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コトバは 虚構ではないのか?
コトバは 何らかの実質的なものか? もしくは実質のあるものを指し示す場合には 虚構ではないか? つまり《意味内容》と コトバ(音声・文字)とは 一対一に対応しているのだろうか? コトバは シルシであるのではないか? 方便であり 補助線であり 虚構として用いるものではないか? 虚構が――小説作品と同じように―― 一編の真実を表わすことは もちろんある。つまり 補助線であるのではないか。
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言葉は、本来人間が口から発する音の変化、組み合わせで、何らかの意味を他人に伝えるために発せられたのでしょう。それ自身は単なる空気振動ですが、人間同士の間で意思を伝えるために発明された人為的な物理現象であって、言霊とはいわれても、「虚構」ではありません。人間の切実な魂の発現であり真実だと思います。それが虚構にまで落ちぶれたのはのちのちのことで、人間がそれに嘘をまぜるようになったからではないでしょうか。言葉は嘘でもありうる、ということをおろかにも発見したからでしょう。社会の発展から生起した人間の堕落であり、自業自得とはいえ、人間の不幸と悪の始まりはそういったことから始まったのではないかと思われます。 小説の虚構はまたそれとは異なったものです。芸術という虚構は人間の偉大な発明ではないでしょうか。それは人間を心地よく酔わせる、感銘を与えるという意味ではほとんど真実を意味する虚構です。 ローカルな思想ですがご参考になれば。
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- 0fool0
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>そういう行き方も 狭い隙間を捉えていちど言ってみるという試みとして あり得ます。 ほう、狭い広いねぇ。 貴方にとっては狭いのは悪いという事なのでしょうねぇ。 この言葉の私が狭いか広いかは何に影響するのでしょうね? 貴方にとってはイメージ的に私が大きいよりは小さい方がいいのでしょうね。 何と比べてw 比べる所から何時になったら抜け出せるのでしょうw 貴方は何時になったら、狭い所から出てくるのでしょう。 >ただし ただ それだけのことでしょう。 それだけの事が判らない人間ほどこう言いますねぇ。 >なぜなら 文字ないしコトバを立てないということを コトバで表わしている。 ・・・自分で聞いておいて? 批判の仕方を学んだ方がいいですねw ま、貴方にとっては構って欲しいだけなのは判っていますが・・ >むかしの人間が考えたことをまなぶのは だいじなことですが 無批判による鵜呑みは いただけません。 理解出来ないから批判するのは意味が違うって知ってます? >手垢がつき黴が生えて来ている文句がすくなくありません。 先人の残した素晴らしい美術品も工芸品も、良く知らない子供が乱暴に扱い壊してしまったり、掠めて売り払ったりしてしまいます。 貴方の事ですよ。 >すべてをうたがう。すべての常識をうたがい ご自分の考えを持つようにしてください。 あのねぇ・・・、それは最低限、読んで理解した人間が口にする言葉です。 守破離を無視して、何を言っているのか。 貴方が理解出来ない事をどうでもいいと思っているのはいい加減に私も判っています。 貴方は見て欲しいだけですから。 「僕はここにいるよ」と。 さて、貴方は曲解して、場を荒らして、存在に気付いて欲しいだけの人間だとは既にわかっています。 そしてそれは真理を理解出来ないから。 何故なら貴方は私の問いかけに、反論をしないで良く削除しますから。 他の方に侮蔑の言葉を浴びせられるのは平気なのに、私の反論は名誉毀損なのですからね。 ホントに言葉の曲解だけで生きているようですね。 これを言われて腹が立ったら、是非、私のとの会話で真理にたどり着きましょうよ。 貴方は「判らない人間とは会話しない」とか言いそうですがw
お礼
★ 貴方にとっては狭いのは悪いという事なのでしょうねぇ。 ☆ コトバ論にとって 一般性に欠けるという意味です。あるいはつまり この《コトバは 虚構ではないか?》のこたえとしては 一面にしかかかわっていないという意味です。 あとは おおむね鏡像です。おのれ自身の。
- dropyork
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愚かにしても良い訊ねですので、言いましょう。 言葉は、真理であり、真実であると。 知らない知性のみが有ると有ると。
お礼
ご回答をありがとうございます。 そうですね。 ★ 言葉は、真理であり、真実であると。 ☆ 原典が何だったか忘れましたが ブディズム関連でこういうことを書いた文献があったように記憶します。 議論をするときには 蒟蒻問答ならぬ《うなぎ問答》ではいけない。すべからく主題を共有し論点をからませて 対話をすすめなさいといった話ではなかったかと。 たぶんこの場合も 《真理・真実だ》というのは タトエであって その意味はコトバを補助線として真理にみちびかれよと言っているのではないかと思いますが どうでしょうか。
- 雪中庵(@psytex)
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言語は記号であり、実体ではないので、まず虚構である。 それでも実体と1対1で直接的に結び付けられた記号なら、 実体性を残すが、たとえば「犬」と言った時に思い浮かぶ のは、その人の過去の経験の中で、小さめの四足の獣の 一群から得た印象の平均であって、日本人の「犬」と、 セントバーナードの多い国の人の「犬」は、異なる。 それでも共通の「犬」という言葉で通じるのは、日本犬と セントバーナードの原理的共通性(遺伝、適応環境、物理) により、一まとめにし得る共通性があるからである。 そうした受け手の側の虚構性のみならず、対象においても 虚構である。 「コップ」はいかにもそこにある“実体”のようだが、 正確に把握できる目があるなら、石や木と同じ、陽子や 中性子、電子の集まりであり、その並び方の違いに過ぎず、 「実体」とは言えなくなる。 その極限に、不確定性原理において、そうした粒子の有限的 な性質(存在)は、「位置と運動量」など幾つかの補完的な 性質の対の一方を確定化しようとすると、それに実体性を 与えるべきもう一方が無限不確定に発散し、逆に言うと、 階層現象性(個体(脳)>細胞>分子>原子>素粒子>クォー ク>超弦(量子定常波))を本質的に捉えず、経験的(いい 加減)に表面(犬、コップ)的に捉える事で派生している 虚構だと言える。 存在が虚構であれば、それに対応する記号がどんなに頑張っ ても、虚構である事はまぬがれ得ない。 むしろ、そうした記号を用いた認識の深まりとは、表面的に 「いい加減に捉える」事による多様性を、本質的な無へ還元 する過程だと言える。
お礼
なるほど。 ★ まず虚構である。それでも実体と1対1で直接的に結び付けられた記号なら、実体性を残すが ☆ ここですね 注意点は。 まづは ぷしゅてくすさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。 まづここで《実体》とは おおむね感覚によってそのモノが実感しうるというようなその対象のことでしょうか。 ただし ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ それでも共通の「犬」という言葉で通じるのは、日本犬と セントバーナードの原理的共通性(遺伝、適応環境、物理) により、一まとめにし得る共通性があるからである。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ というように そのモノについて抽象化・一般化して捉える・つまり概念として捉えてもいましょうか。つまりそのコトもが伴なっている。か。 ★ そうした受け手の側の虚構性のみならず、対象においても / 虚構である。 ☆ ん? ★ ~~~~~~~~~~~~~~ 「コップ」はいかにもそこにある“実体”のようだが、 正確に把握できる目があるなら、石や木と同じ、陽子や 中性子、電子の集まりであり、その並び方の違いに過ぎず、 「実体」とは言えなくなる。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ いやぁ ここまでの認識を差し挟みますか。 ん? いや 何らかの微細なモノが そのいまコトバを介して対象となっているモノをかたちづくっているのなら それとして モノであり 五感では捉えられないとしても科学の眼をとおしてあたかも知覚しうる。だから 《実体》として対応しているかも知れない。・・・ ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~ 逆に言うと、 階層現象性(個体(脳)>細胞>分子>原子>素粒子>クォー ク>超弦(量子定常波))を本質的に捉えず、経験的(いい 加減)に表面(犬、コップ)的に捉える事で派生している 虚構だと言える。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ たぶんいまの問いから少しずれたように思います。 つまりは モノ(犬やコップ)が 微細でそれとして確定しがたいようなモノによって仮りのあつまりとしてかたちづくられているという意味で 虚構だと言えることは 《コトバが虚構であるか》の問いからは ずれたように思われます。 そのモノの成り立ちが虚構であっても そのモノ(じっさいの犬)とコトバ(いぬというコトバ)とが まだなお《実体》として互いに対応していると言える余地がないかと言えば ないとは言えないように思います。 微妙ですが 次の判断文についても吟味します。 ★ 存在が虚構であれば、それに対応する記号がどんなに頑張っても、虚構である事はまぬがれ得ない。 ☆ すなわち モノの存在は その成り立ちがけっきょく微細なモノの仮りの集まりであってその意味で虚構であるということと その《虚構であるモノ》を コトバは一対一に対応するかたちで指示しうるかどうかということとは 別であるように思われます。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~ むしろ、そうした記号を用いた認識の深まりとは、表面的に 「いい加減に捉える」事による多様性を、本質的な無へ還元 する過程だと言える。 ~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ここは 重大な主題だと思われるので 通りすがりに何かを言うことはひかえます。つまりは コトバ観ないし言語表現論をも超えた人間観や存在論だと思われますので ここでは保留しなければなりません。 ぷしゅてくすさんが ご自身で質問をもうけられるのもよいかと考えます。 ついでと言ってはいけませんが 次の命題について考えます。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 〔* モノを要素ごとに分けて行くと〕その極限に、 不確定性原理において、そうした粒子の有限的な性質(存在)は、 「位置と運動量」など幾つかの補完的な性質の対の一方を確定化 しようとすると、それに実体性を与えるべきもう一方が 無限不確定に発散し、 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ たぶん認識や自覚における手続きじょうの違いに過ぎないかと思うのですが 抵抗感をおぼえたのは: 先に前もって 《「位置と運動量」など幾つかの補完的な性質》があり それらに分かれるというように捉えてしまっているのは 手続きがぎゃく なのではないか? です。《位置と運動量》などは すでにユラギとして一体となっているのではないか? 一体となっているそのモノ(ないしコト)を捉えて そこから 《位置や運動量》などにそれぞれ分かれつつ確定して行くというふうにも認識するという順序ではないか? です。 いろいろ勝手なことをも書きました。
- yotsuba_k
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言葉は表現を正しく用いるかどうかに尽きる。結局、質問者の造語まみれの用法が虚構に過ぎないと自認しているだけではないのか? 自分がそうだから他人も同じと考えるのは侮辱である。
お礼
よつば_kさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。 一般論ですよ。 もしご自分のおこなった表現は 極力ただしい遣い方によっていて その表現形式(または表現内容)もそしてまた 遣ったコトバも それらは 虚構ではないということでしたら それでは わたしやほかの人びとの遣うコトバとの違いは どこにあるのか? この問いに すでにあらかじめご自分の中で煮詰めて その答えを用意して 回答しているはずではないでしょうか? いつも侮辱的なご返答になっていますが むろん恥づかしめるために――それによって 地はゆたかになります 復興につながります――言っています。
- 0fool0
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不立文字教外別伝直指人心見性成仏
お礼
そういう行き方も 狭い隙間を捉えていちど言ってみるという試みとして あり得ます。 ただし ただ それだけのことでしょう。 なぜなら 文字ないしコトバを立てないということを コトバで表わしている。 むかしの人間が考えたことをまなぶのは だいじなことですが 無批判による鵜呑みは いただけません。 手垢がつき黴が生えて来ている文句がすくなくありません。 すべてをうたがう。すべての常識をうたがい ご自分の考えを持つようにしてください。
- PAPLEEYE
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虚構です。言いたくないことも言っているので、 自分の言葉でもない、 事実かどうか 自分の心情を表現することもできない。 防衛するため
お礼
ぱぷるあいさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。 ううーん。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 虚構です。言いたくないことも言っているので、 自分の言葉でもない、 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ そうですね。誰か人間がつくったということが見えないし分からないので 《自分のコトバではない》ですね。 たとえ《造語》をしたとしても その素地は もともとあったコトバ群なわけですね。 ただ ★ 言いたくないことも言っているので ☆ という理由が 《虚構である》という根拠になるか? つまり 《言いたくないこと》のほうを 実質的に指し示していて しかも一対一に対応しているという可能性はまだ残されている。 ううーん。もう少しみなさんの見解を捉えてみたいと思います。
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お礼
ええっとですね。この質問にかんしては とまどっています。 まづは こまあす88さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 ご見解に接して 次のようなことを考えてみました。 ★ 言葉は嘘でもありうる、ということをおろかにも発見したからでしょう。 ☆ ということは こうなります。 ○ コトバは 伝達される内容として 話し手の真意とコトバの言わば字面じょうの意味との両方を示し得る。 と。《ウソとホントウとの両方を意味させうる》と。 すなわち ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ( a ) 人間の切実な魂の発現であり真実だと思います。 ( b ) それが虚構にまで落ちぶれたのはのちのちのことで、人間がそれに嘘をまぜるようになったからではないでしょうか。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これら( a )( b )の二重構造をコトバは持つのだと。 ところで ○ この《ウソとホントウ あるいは 真実と虚構》の二重性は 果たしてそのどちらの側面においても 《コトバと意味内容とは 実質的な対応関係にある》と言えるか? つまり 言いかえてみるなら: ○ 話し手(書き手)は 表現するコトバについて おのれの本心とそしてウソとをそれぞれ いづれの側面でも その《本心とコトバとの関係 および ウソ心とコトバとの関係》を実質的な対応として捉えているか? また 聞き手(読み手)も その二重性のいづれの側面についても コトバと意味との一対一の対応関係として捉えているか? なんだかワケが分からなくなってきました。 ○ 二重性において 実質的な対応があるとすれば 一対一の対応とは言わないのではないか? ○ いや それほど複雑なかたちにおいても 人間は その表現行為をこなしているのだ。 となるのか? ところで ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 小説の虚構はまたそれとは異なったものです。芸術という虚構は人間の偉大な発明ではないでしょうか。それは人間を心地よく酔わせる、感銘を与えるという意味ではほとんど真実を意味する虚構です。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ こういう場合には コトバは 一たん仲介役であることに甘んじて 意味関係という問題については 虚構であり補助線であるに過ぎない。と言えるのか どうなのか? グローバルな思想としては いったい《コトバ》論は どうなりましょうか? いや ローカルな思想のほうが 生活にもとづいていましょうか。どうでしょうか?
補足
このご回答から潮が変わりました。 あ_ほなさんのご回答へともつづきます。 BA はひとつしかないので。 みなさん ありがとう。 * 未練:《仮構》の中に《虚》が入る余地があり じっさいに入っているのですけれどね。