• ベストアンサー

「られる」の表現

「れる・られる」には、受け身・可能・尊敬の3種類があり、実際どれが使われているかは、文脈で判断するしかないようです。 ところで、なぜ 一つの表現で3種類もの使い方があるのでしょうか? それとも別々の表現だったものが同一表現になったのでしょうか?

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
回答No.4

古語「る、らる」が、尊敬の意味でも使われるようになるのは平安時代以降で、4つの用法の中では最も遅く現れています。尊敬だけは派生的な用法と言えます。 他の3者は、最古の歌集『万葉集』で既に使われています。ということは、受身・可能・自発のうちどれが一番古いかは、推測しかできないでしょう。 ちなみに『万葉集』の時代の尊敬の助動詞は「す」でした。 可能はちょっと仲間外れのような気がするものの、受身・自発・可能とも「意志と関係なくその事態が成立する」表現とくくれば3つが同じ助動詞で表わされることも納得いくのではないでしょうか。 もっとも、現代語では、動詞「する」だけは、「れる」を付けた形が、受身・尊敬・自発の3つしか表せなくて、可能の場合は「できる」と、全く別語を使うしかないことも、可能を仲間外れっぽく感じる要因でしょうね。

tiebukuro
質問者

お礼

なるほど、可能を仲間はずれと考えたのは錯覚だったかも。勉強になりました。

その他の回答 (3)

  • UKY
  • ベストアンサー率50% (604/1207)
回答No.3

「れる・られる」には、受身、可能、尊敬のほかに、自発の意味があります。 そして、この自発こそが「れる・られる」のもともとの意味であり、それら四つの意味の根底には「不可抗力」とでも言うべき概念があるというのが言語学上一般的な考えのようです。 自分の意思に反して何かをしてしまうという「自発」の背後には、自分にそれをさせるように働きかける不可抗力があるというニュアンス。 自分が何かをされるという「受身」も、自分には止められない外力が働くから。 (例えば、「太郎が熊に襲われた」という文では、太郎が熊に対し無力だったことを暗示させる) また「可能」に関しては、もともと「られる+否定」で「~できない」という意味を表していたところから受身の意味だけが独立したものだといいます。 「どんな力をもってしてもそうなることはない」→「不可能」 「尊敬」も、身分の高い人には逆らえないというニュアンスからできた用法と思われます。

tiebukuro
質問者

お礼

なるほど不可抗力ですか。しかし、「可能」だけはシックリきません。可能・不可能の判断は自分の意思ではなく、まわりの環境で決まってしまうもので、不可抗力といえる。こう考えると4つの意味が不可抗力のニュアンスの中に括ることができそうです。どうにかゴールに辿り着けました。

  • o_tooru
  • ベストアンサー率37% (915/2412)
回答No.2

こんにちは、疑問はつきませんね。 さてご質問の件ですが、おおむね1番の方のご回答で出尽くしていると思いますが。 確かに「可能」の意味は、現代語の感覚からしますと、確かに変ですよね。そういった言語感覚の移り変わりから、可能の意味の場合、受け身と区別する意味での、「ら」を抜く言い方「ら抜き言葉」が発生したのかもしれません。 (論文とかに当たったわけではありませんので、単に私の、私見ですが)

tiebukuro
質問者

お礼

ありがとうございました。

  • sharako3
  • ベストアンサー率29% (333/1130)
回答No.1

もうひとつ、「この場所に来ると、あのときのことが思い出される」などのような使い方、「自発」がありますから、「れる・られる」には4種類の意味があります。 これは文語では「る・らる」でした。 おそらく順番としては、元々受身の意味で使われていたものに、「自然とそうなる」という自発の意味が加わり、さらに「そうすることができる」という可能の意味が加わったのではないでしょうか。 そして最後に、目上のひとの行動に対して、「○○する」という断定表現を避け、「○○できる」という意味合いで表現することになった結果、尊敬の意味で使われるようになった……わたしはこう考えています。 順序や理由はともかく、「元々ひとつの言葉だった」ものが、4つの意味を持つようになったのは確かだと思います。

tiebukuro
質問者

お礼

自発の意味もありましたか。 総じていえば、受身、自発、尊敬は、自分を取り巻く環境を吸収してしまう日本人の特徴から何となく理解できますが、可能だけは何か別物のような気もします。 ありがとうございました。