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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:道を究めるのにどの宗教かは関係ない)

宗教と関係ない道の追求

このQ&Aのポイント
  • 道を究めることが大切であり、どの宗教かは関係ない
  • 修行することが大切であり、その手段は問わない
  • 自らを磨くことが大切であり、どの宗教かは問題ではない

質問者が選んだベストアンサー

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回答No.5

前回答で、≪宗教の頂点は一つ・・・しかし頂上に至る道は沢山ある。≫ 或いは、≪どの宗教に帰依しようと、如何によく生きるか、こそが重要なのである。≫ という意味のことを言った人物を特定することが出来なかった訳ですが、こうした考えを信念としている私としてはとても悔しく、何とか、こうした言葉の痕跡を探ろうと、ググりまくってみました。以下、各宗教ごとに、いくつか気になる言葉を引用してみようと思います。 非常に長くなりますが、このテーマは私にとって「生涯のテーマ」ですので、お付き合いいただけると有難いです。 古くから「富士山の登山道のように、登る道は沢山あるが、頂点はひとつ」という言い方はあり、多くの日本人に支持されている考え方だと思いますが、具体的に洗い出すには、少しエネルギーを要しました。 先ず、【キリスト教周辺】 1.第二バチカン公会議以降、カトリックは他の諸宗教との対話を促進し、 諸宗教の中にも「真理の光」があると宣言しました。 (http://www.rokko-catholic.jp/Training/tuesdayclass2009/tuesdayclass-rejime10-3-09.htm 参照) 2.多元主義の代表的人物ジョン・ヒック(John Hick)は「実在者」(the Real)という概念を措定し、それを、どの特定の宗教の神的実在をも超えた「一者」(the One)と考える。その一者に連なる道が多数存在するという意味での多元主義であり、その限りにおいて、どの宗教も全体的真理の一部を占めるに過ぎないために、諸宗教は互いに相補的な関係にある、と述べました。 (http://www.kohara.ac/research/2007/12/article200712b.html より引用) 「多元主義」でネット検索したり、ヒックなどの著作本を読むと、もっとわかります。 遠藤周作の『深い河』などもこの多元主義の影響を受けていると言われています。 3.まあ、しかし、キリスト教が、近年やっとここまで「開放的」になったのは、西欧諸国への非キリスト教移民の大量流入、植民地主義や帝国主義にキリスト教が関与したという批判への対応、イスラムなどとの宗教戦争の反省などから、「やむを得ず」対応したという側面も大きいと思います。  ですから、「それでは、どの宗教でも救われるのでしょうか?」などと突き詰められると、どうしても歯切れの悪い所は否めませんね。  最後の所は、「それは神のみぞ知る」とうことで逃げざるを得ないのかもしれません。 → http://homepage2.nifty.com/tecum/Messages/foyer-200509ys.html ここに書かれていることは、第二バチカン公会議以降のカトリックの基本的スタンスだと思います。 冒頭にあるマザーテレサの逸話は本当で、彼女は、インドの「死を待つ人の家」に収容された人々が亡くなる前に、必ずその人の宗教を尋ね、その宗教で葬儀を行ったというのは、有名な話です。 次に、【仏教の周辺】 4.(仏教学の泰斗)中村元博士によると、もともと仏典で用いられていた「宗教」という言葉の意味は次のようなものなのです。「仏典で『宗教』という場合は、『宗』と『教』に区別して考える。『宗』というのは、人間が基づくべき元のものという意味であり、我々の思議を超えている言葉では表わせないものである。根本の元のものであるから、『宗』の段階では矛盾も対立もないのである。これに対して『教』というのは、言葉では言い表わせない『宗』を、人に解き明かすために言葉を用いて表わしたものである。すなわち、『宗』を言葉で表わしたものが『教』である。だから、『教』というのは人を導いて根本の境地へ連れていく手段であって、相対的なものであり、いくつあってもかまわないのである。」。  これは、「分け登る麓の道は多けれど 同じ高嶺の月を見るかな」の古歌で表わされるように、いろいろな「教」というのは高い峰の月を目指して分け登る道のようなものであり、どの登山口から登ろうと、目指す高嶺の月である「宗」は同じなのです。それぞれの人が感じるところはみな違うのだから、それぞれの感じるところにしたがって根本の元のものである宇宙の真理を体得すればよいのである、ということになります。 (http://kankyo-iihatobu.la.coocan.jp/2contents19.html より引用) 上記、「分け登る・・・」の歌は、一休禅師の作と伝えられる道歌だそうです。宗教の入り口はいろいろ違っていても、最終的に到達するところは同じであるということを説いているようです。次のサイトもご覧下さい。 (古今宗教研究所) http://www.ko-kon.net/kokoro/shinjin/wakenoboru.html 5.真言宗(真言密教)にも、他宗教に寛容な側面が見受けられるようです。 それは創始者 空海の言葉にも見られるとか・・・ http://www.performanceship.com/blog/2009/09/post-ad78.html それでは、次に、【神道の周辺】 6.先ずはそのものズバリ「神道」というサイトから http://www.shintoism.jp/shinto2.html 「神道」はそもそも「道」であり、「宗教」ではない、とする説もあり、非常に柔軟で、融通無碍な考えを持っているようです。 尚、仏教と神道は、昔から「神仏習合」という言葉にもある通り、大変親密であり、仏教・神道双方の聖職者にも、相互を行き来していた人は多かったのではないかと思います。 次に、【日本の他の宗教や、宗教学者の意見から】 7.「万教帰一」という教えを説いている「生長の家」のサイトから↓ http://www.jp.seicho-no-ie.org/about/index.html http://www.jp.seicho-no-ie.org/faq/11/1105.html 「「生長の家」とは「大宇宙」の別名であり、大宇宙の本体者(唯一絶対の神)の応現または化現のことであり、正しい宗教の本尊は、この唯一絶対なる神を別名で呼んでいるものであるとして、いかなる名称の神仏も同様に尊んで礼拝する。各宗教の礼拝の対象の奥に、人類共通の救いの原理がある。」とのことです。 8.「万教帰一」と似ていますが、「万教同根」という言葉もあります。 以下、「神や霊を認めるお医者さん」矢作直樹氏の著書に関して、 http://aboshiyori.blog.eonet.jp/httpaboshiyoriblogeon/2013/06/7-aa01.html 大本(教)の教えの中にも「万教同根」という考えがあるようです。 http://www.oomoto.or.jp/japanese/outline/outline.html 「万教帰一」、「万教同根」、「万教一致」、「万教一源」などで検索すると、他にも興味深いサイトに行き当たります。 9.最後に、前回も挙げた【インドから】大聖人ラーマ・クリシュナを見てみましょう。 Wikipediaの「思想」の箇所を読むと、「世の中の様々な宗教は究極の一なる神がそれぞれの時代と人に合わせて現れたもので、各々が意義を持つ。究極の一に至るために人は自分に合った道を行けばよいという。」とあります。 彼の言葉を集めた『不滅の言葉』、或いは、ロマン・ロランや中村元による彼の紹介本もあり、大変参考になります。 引き続き、このテーマは探求したいと思いますので、何かわかったら、逆に教えて頂ければ幸いです。長々とお読み頂き、有難うございました。

mamayuki
質問者

お礼

返信遅れて申し訳ありません。 「誰々のこの一言」というのがどうしても見つからないのですが、ご紹介されたものを拝見しておりますと、結構いろんな人が言っていたのかな? … とモヤモヤしつつもそこら辺に落ち着きそうです。 でもそれぞれの宗教を拝見していて、この考え方はやはり神道から出ているのではないかな、と思いました。 「そこ」へ行く道が啓示として書かれているキリスト教他の宗教には、教義のない神道のような柔軟性は本来持ちえないと。(多くの修羅場を通ってやっとこさ現在の寛容に到達したのでしょうけど) 明確な啓示がない神道だからこそ、そこへ行く道はそれぞれが自力で探し出さなければならない、と自由でいながら、ある意味人は突き放されています。だから「個人の救済」の仏教にも人は傾いたのかと。人間は弱い存在ですから。 だから、私が最初に尋ねた「道は何でもいい」というのはたぶん神道系の本を読んでいた中で見つけたのかもしれないような気がしてきました。実際、今現在自分の手元にある仏教系の本を探しても見つからない…。 最後に、昭憲皇太后の御歌 みがかずば玉の光はいでざらむ人のこころもかくこそあるらし こういう内容の和歌は数多くありますが、やはりその根底には神道が透けて見えます。神道的考え方がなければこういう歌はできない。要するに、「心を磨きなさい」と言ってはいますが、「どう磨け」とは言っていないのですから。「それを決めるのはあなた自身ですよ」というのが暗黙の裡にあるのでしょう。 真摯に私の質問に付き合っていただいて本当にありがとうございました。改めていくつもの宗教を同時に見てみて勉強になりました。 かしこ

その他の回答 (4)

回答No.4

全く、素晴らしくまっとうなご質問なのに、この度も、何様かは知らないが、否定から入る回答者の何と多いことか! このテーマは、カトリックという特定の「一神教」の洗礼を受けている私にとって、生涯のテーマであり、受洗後も、私は常に、神ないしは超越者という存在は一つでも、そこに至る道(宗教)には色々あり、それがキリスト教であれ、仏教であれ、イスラムであれ、それ以外の宗教であれ、夫々が尊重されるべきであると強く信じています。超越者の呼び名も、夫々の宗教により、メシア(又はヤーウェ)、大日如来、アラーなどと色々ありますが(キリスト教では、単に「神」という場合が多い)、それは呼び名の問題であり、一つと考えられても差支えないと思います。 宗教的に寛容と言われる日本人の多くも、似通った考えであり、現に、キリスト教などの信者でも、この考えに抵抗のない人は、むしろ多数派だと思います。少なくても、現在のカトリックの立場としては、自分の宗教を最高と信じる気持ちは強いものの、他宗教を排除しようという気持ちはなく、何教を信じていようと、各々の宗教もそれらを信じている人間も誰しも尊重されるべきだという気持ちは変わらないと思います。キリストの「隣人愛」の精神からしても当然ではないでしょうか。 人間として一番大切なことは、「何を信じるか」ではなく、「どんな良いことを実行したか」に尽きます。信仰は良いことをするための道具・手段に他なりません。 一方、こうしたある意味での「節操のなさ」(クリスマスは教会、正月は神社、葬式はお寺に行くことに抵抗がない考え方)を忌み嫌い、一つの宗教にあくまで「忠誠」を誓い、他の宗教を排除しようとする人も確かに多いようですが、他の宗教の施設を訪問したりすることが教義に反するなどとは笑止千万です。 カトリックでは、こうした他宗教に対して寛容な考えが、「第二バチカン公会議」以降、浸透しています。 前置きが長くなりましたが、質問に出されたようなことを言った人は、古来数限りなくおられると思われます。文章通りのことを言った人は特定できませんが、例えば、次のような方がおられます。 1.ラーマ・クリシュナ(インドの聖人)   → wikipediaなどの記事をご覧下さい。 2.「多元主義」の立場を取るJ.ヒックなど 仏教関係の僧侶などにもこうした考えを唱える方は多いと思いますが、具体的に今挙げられない(知らない)のは残念です。ご存じの方がおられたら、是非私も教えてほしいです。

mamayuki
質問者

お礼

ご丁寧な回答ありがとうございます。 NO1~3様の回答を拝読して「そんなに変な質問だったのか?」と自分で驚いているところでした。 いろいろ思いつくままに書いてみたのですが、要するにその趣旨は「大切なことは自分を磨くことであり、手段は人それぞれ」ということだったと思います。 鎌倉時代のお坊さん? と書いたのも、思いつきで、だから「?」を入れてあります。もしかして禅の何かだったかも? …とこれも「?」を入れておきます。 カトリック教会のお話伺って勉強になりました。 私自身は、日本人のこういう、良くも悪くも柔軟な考え方は神道に通じると思っています。 現カトリック教会の寛容さは嬉しく思いました。戦後GHQの靖国神社破壊計画を阻止してくれたのもカトリック教会と聞いています。日本人のひとりとして感謝しています。 ご紹介していただいた聖人のことも少し調べてみます。 また自分自身の質問内容ですが、自分でももう少し探してみます。何かモヤモヤしたままですので…。 それでは改めて、どうもありがとうございました。

  • 0fool0
  • ベストアンサー率18% (134/738)
回答No.3

文章自体に、おそらく間違いか、欠落した前後文があると思います。 趣旨は間違ってはいませんが、用法を間違えたら大変な方向に暴走する事になります。 これをまんま口にする様な僧の名や、其の言葉が残るとは、ちょっと考え辛いです。 二つ三つの言葉を摘み食いして作ったような感じがします。

  • yotsuba_k
  • ベストアンサー率6% (9/148)
回答No.2

 宗教にはある一定のベクトルがあります。即ちどう生きるべきかという事ですな。しかし、質問者の挙げた言葉には手段が重視されていて目的が軽視されている。宗教家でそのような発言をする者はいない。普通はね。  但し、懸命に生きる事によって得られるモノがあるのは確かだし、それが誤った道であるならばそれに気付く事もあるでしょう。釈迦曰く、盲亀の浮木ですな。  初級者向けの社会学みたいな発言だと思いますよ。

  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.1

「人権侵害」は、しないでね。

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