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自発の「が感じられる」と「を感じる」の違いについて
日本語を勉強中の中国人です。哲学のカテゴリでもお伺いします。自発の「が感じられる」と「を感じる」の違い(形ではなく、ニュアンス上)は何でしょうか。どうも自発が中国語にはないので、大変難しくてその感覚を理解するのに苦労しています。 また、質問文に不自然な表現がございましたら、それも教えていただければ幸いです。よろしくお願いいたします。
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私は『~が感じられる』のほうには「客観性」「可能性、~かもしれない」という印象を持ちます。自分の感覚も曖昧な状態。 『感じる』のほうは、自分ははっきりそう感じているときに使うと思います。
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- 日比野 暉彦(@bragelonne)
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こんにちは。 かつてまなんだ感覚で言うのですが (あ) 下雨。 (い) 有人ロ馬? というような現象文でしょうか これらは 人為的なコトではなく自然に起きたり存在したりするコトを表わしていると思います。 (う) 人真多。 というときには ただ人びとがそこに存在するといったニュアンスであるよりは すでに人びとがそこに集まって来ているということを表わすと思われます。 それと同じように《自発の助動詞 れる・られる》は (あ)や(い)の文例のごとくほとんど自然のままの現象や存在について示そうとする法( mood )活用の表現です。 言語表現についての法とは 気分のことです。自然の気分かそうでないかで分かれます。自然の気分があれば レル・ラレルを使います。 レル・ラレルは 子音の / r / に自然生成の相があると見られます。ラ行の音韻のどれもが その相を表わし得ます。その対義音韻は / s / です。指定する相があり 人為や使役の相をも表わします。 古語のかたちでしるしますが: (え) あっ! (あは!) (お) あぁ! (あは!) と発する言葉に 自然の気分をつけてさらに付け足すなら。いくつかどんどん並べて行きますが: (か) あ‐ラ? (き) あ‐レ? (く) あ‐ル(有る) (け) あ‐ラ‐は ⇒ あらは‐ル(現われる)// あらは‐ス(表わす) (こ) あは‐レ ⇒ あはれ(哀れ) // あっぱれ(天晴れ) (さ) あはれ‐む(憐れむ) この行為が自然に起きたと言いたいときには: (し) あはれま‐ル(⇒憐れまれる) というふうに自然生成としての自発の相を示します。 日本語では 可能を表わすには 《できる(出来る)》という助動詞(補充用言)を用いますが これもじつは《出(い)で来る》という意味であるように 自然の生成の相を表わし この自然生成こそが 可能を表わすというふうに見られて使われるようになった。こう捉えられます。 (す) あらわせ‐ル(表わせる): 可能の法(気分)で示している。 (せ) あらわさ‐レル(表わされる):これは 受け身の法活用です。 つまり 自然生成の相から 可能の相や受動の相もが表現されるようになったようです。この役目は 子音の / r / が担います。古語のル・ラル 現代語のレル・ラレルなどです。 (そ) 感(カン) → 感‐ス(感ず) → 感ず‐る → 感じる (た) 感じ‐ラレル といった成り立ちと経緯でしょうか。 (ち) 哲学 → てつがく‐ル / てつがく‐ス 《感ず‐ル》や《哲学す‐ル》のように さらにあたかも余分に ‐ルがついているのは これは 連体形としての活用形がかかわっています。 つまり体言(名詞)に続けるときには * 感ず‐とき とか * 哲学す‐人とかは 言いません。用言(動詞)と体言(名詞)とをつなぐときには ひとつの型としてですが 感ず-ル-とき 哲学す-ル-人 のごとく ラ行の音を用います。自然生成の相は なじみや親愛の相を示すようになっているからです。 (と) わ(我) → わ-レ(我れ) → われ-ラ(我ら) 親愛称としてのごとく レやラをつけ添えています。ラも もともとは 複数の相ではなかったはずです。
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あけましておめでとうございます。ご親切に回答していただきありがとうございます。いろいろとても参考になりました。
- plokij75
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日本語の専門家ではありませんので、私の場合には、次のように使います。 としか言えませんが。。。 例えば、地震が起きた時に、 1.大きな地震で、立っていられない位に、家が大きく揺れて、自分だけでなく他の人も同じよう感じてる事が分かる場合。と 2.小さな地震で、揺れが小さくて、自分の体では微動を感じているのに、他の人は揺れを感じてる様子がない場合。 があったとします。 1.の場合は、自信を持って、「私は、地震の揺れ”を感じる。”」と言えます。 しかし、 2.の場合は、地震が起きている事に自身が持てないので、「私には、揺れ”が感じられる”のですけれど、地震ではないですか?」と言います。 ですから。。。 1.”を感じる。”は、自分自身が”感じる”事を断言出来る位に強く感じている時に使い、 2.”が感じられる”は、自分自身が”感じる”事が弱く、断言出来るほど強く感じていない時に使うように思います。 また、日本人には、複雑な感覚の人がいて、例えば、教養のある人や謙虚な態度の人等の中には、自分自身では、強く感じているのに、婉曲に表現して、あたかも、弱くしか感じていないかのように、”を感じる”を使わずに、”が感じられる”を使う場合もあります。 つまり、”を感じる”と主観的な表現を使わずに、”が感じられる”という受動的な表現を使って客観性があるように思わせようとする事もあると思います。
お礼
あけましておめでとうございます。ご親切に教えていただきありがとうございます。大変参考になりました。
- ShootToThrill
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質問文は、すごく分かりやすかったです。 相手が何かをすごく主張してる場合には、「が感じられる」がしっくり来そうです。 例)彼がすごく嫌そうにしていることが感じられた。 相手が自然体でいる場合に、こっちが何かを感じた場合は、「を感じる」が良いかと思います。 例)彼の機嫌が良さそうに感じた。 とはいえ、とても微妙な表現ですし、正直、どちらでも不自然には思いません。個人的には。
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あけましておめでとうございます。ご丁寧に回答していただきありがとうございます。とても参考になりました。
- oyuto01
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私は日本人ですが日本人にとってもかなり難しい問題ですね。 私の考えですが両者には言い方の違いはあるけれども明確な違いはないと考えます。 強いて言うなら「が感じられる」は「自分が感じられるという可能形」を表し、「を感じる」は「自分が感じるという事実」を表しているのではないでしょうか。 どちらを使ってもおかしいということはないと思います。 ちなみにあなたの日本語は日本人の私から見ても完ぺきで非常にわかりやすい文章だと思いますよ。よく勉強されていると感心しました。
お礼
あけましておめでとうございます。ご親切に回答していただきありがとうございます。参考にさせていただきます。がんばります。
お礼
あけましておめでとうございます。ご親切に回答していただきありがとうございます。大変参考になりました。