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人は誰でも覚り得る

こんばんは。 私は、世の中に散見される仏教知識の中に、人は誰でも覚りえる、という言を聞いたことがあります。 私自身も、人は誰でも覚りえることを信じています。そうでなければ覚りなど只の何かの特殊な境地の一つに過ぎず、普遍性のないものとなってしまうでしょう。 私は覚っているわけではありませんが、それでもそのような希望を持っています。 皆さんは、覚りについて、誰もが覚りえると考えられるでしょうか? よければその考えの根拠とともに示して頂けないでしょうか。 どうぞよろしくお願いします。 因みに私が、誰もが覚り得ると信じるのは、其れが平等というものであるからと考えるからです。

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noname#196137
noname#196137
回答No.2

「覚り」とまではとても言えないんだけど、最近テレビを見て思ったこと。 (NHK ETV特集「ひとりだ でも淋(さび)しくはない~詩人・加島祥造 90歳~」) 心身ともに恵まれ、努力が実り、社会的にも成功者だと思われるような人も、 ハンディーがあり、挫折や諦めの多い中で生きてきた人も、 地に足をつけ、自分なりの人生を、しっかり生きていれば、 どちらも、行きつけるところは同じなんだなあ。 与えられた境遇によって、ただ歩むべき道のりが、ひとりひとり違うだけなんだ。 彼がベストセラーの詩人であるのは、彼の詩集を読んで、不満だらけだった自分に、肯定的になれる人が多いからでしょう。

a_hona
質問者

お礼

こんにちは。 私の好きな言葉に、「配られたカードで勝負するしかない」というものがあります。スヌーピーの言葉なのですが。 おっしゃるように、様々な境遇のある中で、人は生きてゆかなければなりません。そして、その土台が全てを決定するのではなく、いかに歩んだかで決定されるものであって欲しいと思います。 そのNHKの番組は見逃してしまいましたが、私もそのように思います。 ご回答ありがとうございました。

その他の回答 (3)

  • kanto-i
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回答No.4

誰しも悟りえるだろうと私も思っています。 悟りは「我が心」 自分を深く理解していけば、その先に今より出来ることが待っている。 午前中に嬉しい報告を受けました。 気持ちの切り替えができ、時間に余裕ある行動が仕事でもプライベートでも できるようになってきたと言うことでした。 理解は「知る」ではなく体験から育まれます。 知識を元に私を理解する体験に繋げると、その人がより成りたいその人に成っていく。 理論を深く解ってしまえば、そんなに難しいことじゃない。 形的には難しいことじゃないだけに、実践する人が少ないように思います。 他の誰でもない。 私が私の事を十分に理解してあげる。 そしてやりたいことをやる。 それは日常であり、特別なものではないと思います。

a_hona
質問者

お礼

平易な柔らかい物言いで、とても読みやすい回答をありがとうございます。 他ならぬ私自身を知ること、何か覚りが外にあるように考えていた私にとっては目からウロコの気持ちでした。

  • tomoka_m
  • ベストアンサー率9% (15/151)
回答No.3

重要なのは、何を「覚る」のか。それに尽きます。 ここの哲学カテにも、悟ったと勘違いする者が続出していますよ。 悟ったと勘違いしている愚かしい者ばかりですがねw まあ、これに関してしっかり考慮するならば、質問者の言う 「覚り」とは何なのか、その定義を明確にする事です。

a_hona
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 何を覚るのか、自分にはわかりません。 しかしながら、生まれてよかった、人生の意味を知った、そのようなことを目指しています。 おっしゃるように、覚りとは何なのか、大切なことと思い再考して見ます。

noname#215306
noname#215306
回答No.1

悟り・解脱というのは、道徳心や心持ち・思考・哲学な どで達成出来る物ではありません それらに於いてたとえある程度十分な性質と素養を達成 または生まれながらに持っていたとしても、それは就学 前の状態でしかありません 秘教でいう所の大前提(キレイ事ではない人格・人間心 )の完成へ向けた向上・進化も、霊的能力とそれらに拠 る自己探求・確認がなければ完成はし得ません 悟り・解脱というのは一応、明確といえる物理現象です > 私自身も、人は誰でも覚りえることを信じています。そうでなければ覚りなど只の何かの特殊な境地の一つに過ぎず、普遍性のないものとなってしまうでしょう。 いや実際にそのままでありそれが現実です、、その1つ の証しといえるのは、秘教の素養のある者には3つの証 しがもたらされます 1、始めに銀の球体か粒が胸に飛び込んで来る現象 2、自身の生霊人の来訪を受ける 3、天女・神女・竜女いずれかの来訪を受け、性的儀式 に於いて様々な事を学びます この3つの素養の現象を受けない場合、悟り・解脱への 向上・進化は素養がないという事で今生では諦めざるを 得ないようで、 なので普通、素養が与えられていない場合には、来世か 未来生または霊界での向上・進化の為の下準備の修養に 努める事になるようです

a_hona
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 覚りは、確かに道徳心や心持ち、思考や哲学で達成できるものではないと私も考えます。しかしながら、道徳心や心持ち、思考や哲学を欠いていても、ダメだと思います。 秘教的な解釈も縁によっては覚りに通じていると私は考えます。 覚りは摩訶不思議であり、覚りとは何かがわからないまま、人は覚りを目指すのに、終局においては覚りを実現するものであると聞いたことがあります。 例えば幾筋にも分かれ、蛇行する川の水が、必ず海に到達するようなものであると。 最初の入り口、覚りに興味を持つことが、秘教であったり、自己啓発であったりしても、終には本当の覚りへの道に合流するものだと思います。 霊的なことやオカルト、ニューエイジ的思想であっても、終には大道に合流すると思いました。覚りを求めるなら。