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鉱夫、口に火のついた物をくわえています?

http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/kouzan/sansouzu/l13.html じぇじぇじぇ~~、鉱夫が口に火のついた物をくわえています? これは何ですか? 坑道の中は暗いので灯りでしょうか? 両手が塞がっているので口にくわえているのでしょうか? また、火をつけている棒はなんでしょうか?

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回答No.2

こんにちは。 まずは、ごめんなさい。確かに3人とも赤い灯りでしたね。 >>友人に聞きますと、鉱山では酸欠病が問題になるので火をつけた松明のようなものを持っているのではないかというのですがどうでしょう? う~ん・・・なるほど。考えられなくもないですね。 確かに、例えば、美作(みまさか・岡山県)の小童谷(おじや)銅山や吉岡銅山(岡山県)、長門銅山(山口県)などでは、 「異臭たなびき、巡(まわり)の人足死に至る」 などという記録も散見されますので、これは「有毒ガス」が噴出したことを意味していると思われます。 また、西洋の鉱山などでは、友人の言われるように「カナリヤ」や「インコ」、あるいは、「オーム」などを連れて鉱山に入った・・と言う記録も見られるようです。 佐渡や石見の金銀山なども入口が狭く、金山(やま)の中は空洞・・・酸欠が起きても不思議ではないですね。 しかし、少なくとも史料上では、酸欠によると思われる死亡例は出てきておらず、落盤での死亡例が数多く残っていますね。 また、廃坑になった理由としては、圧倒的に地下水脈にブチ当たっての「水没」が多くみられます。 そのため、佐渡金銀山へは、主に江戸で捕えられた「無宿者」が「水替人足」として送り込まれています。 私は鉱山の専門家ではありませんので分かりかねますが、金銀鉱脈と有毒ガス帯の地層が違うのではないでしょうか。 もっと危険なのは、それこそ、つい最近まで掘られていた炭鉱などでは「カンテラ」というカーバイドの火を灯りとして持って入っていましたよね。 >>昔の鉱山労働者は過酷だったでしょうね~。 佐渡金銀山の例をとると、 人足小屋は逃亡を防ぐため、窓などは一切無く、1日中梁に鈎棒(かぎぼう)を引っかけて魚油を灯していました。 従って、夏は蒸し風呂状態、冬は急場造りで壁板には隙間が空いており、そこから雪が積もるほどに吹き込んだ・・・とあります。 水替の作業は人足を二組に分けて一昼夜交代(明け六ツ~翌朝の明け六ツまで)で、作業日には米の支給が1升2合、休番の日は米5合の支給。その他としては、味噌や野菜、塩、醤油などが支給されました。 入り番の日は朝早く起きて、米を炊いて「にぎりめし」にすることから始まりました。 敷内(坑内)では、5~6人が一組となって、「かな樋(とい)」と呼ばれる井戸の釣瓶桶を大きくしたような道具で一段上の枡に水を汲み上げ、その上の者がさらに上の枡に水を汲み上げる、といった方法で、およそ一刻に一人ずつ交代で休憩を取り、その間ににぎりめしを食べたり、つかの間の仮眠をとったりした、とあります。 まあ、話せば長くなりますので、これらのことはまたの機会がありましたら、お答しましょう。

noname#190665
質問者

お礼

何度も回答ありがとうございます。 回答者さまは細かい記録などもチェックされておられるようで 尊敬します。 有毒ガスで立ち入り禁止になっている山とか、山で有毒ガスを吸って死亡したなんてニュースがいまでもありますものね。 いやー、鉱山の仕事ってほんとに大変~。 鳥をもって鉱山に入るのは西洋の記録にあるんですね。 日本はそのあたりは無頓着だったということかもしれないですね。 史料上では、酸欠によると思われる死亡例はないんですか。 そうではなく、落盤での死亡例が多いと。 水没ですか~。 日本は雨が多いですからね。 鉱山は水との戦いでもあったことでしょうね。 おっしゃるとおり金銀鉱脈と有毒ガス帯の地層が違うのかもしれないですね。 ではないでしょうか。 佐渡金銀山のお話しは 蟹工船を思い出させます~。 あ、でも今でもひどい職場ってありますよね。 こないだも外食産業で働く人が残業つづきでうつになって死亡したといっていました。 たくさん教えてくださってありがとうございました。 またよろしくお願いします。

その他の回答 (1)

回答No.1

こんにちは。 私は、自称「歴史作家」です。 回答から先に述べますと、あなたの言われる通り、 両手を自由に使うために口に加えた灯りだと思います。 また、木の棒は、たぶん「松の木」を細く削ったものと考えます。 松の木はご存知の通り、松ヤニにより火持ちも良く長時間燃えますので「松明」(たいまつ)として良く使用されていましたよね。 ちなみに、佐渡金銀山および石見銀山の場合ですと、 素焼きの小皿に魚油を満たして、片手に持って坑内を移動しました。 また、坑内作業においても岩に窪みを掘り、魚油の灯りを置いて仕事をしました。 魚油は、一番劣等な油で匂いもきつく、ススも多量に出ました。 しかし、当時の劣悪な労働条件から、胡麻油やナタネ油などは高価であるため金銀山(やま)での職人は、一番安い「魚油」が支給されていました。 従って、佐渡や石見の金銀山の史料を見ると、零れた油で廊下(坑内の本筋の道)や梯子などもヌルヌルして滑りやすくなっており、細心の注意を払って移動したことが記されています。 また、梯子と言っても、ただ単に丸太や角材に掘り込みをしただけの簡単な作りであったため、油で滑りやすくなっていました。 坑内を移動する職人としては、佐渡や石見の場合ですと、 「たがね通い穿子(ほりこ)」 大工(岩盤を掘り進む者)のタガネ(鉄製のノミをやや大きくしたような物)は固い岩盤に打ち付けるたるめ、すぐに先が損じてくる。こうした「チビタガネ」を集めて回り、外の鍛冶小屋へ運ぶ。鍛冶小屋では「ふいご穿子」が休みなくふいごを鳴らし鍛冶師がたがねを打ち直す。出来上がったたがねを「たがね通い穿子」が再び、大工に届けて回った。 ちなみに、佐渡では家を建てたりする者は「大工」とは呼ばず、「番匠」(ばんじょう)と呼んで区別していました。 「荷揚穿子」 大工の掘り出した岩石を叺(かます)に入れ、およそ五貫目の荷を二個背負って狭い敷内(坑内)を何度も行き来した。 「山留職人」 梯子(はしご)作りや支柱や梁を渡したりする。また、「打ち替え」と言って、岩の裂け目に留木を打ち込んで崩落を防いだりした。「山留職人」はいつも危険な場所で仕事をしていたため、落盤の犠牲者は彼らが一番多かった。 あなたの示した図を見ると、どうやら「荷揚穿子」のような気がします。 青い灯りの人は現場に向かう人、赤い灯りの人は荷物を背負っている人かと思います。

noname#190665
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 >両手を自由に使うために口に加えた灯りだと思います。 やはりそう思われますか。 石見銀山の史料を見ると、貝殻に油をいれて片手に持っている絵がありました。 教えていただいたように、素焼きの小皿や松の木を削ったもの、貝殻など、いろいろな道具を使っていたのですね。 友人に聞きますと、鉱山では酸欠病が問題になるので 火をつけた松明のようなものを持っているのではないかというのですがどうでしょう? 酸欠や有毒ガスに対処するため、カナリアをつれていく、というようなことがあるようですが これと同じように火をつけた松明を持っていけば、酸素がなくなると火が消えるので、対処することができるというのです。 しかし、引火性のあるガスなどが充満していた場合、松明なんかをもっていると爆発したかも? 命がけだったでしょうね~。 >従って、佐渡や石見の金銀山の史料を見ると、零れた油で廊下(坑内の本筋の道)や梯子などもヌルヌルして滑りやすくなっており、細心の注意を払って移動したことが記されています。 >また、梯子と言っても、ただ単に丸太や角材に掘り込みをしただけの簡単な作りであったため、油で滑りやすくなっていました。 それは作業がやりにくそうですね~。 「たがね通い穿子(ほりこ)」 「荷揚穿子」 「山留職人」 などについても教えてくださってありがとうございます。 昔の鉱山労働者は過酷だったでしょうね~。 >青い灯りの人は現場に向かう人、赤い灯りの人は荷物を背負っている人かと思います。 すいません、青い灯りの人というのがよくわかりません。 3名とも赤い灯りを持っていると思いますが?