセイを書く際の手法として、「である体」が無難であることの直接的な理由を述べたかったのではなく、「です・ます体」を使うことによる危険性のほうを強調したかったのでしょうね。 >「ただでさえ」という文章においては、その後に続く言い回しは限定されます。 「ただでさえ・・・である(肯定)」とくれば、その後は「・・・である(肯定)」と続きます。 「ただでさえ・・・でない(否定)」とくれば、その後は「・・・でない(否定)」と続きます。 : この点に関しては異論があります。 たとえば、 『他方、女性が日常生活や花鳥風月をテーマにエッセイと書くときには、「である体」が無難ではないかという。 なぜなら、ただでさえ甘く感傷的に自分本位になりがちなトーンが増幅されることがないからだ』 であれば、特に違和感は生じないでしょう。 または、前回も述べましたが、(「です・ます体」によって)のように()を付けるだけで十分自然な文になると思います。 仮に木村氏が、「である体」が無難であることの理由を直接的に述べたかったとすれば、このような文になったことでしょう。 いずれにせよ、一段落を迎えたようで喜ばしいことです。 muimusakuさんの粘りが功を奏したのでしょう。 こちらは却って勉強させていただきました。 ありがとうございます。
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- hakobulu
- ベストアンサー率46% (1655/3578)
#12の欄にお礼をいただきました。 木村氏は、 >増幅されたほうがいいので、「である体」が無難 : と言っているわけではありません。 逆です。 詳しい理由は、すでに述べていますので、ここでは別の視点で展開してみましょう。 「です・ます体→柔らかい文体」、「である体→硬い文体」のように言い換えてみてください。 以下のようになります。 「柔らかい文体」で名文エッセイを書かれる木村治美氏は、評論や論説に「柔らかい文体」を使えば、読者がカチンとこなくて、やわらかく自己表現できるのではないかと述べておられる。 他方、女性が日常生活や花鳥風月をテーマにエッセイを書くときには、「硬い文体」が無難ではないかという。 なぜなら、ただでさえ甘く感傷的に自分本位になりがちなトーンが「柔らかい文体」によって増幅されないからという理由からだ。 いかがでしょうか。 「ただでさえ甘く感傷的に自分本位になりがちなトーン」が「柔らかい文体」と同質の意味であることは、即座におわかりになると思います。 即ち、木村氏は、 『「ただでさえ甘く感傷的に自分本位になりがちなトーン」が増幅されないから、女性が日常生活や花鳥風月をテーマにエッセイを書くときには、「硬い文体」が無難ではないか』と言っているわけです。 増幅という行為の主体は何か、と言えば「柔らかい文体」つまり、「です・ます体」です。 そうした注釈を加えているだけなのです。 「増幅されないからという理由からだ。」という箇所はたしかに下手な表現です。 「増幅されることがないから、というのが理由だ。」 あるいは、 「増幅されることがないから、という理由によってだ。」 のようにするほうが適切でしょう。 むろん、文筆家は、読者がより理解しやすい表現を目指すべきです。 ただ、表現が下手だということと、論理的に不整合である、ということは分けて考える必要があります。 少なくとも、今回のケースの場合、原文を読んで意味を取り違えたとすれば、公平な目で見て、それは読者の読解力の問題に帰されるべきだ、とわたしは考えます。 理由は、何度かのご回答欄で、すでに十分に言い尽くしていますので、あえて、この欄では申し上げません。 反論がおありの場合は、その箇所を抜粋した上でおっしゃっていただければ、納得いくまで可能な範囲でご説明申しあげる所存です。
お礼
>木村氏は、 >増幅されたほうがいいので、「である体」が無難 : と言っているわけではありません。 逆です。 まったく私の理解が不足していました。hakobulu さんの言われる通りでした。 hakobulu さんには本当に懇切丁寧に説明して頂きました。しかし、私にとってそれを理解するのは容易ではありませんでした。理解するのに時間が掛かったことをお詫びします。 回答ありがとうございました。
補足
>読者の読解力の問題に帰されるべきだ、とわたしは考えます。 現時点で、9名の方から回答を頂いています(回答総数25件)。これほどまでに回答を頂けるとは思っていませんでした。 これは、まさにこの文章の解釈が一通りではないということかと思います。すんなり理解できないために様々な解釈が生まれるのだと思います。 この文章は極めて理解しづらいと、私は読者として思います。読者によって正反対の解釈が生まれるということはあってはならないはずです。そういう解釈が生まれるのは、著者の表現力のまずさに起因すると思います。読者の責任ではないと思います。 様々な知的レベルの読者がいる訳ですので、著者はそのすべての人(標準レベル以上の人)によくわかるように説明する義務があるのではないでしょうか。
- 1311tobi
- ベストアンサー率49% (84/169)
昔書いた原稿を思い出しました。古いデータを引っ張りだします。長々と済みません。 ================引用開始 〈体言止め〉 体言止めについては第2章(★ページ)を参照していただくとして、ここでは、デス・マス体と体言止めの関係について書いておきます。 個人的な感覚にすぎませんが、体言止めは、デス・マス体の文章にはなじみにくいのではないでしょうか。デス・マス体で書かれた文章の中に、体言止めが使われている例はよく目にします。うまく使われていれば、違和感もありません。しかし、自分では使いこなす自信がないので、極力使わないようにしています。 なぜそう感じるのか、あまり説得力をもたないことは承知のうえで、説明を試みてみましょう。 一般に、デス・マス体とデアル体には次のような違いがあるといわれます。 デス・マス体 デアル体 ていねい やや乱暴 説明調 論説調 冗漫 簡潔 一方、体言止めはリズミカルに文章を切るような効果をもっていて、文章が軽快な感じになります。ほかにもいろいろな形容のしかたがありますが、おおむねこのような感じでしょう。 このデス・マス体の「ていねい」「冗漫」という特徴と、体言止めのリズミカルで軽快な調子が、どうにも合わない気がします。「だから使わないほうがいい」と主張するつもりはありません。あくまでも、自分では極力使わないように心がけているだけのことです。次にあげる変則形のなかにも、同様の理由でデス・マス体の場合は使いにくいものがある気がします。 ================引用終了 まず一般的な傾向を書きます。 ↑の原稿を書いたときにどれだけの文章読本を読みあさったのかもはや忘れました。(←オイ!) ただ、元々は、 評論や論説→デアル体 情緒的なエッセイ(とくに女性)→デス・マス体 というのが一般的な意見です。 木村治美氏は逆だと書いていますね(この引用のしかたではどこまでが木村氏の意見なのかハッキリしませんが)。 評論や論説→デス・マス体がいい(やわらかく自己表現できる) エッセイ(女性限定)→デアル体が無難 この流れから考えると、「デアル体なら甘く感傷的に自分本位になりがちなトーンを抑えることができる」と解釈するべきでは。 肝心なのは問題の箇所(これはホントに曖昧に文章です)よりも「デアル体が無難」の無難だと思います。 むずかしくなりがちな評論や論説はデス・マス体で、情緒に流れがちなエッセイ(女性限定)はデアル体で抑え気味に、という主張でしょう。 「増幅されたほうがいい」と考えているなら「甘く感傷的に自分本位になりがちなトーン」という書き方はありえないでしょう。 個人的には、デス・マス体の欠点が身にしみているので、デス・マス体がふさわしい内容はないと思っていますが……。ヘタなデス・マス体ほど見苦しい文章はない、という気さえします。
お礼
>この流れから考えると、「デアル体なら甘く感傷的に自分本位になりがちなトーンを抑えることができる」と解釈するべきでは。 その通りだと思います。私はとんでもない勘違いをしていました。 しかし、その勘違いは、ハイブロー武蔵氏の文章の拙さに原因があります。ハイブロー武蔵氏が木村治美氏の言っていることを正しく伝えていなかったからでした。 機会があれば、ハイブロー武蔵氏にこの件について問いただしたいと思います。 回答ありがとうございました。
補足
>この流れから考えると、「デアル体なら甘く感傷的に自分本位になりがちなトーンを抑えることができる」と解釈するべきでは。 私も最初はそのように考えていました。しかし、じっくり考えてみたところ、その考えはまちがっていることに気付きました。それは、エッセイでは喜怒哀楽の感情を抑制すべきではなく、逆に増幅すべきだからです。 「である体」では感情表現を増幅できるのです。だからこそ、「である体」を用いるべきだと著者は言いたいのです。 >「増幅されたほうがいい」と考えているなら「甘く感傷的に自分本位になりがちなトーン」という書き方はありえないでしょう。 まさにその通りです。問題の核心がそこにあります。つまり、「甘く感傷的に自分本位になりがちなトーン」という表現があまりにも抽象的でわかりづらいということです。 著者自身がその意味をわかっていて書いているのかという疑問も生じます。まさにこの「甘く感傷的に自分本位になりがちなトーン」は、典型的な悪文と言っていいと、私は思います。 私はその点を著者に問い合わせました。しかし、半月経っても何ら回答はありません。もしかしたら著者は、どう回答したらいいか、迷っているのかもしれません。
- OKAT
- ベストアンサー率38% (247/639)
(補足2)から先に、 おっしゃる通りでした。はっきりそう書かれていましたね。わたしは女性の、しかもある特定の場合(日常生活や花鳥風月をテーマにエッセイを書くとき)という限定を付けるのを忘れていました。ただ、その限定付きでも男性ではなく、女性には「です・ます体」が向いていないと言うことに異論があると断りたかったのでした。その日常生活や花鳥風月をテーマにしたエッセイということで、思い付くのは「枕草子」ですが、確かにこの「枕」を「です・ます体」で口語訳した変なものを思い浮かべたのですが、明治の言文一致運動以後では、そのようなものを目にしたことがありません。あるいは、茶道や華道、着物の専門家などにはあるのかも知りませんが、文芸評論家などでは見かけないので、その区別は不要と思いました。 (補足2) >女性が日常生活や花鳥風月をテーマにエッセイを書くときには、「である体」が無難 (その理由) ただでさえ甘く感傷的に自分本位になりがちなトーンが「です・ます体」によって増幅されないから ↓ 「です・ます体」では増幅されない ↓ 「である体」では増幅される ↓ 増幅されたほうがいいので、「である体」が無難 これは、しかし、質問者が最初考えられたこととは逆の展開でしょうね。 「です・ます体」では増幅されない →「である体」では増幅される→増幅されたほうがいいので、「である体」が無難 これは無いんじゃないですか。論議に加わっている 人たちの多くは、『「です・ます体」によって増幅される』と考えていらっしゃった思いますよ。もしそうではなく『「です・ます体」では増幅されない』と読み取られたいたのなら、わたしひとりが読み間違いをしていて、恥ずかしい限りということですね。<増幅されたほうがいい>のかなあ。
お礼
>これは、しかし、質問者が最初考えられたこととは逆の展開でしょうね。 「です・ます体」では増幅されない →「である体」では増幅される→増幅されたほうがいいので、「である体」が無難 これは無いんじゃないですか。論議に加わっている 人たちの多くは、『「です・ます体」によって増幅される』と考えていらっしゃった思いますよ。 私の解釈も二転三転しました。しかし、ハイブロー武蔵氏の文章をそのまま理解しようとした私にとっては、そうなるのも無理はありませんでした。しかし、そういうふうに解釈してもまだ釈然としないところがありました。そのため、皆さんからこうして度重なる回答を頂くことになってしまいました。 度重なる回答ありがとうございました。
補足
>これは、しかし、質問者が最初考えられたこととは逆の展開でしょうね。 確かに正反対の解釈をしていました。なぜ、そういう真逆の解釈をしたかというと、それは著者の文章がどうにでも解釈できるものだったからです。すなわち、「悪文」だったからです。 もっとも意味不明なのは、「ただでさえ甘く感傷的に自分本位になりがちなトーンが」の部分です。 「ただでさえ」というのは、「何もしなくても、普通に」という意味です。しかし、「甘く感傷的に自分本位になりがちなトーン」というのが極めて抽象的で意味がよくつかめません。 解釈が食い違うことになる一番の原因はここにあるのではないかと、私は思います。どうでしょうか。
- OKAT
- ベストアンサー率38% (247/639)
まだ続いていたのですね。女性を特別扱いすることや、本当に「です・ます体」が「評論・論説」に向かないのかという点には、わたしにも異論がありますが、この際はそれはさておき、 『ただでさえ甘く感傷的に自分本位になりがちなトーンが「です・ます体」によって増幅されないからという理由』 の部分に問題があるのですから、そこに問題をしぼって質問者を納得させるべきではないでしょうか。(すでに、皆さんには筆者が何を言いたかったのか、お分かりのはずです。言い方はともかく) その点から言えば、No.13の方のおっしゃる >着目している視点が異なっています。 ということに気を付ければ、上記の部分は、 『【ただでさえ甘く感傷的に自分本位になりがちなトーンが「です・ます体」によって増幅され】(ることが)ないからという理由』 のように、「ない」がかなり多くの内容を否定していることになり、一応理屈はとおるものの、ほめられた文章とは言えません。むしろ、文章になっていないとすら思われます。 この部分が、木村氏の文章にそのままあったとすると、(わたしは、その可能性は高いと予想します)分かりにくくした責任は木村氏にあることになります。何故木村氏なのかというと、「増幅」などという語をカッコよく使おうなどと考えるのは、文芸評論家の特徴だからです。本来「電波の増幅作用」から出たこの語は相当以前から評論に使われていました。 この言葉を使ったのが武蔵氏なら、すべて氏の責任でしょう。
お礼
回答ありがとうございました。 (補足1) よくよく考えてみたのですが、木村治美氏の言いたいことは次の通りではないでしょうか。 女性が日常生活や花鳥風月をテーマにエッセイを書くときには、「である体」が無難 (その理由) ただでさえ甘く感傷的に自分本位になりがちなトーンが「です・ます体」によって増幅されないから ↓ 「です・ます体」では増幅されない ↓ 「である体」では増幅される ↓ 増幅されたほうがいいので、「である体」が無難 こういうふうに解釈しても疑問は残ります。それは「ただでさえ…」という箇所です。言っていることが不明確です。「ただでさえ」というのは、「何もしなくても」「通常でも」という意味です。 私は、この「ただでさえ…」は不適切この上ないと思います。不適切であるために読者の誤解を招くことになっていると思います。 (補足2) >本当に「です・ます体」が「評論・論説」に向かないのかという点には、わたしにも異論がありますが、 木村治美氏は、「です・ます体」は「評論・論説」に向いていると言っています。ここは、「です・ます体」ではなく「である体」ではないでしょうか。
補足
>まだ続いていたのですね。 申し訳ありません。そろろそ閉め切ろうと思っていたのですが、皆様から貴重なご意見を次から次へとお寄せ頂き、なかなか締め切る決断がつきません。 >ほめられた文章とは言えません。むしろ、文章になっていないとすら思われます。 同感です。皆様の意見をまとめて著者に提示してみたいと思います。果たして、著者はどう回答するでしょうかね。無視するか、それとも素直にそのミスを認めるか……。
- masa2211
- ベストアンサー率43% (178/411)
NO.20さんへ 私の読み方ですが..... 「である体」では増幅されないからだ。 とは、読むつもりが無いのです。 そう読んでしまうと、文章全体(引用範囲全体の意味です。)で、新たな矛盾が発生。 元の文は、評論は「ですます」、 花鳥風月は「である」。 そうすると、 評論と花鳥風月で、文章の性格が反対でないと変。 ゆえに、 評論は感情を抑える 花鳥風月は感情ダダ漏れ なら、全体の意味が通ります。 「である体」では増幅されない と読むと、 「ですます」は感情がやわらかい、 「である」は、感情が増幅されない(=抑えられる)。こうなっているので、 反対の意味かどうかは微妙。「ですます」と「である」の使い分けをどうしたらよいのか不明という、文章のチョンボとなります。 感情がやわらかい、というのが、感情が増幅される、と同じ意味として読むなら、この疑問は解決ですが、そうであるなら、 評論は感情を増幅して書く 花鳥風月は感情を抑える。 こういう意味になりますが、ホントか?逆じゃあ? ど、どうしても思ってしまいます。 ※評論と花鳥風月では、評論のほうが感情を抑える、という記述しか見たこと無いです。 ですから、局部的なら、 「である体」では増幅されない でも良いのだけれど、 (「ですます」、 「である」、どちらが感情的に書けるかは、両方の意見があると思う。) 全体を通して読むためには、 「である」のほうが感情的、と読むしかないと思います。 で、 >ただでさえ自分本位になりがち....の1文だけ取り出すと、 の、「ただでさえ」を重視すると 花鳥風月は、感情を殺して書く(感情の出しすぎはいけない) と読むしかなくなります。 ただし、全体論理を通すような解釈が思いつきません。 ですから、「ただでさえ 」が変、と考えています。 したがってmuimusakuさんに確認します。 「である体」では増幅されないからだ。 が正しいとした場合、 評論は感情を増幅して書く、花鳥風月は感情を抑える という意味にとらえるしかないと思いますが、そういう意味で書いた文章だと思っているのかどうか。 それって、「スパイク靴を履くべき。何故なら滑るから」を「スパイク靴は滑る」と解釈するのと同等の無茶解釈(文法上そう解釈できても、やってはいけない解釈)だと私は思うが。
お礼
>「ただでさえ」を重視すると 花鳥風月は、感情を殺して書く(感情の出しすぎはいけない) と読むしかなくなります。 そういうことだと思います。ただでさえ感情的なのだから「です・ます体」ではそれがさらに増幅されて感情的になってしまう。そういうことにならないためには、「である体」を用いるべきと著者は言いたいのだと思います。 木村治美氏の本でそのことを確認できました。しかし、それを引用したハイブロー武蔵氏の文章に間違いがありました。それは極めて重大なミスと言わざるを得ません。 ハイブロー武蔵氏は、引用を間違っただけでなく、「から」という言葉を重複して使っています。これも極めて不適切です。 元の文(←「エッセイを書きたいあなたに」) ただでさえ甘く感傷的に自分本位になりがちなトーンが「です・ます体」によって増幅されかねないからです。 ハイブロー武蔵氏の釈明を求めたいと思います。 回答ありがとうございました。
補足
>花鳥風月は、感情を殺して書く(感情の出しすぎはいけない) と読むしかなくなります。 確かに、そういう解釈もできると思います。私も最初は、そういうふうに解釈していました。 しかし、よく考えてみると、その解釈は間違っていました。花鳥風月は、感情をもろに出していいのです。むしろ、もろに出すべきなのです。悲しいときには悲しいなりに、嬉しいときには嬉しいなりに、その感情をさらに増幅して表現すべきなのです。 そういうふうに解釈すれば、感情を増幅できる「である体」がエッセイには適していると、著者は言いたいのだと、私は思います。 このように、正反対の解釈をすることになったのは、著者の文章がどうにでも解釈できるあやふやなものだったからです。はっきり言って「悪文」だったからです。
- 1311tobi
- ベストアンサー率49% (84/169)
No.18で回答した者です。 No.18のコメントに補足いたします。 〈最低限の修正案(2)〉と〈もう少し手を加えた修正案(3)〉が矛盾しているような感じになっていますね。申し訳ない。 どちらでも誤解は生じない気がしますが、下記のようにするほうが明確な気がします。 ・〈最低限の修正案(2)〉は新たに( )部を付け加えるとよいでしょう。 なぜなら、(「である体」を使えば)ただでさえ甘く感傷的に自分本位になりがちなトーンが「です・ます体」によって増幅されることがないからだ。 ・〈もう少し手を加えた修正案(3)〉は下記のように。 なぜなら「です・ます体」にだと、ただでさえ甘く感傷的に自分本位になりがちなトーンが増幅されることがあるからだ。 いずれにしても、元の文が相当妙な気がします。言いたいことはわかるのですが……。 と考えたら、No.19のような考え方もあるのですね。 ウーン。 やはり相当問題のある文のようです。
お礼
>いずれにしても、元の文が相当妙な気がします。言いたいことはわかるのですが……。 元の文(木村治美氏の「エッセイを書きたいあなたに」)には何らの問題もありませんでした。 ハイブロー武蔵氏がそれを間違って引用していました。極めて重大なミスと言わざるを得ません。 引用を間違っただけでなく、「から」という言葉を重複して使っています。これも極めて不適切です。 元の文(←「エッセイを書きたいあなたに」) ただでさえ甘く感傷的に自分本位になりがちなトーンが「です・ます体」によって増幅されかねないからです。 ハイブロー武蔵氏の釈明を求めたいと思います。 回答ありがとうございました。
補足
>やはり相当問題のある文のようです。 本当にそうです。それは間違いありません。 >ただでさえ甘く感傷的に自分本位になりがちなトーンが「です・ます体」によって増幅されないから この文章を理解するのもっとも問題があるのは、 「ただでさえ甘く感傷的に自分本位になりがちな」 ではないでしょうか。 「ただせさえ」ということは「なにもしなくても、普通に」ということです。 普通に感傷的な人が(女性が)、「です・ます体」では普通にしかその思いを表現できないので、感情を増幅することができる「である体」を用いた方がいいと、著者は言いたいのではないでしょうか。
- masa2211
- ベストアンサー率43% (178/411)
「女性が」の部分にものすごく引っかかります(男性も同様でないとオカシイ、の意味です。)が、それ以外は別に.....ですね。 私個人の感覚になりますが... 感情を押し殺して文書を書く場合、「ですます」で書くから。木村さんの書いたとおり、 「ですます」で文書を書いた場合、やわらかい表現であることを前提に相手は文を読むわけだから、必然、感情を押し殺した文章に。一方、「である」(「だ」も含むものとします。)の場合、やわらかい表現であることを前提、が関係ないから、書きたい放題。 <結論> 私は、「ですます」では、まともな文章を書けない(爆)。 こうなる。 ゆえに、 ・ただでさえ甘く感傷的に自分本位になりがちなトーンが「です・ます体」によって増幅されない たしかに、そのとおり。「ですます」で私が書いた場合、「甘い、感傷的、自分本位」は、きれいに押しつぶされます。(あまりに苦労するのでめったに行わないけど。) ええと、私は男性です。女性(というか、私以外の場合全て)の場合、逆に「である」のほうが感情が押しつぶされる、ということも考えられます。でも、」自分の場合しか回答のしようがないから、自分の場合を回答とします。 >(正) 「である体」では増幅されないからだ。 そういう感覚を、私は持っていません、と返答します。「である」のほうが、増幅し放題という感覚です。 同時に言いたいこと。 私の回答文ですが、「ですます」「である」の混合です。一般に言われていることとして、混合はダメ、ということ勿論知っています。報告書記述などのときは、当然「である」。そうでない場合(たとえば、この回答)は、「である」は、感情を完全に押し殺したときと、感情が爆発したときの両極端のとき。「ですます」は、その中間状態、そう使い分け。半分意識が無い状態で文章を書くと、そうなるということ。
お礼
>ただでさえ甘く感傷的に自分本位になりがちなトーンが「です・ます体」によって増幅されない たしかに、そのとおり。 「そのとおり」ではないと思います。 「です・ます体」では増幅されない、増幅されたほうがいいので「である体」が無難、というふうに私も考えていたのですが、それは間違いでした。 著者が言いたいのは、ただでさえ感情表現がオーバーになる女性はエッセイを書くときには、感情を抑制する(増幅しない)「である体」を使った方がいいということだと思います。すなわち、木村治美氏がそう言っているというわけです。 しかし、著者は木村氏の文章を間違って引用しました。実に大きなミスです。引用を間違っただけでなく、「から」という言葉を重複して使っています。これも極めて不適切です。 正しい表記 (←「エッセイを書きたいあなたに」) ただでさえ甘く感傷的に自分本位になりがちなトーンが「です・ます体」によって増幅されかねないからです。 ハイブロー武蔵氏の釈明を求めたいと思います。 回答ありがとうございました。
補足
>「である」のほうが、増幅し放題という感覚です。 著者が言いたいのはそういうことだと思います。表現の仕方がマズイ(下手!!)なために様々な解釈を生むのだと思います。 私も勘違いしていたのですが、著者が言いたいことは下記の通りではないでしょうか。 女性が日常生活や花鳥風月をテーマにエッセイを書くときには、「である体」が無難 (その理由) ただでさえ甘く感傷的に自分本位になりがちなトーンが「です・ます体」によって増幅されないから ↓ 「です・ます体」では増幅されない ? ↓ 「である体」では増幅される ? ↓ 増幅されたほうがいいので、「である体」が無難 ?
- 1311tobi
- ベストアンサー率49% (84/169)
単にわかりにくい文章なのでは。 ・最低限の修正案(1)(質問者の案) なぜなら、ただでさえ甘く感傷的に自分本位になりがちなトーンが「である体」では増幅されないからだ。 これで十分だと思います。 ただ、もう少し著者のニュアンスを尊重するのなら……(言ってることは同じですが)。 ・最低限の修正案(2) なぜなら、ただでさえ甘く感傷的に自分本位になりがちなトーンが「です・ます体」によって増幅されることがないから(という理由から)だ。 「から」の連発はわかりにくさの原因になるので、( )部は削除したいところです。 ・もう少し手を加えた修正案(3) なぜなら、ただでさえ甘く感傷的に自分本位になりがちなトーンが、「です・ます体」によって増幅されることがあるからだ。 いずれにしても、この文章はちょっと気になります。 主張の内容に関しては異論もありますがパスします。 どこまでが木村治美氏の言葉で、どこからがハイブロー武蔵氏の言葉かハッキリしません。引用の基本としてマズい気がします。 そのため「感傷的に自分本位に」という助詞の重複が誰の責任か不明です。 ちなみに、校正者の立場から言わせていただくと、こういう例は誤植とは言いません(誤記と言えるか否かは微妙です)。 活版の時代と違って厳密には「誤植」はなくなったとも言われます。 誤字、脱字、衍字、誤変換などの総称を「誤植」と言ってもいいかもしれません。 これらは校正者の責任なります。 しかし、質問のような場合は校正者の責任ではありません。著者がホニャララなだけです。 詳しくは下記をご参照ください。 【突然ですが問題です【日本語編166】── 誤字 脱字 ホニャララ【解答?編】】 http://1311racco.blog75.fc2.com/blog-entry-2844.html 以下は一部の抜粋(重言)。 【解答?例】 1)「あいうえお」が「あいうえね」になっている→誤字 2)「あいうえお」が「あうえお」になっている→脱字 3)「あいうえお」が「あかいうえお」になっている →衍字 【よくわからない解説】 1)2)は説明不能。まあ、2)を誤字と呼んでも間違いではないだろう。 問題は3)で、こんな言葉は一般人は知る必要はない。当方も校正の仕事は長年やっているが、こんな言葉を知ったのは比較的最近。 http://dictionary.nifty.com/word/%E8%A1%8D%E5%AD%97?dic=daijisen ================引用開始 デジタル大辞泉の解説 @nifty辞書 デジタル大辞泉 衍字とは えん‐じ【×衍字】 《「衍」は余りの意》語句の中にまちがって入った不必要な文字。 ================引用終了
お礼
>そのため「感傷的に自分本位に」という助詞の重複が誰の責任か不明です。 「感傷的に自分本位に」は、木村治美氏の著書にありました。 木村治美氏は次のように言って(書いて)います。 >ただでさえ甘く感傷的に自分本位になりがちなトーンが「です・ます体」によって増幅されかねないからです。 ハイブロー武蔵氏は、引用を間違っただけでなく、「から」という言葉を重複して使っています。これも極めて不適切です。 >ただでさえ甘く感傷的に自分本位になりがちなトーンが「です・ます体」によって増幅されないからという理由からだ。 ハイブロー武蔵氏の釈明を求めたいと思います。 回答ありがとうございました。
補足
>なぜなら、ただでさえ甘く感傷的に自分本位になりがちなトーンが「である体」では増幅されないからだ。 私は勘違いしていました。この解釈は間違っていると思います。正しくは、 ただでさえ甘く感傷的に自分本位になりがちなトーンが「です・ます体」によって増幅されないから ↓ 「です・ます体」では増幅されない ? ↓ 「である体」では増幅される ? ↓ 増幅されたほうがいいので、「である体」が無難 ? ではないでしょうか。 >どこまでが木村治美氏の言葉で、どこからがハイブロー武蔵氏の言葉かハッキリしません。引用の基本としてマズい気がします。 確かにその通りかと思います。ですので私は、木村氏の本を読んでみようと思っています。古書店で探しましたが見つかりませんでした。今度、図書館で探してみようと思います。 >「から」の連発はわかりにくさの原因になるので、( )部は削除したいところです。 出版社に問いただしたところ、「から」の重複はおかしいと、出版社は認めました。 「増幅されない」の件は、著者に伝えるという回答がありました。 しかし、半月経ちましたが、著者からは何の回答もありません。
- hakobulu
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#14です。 1. >>「冬道はスパイク付きの靴をはくほうが安全だ。なぜなら、【スパイク付きの靴は】すべらないから」 >「冬道はスパイク付きの靴をはくほうが安全だ。なぜなら、【冬道は】すべるから」 この例の場合、【スパイク付きの靴は】とか【冬道は】という表記があるために理解するのに何らの支障もありません。理解できないのは、必要な説明がないからです。言葉足らずだからです。 : このご見解には、若干、異論があります。 たとえば、真冬の靴屋に買い物に来た客に向かって、靴屋の主人が、スパイク付きの靴を手にしながら次のように言います。 「冬道はスパイク付きの靴をはくほうが安全だ。なぜなら、すべらないから」 客も「このスパイク付きの靴がすべらないから」という意味に解釈するはずです。 これは、無意識的な感覚だろうと思います。 両者には、スパイク付きの靴について(重点を置いて)話しているのだ、という暗黙の了解があることになるわけです。 この客は彼女を連れていました。 彼女は、別の棚のところで女性用の靴を探していたのですが、この二人に背を向けた状態で、その会話を聞いていたのです。 そして、次のように言います。 「え?【すべるから】スパイク付きの靴のほうが安全なんじゃないの?」 棚の向こうにはガラスを通してツルツルに凍った道が見えていて、人々は転ばないように恐る恐る歩いており、彼女はそれを見ながら発言しました。 無意識的に「冬道」に重点を置いて解釈したために、そのような発言となったわけです。 つまり、【スパイク付きの靴は】とか【冬道は】とかいう注釈を加えようという必要性を普通は感じないものだ、ということです。 わたしは、そのような無意識的な意図がある、ということを説明するために注釈したまでです。 ここは誤解のないようにお願いします。 『理解できないのは、必要な説明がないからです。言葉足らずだからです。』というご見解ですが、これはおそらく違うと思います。 正確には、 『理解できないのは、説明が必要な場面にも拘わらず、必要な説明がないからです。言葉足らずだからです。』とすべきでしょう。 要するに、『説明が必要な場面』かどうか、ということが重要な要素になってくる、ということです。 上の例で言えば、説明が必要な場面とは言えないと思います。 スパイク付きの靴を手に説明している靴屋の主人は、 「冬道はスパイク付きの靴をはくほうが安全だ。なぜなら、[スパイク付きの靴は]すべらないから」とまで注釈する必要はないのでないだろうか、ということ。 もっとフレンドリーな表現にしてみると、そのことがよくわかるかもしれません。 「冬道はこの靴がいいよ~。なぜかって、ほとんどすべらないから」は軽快なリズムを刻むことができます。これを、 「冬道はこの靴がいいよ~。なぜかって、この靴はほとんどすべらないから」 と言ってしまえば、リズムが崩れるでしょう。 また、そのリズムを崩してまで「この靴は」という注釈が必要なシチュエーションとも言えません。 2. そこで、ご質問の例は『説明が必要な場面』かどうか、ということになります。 これは読解の問題でもあるので、もう少し前の文があるほうがわかりやすいのですが、わたしとしては、「です・ます体」と「である体」の違いについて述べている文であるのは、ほぼ間違いないように見えます。 少なくとも、「女性が日常生活や花鳥風月をテーマにエッセイを書くとき」について述べようというのが本意ではないはず。 『他方、女性が日常生活や花鳥風月をテーマにエッセイを書くときには、「である体」が無難ではないかという。』という直前の文だけに着目せずに、その前の文も考慮に入れて読み進める必要があります。 逆に、『女性が日常生活や花鳥風月をテーマにエッセイを書くとき』について述べるのが筆者の意図であるなら、『「です・ます体」によって増幅されるから』と表現する必要がありますが、今回は違います。 以上によって、『説明が必要な場面』とは言えないから、注釈がないことをもって筆者を責めることはできない、とわたしは思います。 つまり、読み手としては、『「です・ます体」と「である体」の違いについて述べている文である』という意図を書き手と共有するのに不都合はない記述ではないだろうか、と思うわけです。 ただ、文法として間違ってはいませんが、下手な表現であることはたしかだと思います。 #16さんが「否定形でなくすればいい」と適切な指摘をされていますが、同感です。 これを強力なヒントとして、わたしとしては、最後の文を次のようにするのが自然だろうと考えます。このような微妙な表現の場合、読点も重要な要素となります。助詞も一部変えてます。 ニュアンスを掴むため全文を記します。 『「です・ます体」で名文エッセイを書かれる木村治美氏は、評論や論説に「です・ます体」を使えば、読者がカチンとこなくて、やわらかく自己表現できるのではないかと述べておられる。 他方、女性が日常生活や花鳥風月をテーマにエッセイを書くときには、「である体」が無難ではないかという。 ただでさえ甘く感傷的で自分本位になりがちなトーンが「です・ます体」によってさらに増幅されることがないから、というのが理由だ。』 「増幅されないから」も「増幅されることがないから」も同じ否定ですが、「される」という単語を直接的に否定しているわけではない点が味噌です。
お礼
>『理解できないのは、説明が必要な場面にも拘わらず、必要な説明がないからです。言葉足らずだからです。』とすべきでしょう。 まさにその通りです。 >逆に、『女性が日常生活や花鳥風月をテーマにエッセイを書くとき』について述べるのが筆者の意図であるなら、『「です・ます体」によって増幅されるから』と表現する必要がありますが、今回は違います。 ここはやはり、『「です・ます体」によって増幅されるから』と表現すべきでした。木村氏は「増幅される」というところを「増幅されかねない」とその著書では言って(書いて)います。ハイブロー武蔵氏がそれを間違って引用したわけです。ハイブロー武蔵氏の釈明を求めたいと思います。 回答ありがとうございました。
- OKAT
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わたしも回答者の一人として、話の中に割り込ませてもらいます。 これは日本語の「否定文型」の特色がもたらす問題の一つなのでしょう。二重否定なのかどうか、という質問が時々このサイトにも寄せられています。要するに何が否定されているのかが、最後まで行かないと分からないことが問題なのですね。 『なぜなら、ただでさえ甘く感傷的に自分本位になりがちなトーンが「です・ます体」によって増幅されないからという理由からだ。』 この文を読んだとき、わたしは単純に筆者の書き方に引き込まれました。しかし、質問者が間違いだと言われので「なるほど」と思いました。しかし、hakobuluさんが理を尽くして説明されているのを読むとこれもうなづけるところがあります。「なぜなら~から」が木村氏の意見で、「という理由からだ。」が武蔵氏によって加えられた言葉だと仮定して、分かりにくくした原因は木村氏の言葉にあります。(もっとも、こんな話題になるとは木村氏は分からなかったはずです) >「です・ます体」によって増幅されないから の部分を、 >「です・ます体」によって増幅され<兼ね>ないから とするか、あるいはもっと単純に >「です・ます体」によって増幅されるおそれが<ある>から と否定形でなくすればいいのかと思います。繰り返しますが、木村氏の言い方は許される範囲内だと思いますけれど、それを紹介した武蔵氏に多くの原因があると思います。こうした「解説文」には、それなりに分かりやすくする責任があるからです。そのためには、「という理由からだ。」で済まさず、もっと別の方法があったと思います。 (わたし自身に対する自戒の念を込めての発言です)
お礼
>「です・ます体」によって増幅され<兼ね>ないから とするか、あるいはもっと単純に >「です・ます体」によって増幅されるおそれが<ある>から と否定形でなくすればいいのかと思います。 まったくその通りでした。木村氏の著書を読んでみてそのことが判明しました。 木村氏の著書には何の問題もありませんでした。問題は、それを引用したハイブロー武蔵氏にありました。 ハイブロー武蔵氏は、間違った引用をしただけでなく、「から」という言葉を重複して使っています。これも極めて不適切です。「から」の重複は、出版社もミスであることを認めています。 回答ありがとうございました。 御礼が遅れまして申し訳ありません。
お礼
hakobulu さんには全回答数36のうち、15件の回答を頂きました。 お手数をおかけして申し訳ありませんでした。 おかげさまで何とか解決しました。 ありがとうございました。
補足
>ただでさえ甘く感傷的に自分本位になりがちなトーンが増幅されることがないからだ 違和感を感じるのですが、どうしてでしょうか。 A. 「ただでさえ…になりがち」である ⇒「です・ます体」を用いればさらにそれが強調される(増幅される) と言いたいのであれば、 >ただでさえ甘く感傷的に自分本位になりがちなトーンが「です・ます体」により増幅される(されかねない)からだ。(例文A) となるかと思います。また、 B. 「ただでさえ…になりがち」である ⇒「である体」を用いればそれは抑制される(増幅されない) と言いたいのであれば、 >ただでさえ甘く感傷的に自分本位になりがちなトーンが「である体」により増幅されないからだ。 となるかと思います。(例文B) しかし、「ただでさえ」を用いた文章としては例文Aの方が私にはしっくりきます。 かつて、「まったく」とか「全然」とかの言葉は、その後に否定形を伴うと言われていました。しかし、現在はそういう約束事はないようです。これと同じように、「ただでさえ」についても決まった用法はないということなのかもしれません。 >いずれにせよ、一段落を迎えたようで喜ばしいことです。 確かに、大きな関門は突破できたかと思います。皆さんのご協力のおかげです。