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江戸時代における大阪商人の米取引(世界初の先物?)
表題の通りですが 米の取引については、現物と、現物以外の計2種類がありました。 現物取引以外をはたして「先物」と呼んだかは知りません。仕組みは一種の先物であるようです。 基本、日本は一毛作ですから、秋に収穫する米を数ヶ月前に売買すれば「先物」になりますかね。 現代のヘッジファンドと「ファンド」の部分は違えども、「ヘッジ」は同じ意味? 将来予見される危険(思わぬ台風・長雨・冷夏・猛暑・害虫、それによる予期せぬ不作とか、逆に好条件が揃った豊作とか)を「ヘッジ」しておく原理は同じような気がします。 解説宜しくお願いします。
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- 畑山 隆志(@deltalon)
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- eroero1919
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「デリバティブ」という意味での先物としては、古代ギリシアでナントカっていう知恵の回る人が、まだオリーブが成らない季節のうちにオリーブが成る季節の何日間か村の圧搾機を使う権利を買ったのが始まりらしいですよ。 江戸時代の米相場は、武士の給与が米で支払われていたからでしょうね。だから江戸時代の経済は金本位制度ならぬ米本位制度だといわれていますね。 手形があったり、ある種の海上保険があったり、まあ経済が発達すると自然にそういう制度が発生するのでしょうね。
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- kamobedanjoh
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米の先物相場制は、資本主義世界に先鞭を付ける画期的な幕府の政策でもありました。 基本的な形態は、NO.1 さんのご回答通りですが、江戸時代の米の先物取引は、米価安定の試みから始まりました。 一部不心得な商人が、売り惜しみをして米価つり上げを図りましたが、各藩の窮状を熟知していた幕府は、商人の横暴を野放しにはしていなかったと思います。 米価高騰に悩まされた町民は、豪商に対して打ち壊しなどの暴挙で対向した例もあったようですが、殺戮・暴行・放火は無く、各藩の百姓一揆に対するような厳罰も避けられていたようです。武家に対する反逆とは異質でしたから。 各藩は、不作になればたちまち財政が逼迫し、年貢の取り立ても苛酷になつて行きました。そうなると、百姓は一斉に村を捨てる「逃散」の挙に出ることもあったとか。それが幕府に知れるとなると、藩の失政として幕府のお咎めも受けたようです。最悪、お家お取り潰しです。 島原の乱の実態は、島原藩の余りの苛政に反発した一揆であり、江戸時代の藩主で「斬首」に処せられたのは、当時の島原藩主ただ一人だそうです。 横道にそれてしまいましたが、武士の給与は米の現物支給でした。そのため、武士の生活設計のためにも米価の安定は必須でした。 米の先物相場制は、武士達の生活安定のための、米価統制の目的から始まったことを指摘して置きたかったのです。
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ヘッジの先物という発想から考え出されたものではありません。 結果的に投機的に使われてはいました。 江戸時代の税収は基本的に米の現物納入です。 各藩が得た米を現金化していたのが、堂島の米取引の主要部分でした。 各藩は財政が逼迫してくるのに従い、収穫前に取引を行いました。 やがて、翌年分や翌々年分のものを担保として借金をするようになりました。 これ等の収穫前の米の権利を基にして売買したのが始まりです。 現在のように農薬も肥料も品種も発達していませんでした。 結果として、収穫は天候に大きく左右されました。 特に江戸時代は気象学的な長期変動で寒冷期に当たります。 不作の年が頻発しました。 市中の米の取引価格は暴騰することになります。 これを狙って、権利を基にした売買が盛んに行われました。 現代の株の空売り空買いのような形式です。秋には清算させられました。 現代のようなヘッジという感覚とは大分かけ離れた発想です。 江戸は幕臣の給与である俸禄を現金化することが札差の主要な業務でした。 担保として書面上は権利をおさえましたが、それに基づく売買はされませんでした。 幕臣の個人の給与を根拠に売買などをしたら首がいくつあっても足りません。 うっかり夜道が歩けなくなります。 市中で売買される価格は大阪の相場を基準として決められていました。 この市中価格に対しての先物投機はありました。 相場をいち早く知るために、手旗信号のような手法も考え出されました。 見通しのよい峠の木の上などから、旗を振っていたようです。 どこまで有効だったのかは定かではありません。
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