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能動的ニヒリズムについて
ニーチェを読んだこと無いので 誰か教えてください。 結局、ニーチェはキリスト教を肯定しているのですか? 否定しているのですか?
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ニイチェって、若いまだ哲学を知らないシロウトがすぐ飛びつきやすい哲学者なんです。 哲学の専門用語があまり出てこないし、文学的でもあるし、それに「永遠回帰」だとか「超人」とか「ニヒリズム」とか、哲学を専門にする人間からしたら、センセーショナルな言葉が氾濫しいます。 私も18歳の時にニイチエの「ツァラトゥストラはかく語りき」という散文詩だか何だかわからない本を読んで、こんなことはただの誇大妄想だと思ったものです。 ニイチェの「ニヒリズム」というと、かれが「神は死んだ」といったようにキリスト教の信仰が衰退して、神に対する信仰がなくなったから訪れたように解釈する人が多いけど、ニイチェに言わせれば、「ニヒリズム」はキリスト教の神がいなくなったから始まったものではなく、逆で、キリスト教の神がいたから「ニヒリズム」だったのです。 「ニヒリズム」はかれに言わせれば、古代ギリシャからあるもので、西欧の歴史とともにあったものです。 では、「ニヒル」とは何か? 「ニヒル」とは人生の根底が虚無だということ、人生には何らの意味もないことです。 それが人間の人生の本質なのにキリスト教は人生があたかも意味があるかのように、イエス・キリストの物語によって、覆い隠し「隠ぺい」してきました。 人生の真実から目をそらし、それを直視することを怠り、聖書の物語によって、それを読むものが自分がその物語の主人公ででもあるかのように錯覚させ、「隠ぺい」してきた、西欧の歴史はその「隠ぺい」の歴史です。 プラトンは「イデア」が人間の上に君臨し、人間はそれに比べたら実在性の低い仮象にすぎないといって、人間の人生に対する軽視を唱えてきたけれども、中世のキリスト教は人間はその神の被造物といって軽蔑してきました。 その何か人間を超えた超・感性的な価値から私たちの感性的世界を眺めるのを古来より、「形而上学」といってきましたが、西欧の中世はその「イデア」をユダヤ・キリスト教の神による世界の創造という「ドグマ」に結び付け、中世キリスト教世界を形成しました。 プラトンの「形而上学」はキリスト教の「神学」に形を変えました。 だから西欧の哲学の歴史は「形而上学」の歴史であるとともに「神学」の歴史でもあります。 ところが、17世紀にガリレオやデカルトやニュートンが出て天文学・科学に「科学革命」がなされると人々は物事を科学的・合理的に考えるようになり、この世界から神を追放してゆきました。 いいかえると「科学革命」によって、私たちは私たちの感性を超えた価値というものを信じなくなりました。 プラトンの「イデア論」も「形而上学」も必要でなくなり、その結果、ニイチエのいう「意志」だけの世界が訪れました。 「意志」は何ものも目的というものを持ちません。 「意志」は意志の強化と増大だけを追求します。 人生が無意味であっても良い、その無意味を積極的に追及する。 それが「永遠回帰」。 それに対してキリスト教は弱者の宗教で、意志の弱体化をもたらす。 しかも、もともと意味のない人生をイエス・キリストの物語で「隠ぺい」し、あたかも人生が意味があるかのように人々を瞞着してきた。 キリスト教はニイチェに言わせれば「ニヒリズム」の宗教です。 だから、キリスト教は徹底的に破壊しなければならない。 そして、強者の強者のための社会を実現しなければならない。 従来の最高価値、つまり神を否定して価値転換をしてキリスト教に代わる新しい社会を実現しなければならない。 それがニイチエの思想です。 ニイチェは西欧の2500年に渡る哲学と「形而上学」と「神学」の歴史に終止符を打った偉大な哲学者です。 だけどたいていの人はニイチエがそんな西欧の哲学の歴史で画期的な転換を成し遂げた哲学者だということを知りません。 「ニヒリズム」を追求した哲学者、「永遠回帰」だとか「超人」だとかを唱えたちょっと変わった哲学者としか思いません。 ニイチェの哲学を本当に理解するのは、その文学的な表現にかえって邪魔されて、ひじょうに難しいのです。
お礼
回答ありがとうございます。 なるほど。 キリスト教は、ニヒリズムの宗教なんですね。