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秀吉の対毛利外交について

秀吉の対毛利外交について 自分に詳しい知識がないからなのでしょうが、16世紀後半の毛利は秀吉と休戦協定を締結し、次に歴史の表舞台に出てきた時には秀吉の家来のようになっていてとても唐突であるような違和感を持ちます。 そこで質問なのですが (1)休戦協定を締結した頃、毛利には本能寺の変の情報が伝わっていなかったとしても何日か後には、その情報も入 り、「それで秀吉は停戦を急いでいたのか」と気付いたはずです。  毛利側には明智軍との挟撃体性を作り秀吉軍を攻撃しようという考えはなかったのですか?  あればそれを思い止まったのはなぜですか? (2)毛利は休戦協定であくまでも休戦に合意しただけで、この時点では秀吉に恭順まではしていません。これがい  つの間に主人家と家来家という関係になってしまったのですか?  また毛利は戦に負けたわけでもないのになぜこんな関係になることに合意していったのですか。  

みんなの回答

  • gcqd75ce
  • ベストアンサー率8% (6/67)
回答No.6

やぁ、レオです。ヨロピコ。 歴史なんてもんは、いい加減ですね。 この時代ともなると...ほとんど何もない。 たとえば茶器とかでると、国宝になったりとか。 まぁ、ないんですよ。 当時の人物に直接に聞くしかありません。 日本の大雑把な歴史はあるけどね。 ひみこ時代⇒戦国時代⇒江戸⇒戦争で負けて焼けた。 資料がないんだから、歴史は想像するしかないですね。 TVドラマなんか証拠0。 歴史=適当。これホントの話。

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  • cluze2009
  • ベストアンサー率29% (36/121)
回答No.5

(1)は皆さんが書かれているから省きます。 (2)は逆に長曽我部・島津・北条が何故秀吉に最後まで恭順する事なく、直接対決を する羽目になってしまったのかと、視点を変えて考察してみるのも面白いのではと思います。 3家にある程度共通していたと考えられる点は (A)領土拡張の時期が毛利家より新しく一族の士気も挙がっていた   (秀吉との直接対決時点において領地の最大版図を築いている)     これは北条家に関しても同様で武田家が滅亡して、信長没以降にも     着々と領土を拡大していき、その姿勢は秀吉が東日本に私闘禁止令を     発布した以降も変わる事はありませんでした。 (B)秀吉軍と直接一戦交えた経験が無かった     長曽我部家、島津家は実際に本格的な全面戦を開始してから     圧倒的な兵力、装備力の差、戦術の違いを思い知らされた事でしょう。     北条家は秀吉の力を十分把握していましたが、篭城戦に関して     絶対的とも言える自信を持っていました。また滝川軍を大敗させた     過去の経験がプラスイメージに作用した面があったのかもしれません。 (C)領土が隣接してなかった(海や他国に阻まれている)     厳密に言えば北条領地は家康支配地と隣接していたので外れるかもしれませんが。

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  • isa-98
  • ベストアンサー率23% (205/859)
回答No.4

たまたま整理中でしたので。 織田信長 足利 義昭 追放。 豊臣秀吉 足利 義昭 別格扱い。 織田信長 近衞 前久 追放。 豊臣秀吉 近衞 前久 猶子。 織田信長 対天皇対策 金。強行。(異例。) 豊臣秀吉 対天皇対策 金。藤原氏の猶子(通例) 1万石の大名に取り立てた上、上座で優遇すると言う事は、明智光秀も浮かばれると言う物です。 また、官位の高い人間を粗末に扱う事や、その詳細を報告しない事は無礼もはなはだしい物です。 時と言う言葉で解決出来ましょうが、 三職推任問題が官位をないがしろにしているとなると大いに問題となります。 これが信長の言い出した所となると大いに話は違って来るでしょう。(桓武平氏と仮冒) 義昭追放、長曽我部攻略と、意に反する政策が続き、ここを外せば終わりでした。 小早川隆景と吉川元春は、それぞれ日差山。寺山に布陣。 しかし、宗治を救出できませんでした。 秀吉は備中一国を安堵する条件で宗治に和議を迫ります。 しかし応ぜぬままでした。 小早川も吉川も戦況は不利と見て和議に傾いていました。 宗治の切腹のみ。城兵には手を出さない。 この条件で和議に応じます。 後に信長死亡の文を読みます。 小早川隆景は、「和睦は和睦。信義を破る訳には行かぬ。」と言い放ちます。 毛利は早期に豊臣との連合作戦を開始し、 長曽我部を挟撃します。 これが毛利の選択した生き残り戦術です。 毛利の目的は豊臣方(織田勢力)との絶対的な友好(信頼)関係を保つ事だったと考えます。 それが、毛利家を長曽我部のようにしてはならない。 と言う「生き残り作戦。」であったのだと推測します。

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  • kimari14
  • ベストアンサー率17% (50/288)
回答No.3

(1) について だいたい戦国の領主の統治体制は盟主盟友の関係ですから トップダウンというわけにはいかないでしょう。 事がことだけにね ああそう では追撃  はないでしょう もともと戦をはじめるときには どこまで どの状態で 形勢不利なら どのように 交渉するか だれを見捨てるか 何日ぐらいなものか どれくらいの兵糧か 火薬はもつか 背後の敵対国の情勢はどうか ありとあらゆう事案を 毎日の評定で確認し合うでしょう 情報の伝達方法、速度 正確さ、を含む 収集能力の程度 "ほんとうか" ということの大きさは 今とは比べようもないでしょう 当面の敵は 表面上 撤退した 我々はこの場に踏みとどまった この状態は ある意味 勝利を表すわけで 最悪ではない 最悪ではないのを どんな状況かもわかならい 前方に 全軍を出す 機構になっていなかったのでしょう 元就でも ひとまず待ったのではないでしょうかね 信玄も信長も待つ でも秀吉 家康 謙信は追撃したでしょう (2) について 秀吉との対陣でのことは大きかったとおもいますね 戦う相手ですから 当然人物評価分析は徹底的にやったでしょう 秀吉の戦というか戦略というか 城攻めのビジョン 規模の大きさを 目の前で 体験して うかつに手は出せなかったようですね うまいんでしょうね 圧力と対話 が おのれ 死んでも という風には ね 角がどうも立たなかったような気がしますよ 毛利の支配地自体の建て直しには時間がかかったでしょうし 戦国100年は又、飢饉の時代ともいわれていますしね 毎年の時もあったと日本農業史にもあります。 戦費の人、物、金の補充も すんなりいかなかった。   秀吉も対 勝家 家康 のことを考え 毛利を懐柔していったことは 普通にわかりますよね   博打(覇権)を打てるものと打てないものとは 相 感じるものでしょう 毛利はみんな二代目になって 家来もそうでしょうし とても 相手にならないと 思ったしても 不自然ではないと 見ますがね 勝手な私見です

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  • tanuki4u
  • ベストアンサー率33% (2764/8360)
回答No.2

毛利家に関しての記憶はないのですが、豊臣政権を上におくことによって、各大名権力が強化されたと言う歴史的事実があります。 島津家の例で読んだことがあります。 島津本家が豊臣の家臣支配方式、検地方式を学習し豊臣の権威の元で実施したために、それまでの国人連合の長でしかなかった島津本家が、他の家臣よりも隔絶した実力を持つことができたそうです。 毛利家においても、同様に元就と言う軍事カリスマがいるが故に、国人連合の長として毛利家は位置づけられていました。 軍事的カリスマとして国人連合の長であり続けるには、常に拡大路線を取り、各個人に利益を配分しなければなりません。 よく元就は拡大路線をヤメロと遺言したとされますが、現実には、 1571年 元就死没 1573年 因幡攻略 1575年 備中 三村氏を滅ぼす ちゃんと拡大路線を取っています。 1580年ころから、織田に圧迫され、ジリ貧で国人からの信頼が無くなった。 なので1582年の本能寺の変の後は、立て直し。 ところが1583年の賤ヶ岳の戦いで、決着がついてしまい、京の中央政権に対して云々言える力関係では無くなった。 つまり1582年の本能寺の戦いの前の力関係にあっという間に戻っていたわけです。これは敵わん。

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  • Free20
  • ベストアンサー率20% (25/123)
回答No.1

伝聞等があるので、全てが正確というわけではありませんが、 (1)本能寺の変の情報は、秀吉が引き揚げた直後に毛利側にも伝わりました。その時、吉川元春は追撃を 主張しましたが、小早川隆景がそれを押し止めました。恐らく、明智光秀では天下が治まらないと考えた のではないでしょうか。小早川隆景が追撃論を抑えたのは、秀吉が信長の後釜になった時、恩を売ってお こうという思惑が働いたと考えられます。結果はその通りになりました。 また、毛利元就の死後、輝元の代になると毛利家は版図拡大路線から拡大した領土を維持する路線に転換 していました。つまり、西へ進む織田家と東に進む毛利家が対決したのではなく、織田家が西に進み、 毛利家はそれを防ぐための戦いをしていたということです。ですから、秀吉を叩いて、結局他の(例えば 明智光秀)武将と戦うことになるよりも、秀吉をそのままにしておいた方が結果得策であると判断した のではないでしょうか。 (2)これは、最初は対等な関係から徐々に自分が上であるという風に持って行く、秀吉ならではのやり方 です。上杉家に対する秀吉もそうでした。恐らく、毛利家は天下取りよりも自国を守ることに重点を おいていたので、豊臣政権の中で、大きな力を持つ存在となる方が有益だと判断したのでしょう。 事実、豊臣政権では、毛利輝元と小早川隆景が五大老に入っています。また、中国地方五カ国の領土は 安堵されていますし、特に小早川隆景に対して秀吉は破格の待遇をしております。但し、これは自分の 藩屏が少ない秀吉だからできたことであって、信長や家康の下では無理だったでしょう。

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