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四十七士以外の赤穂藩の侍について

早速で恐縮ですが 釣りバカ日誌20で、主人公が知り合いに 「四十七士以外の藩士は、その後の人生を”ひきょう者”とか “意気地なし”とか言われ辛い思いをした~云々」のセリフが ありました。なるほどと思い、自分なりに検索したつもりですが うまく調べられません。 ご存知の方がいらっしゃれば、教えて頂けると幸いです。 ご面倒であれば、文献等ご紹介頂くだけでも結構ですので よろしくお願いいたします。

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  • oska
  • ベストアンサー率48% (4105/8467)
回答No.3

>「四十七士以外の藩士は、その後の人生を”ひきょう者”とか、“意気地なし”とか言われ辛い思いをした~云々」のセリフがありました。 あくまで、映画の台詞ですね。 江戸時代は、赤穂残党の討ち入りは庶民などの喝采を受けていません。 名古屋藩藩の記録でも、「江戸でイザコザあり」と数行書いているだけです。 ※公式文書でも、藩外に出ないので記載内容は藩主など一部の役人しか見る事が出来ません。 ですから、四十七士以外でも「卑怯者」「意気地なし」と言われる事はなかった様です。 そもそも、赤穂藩は「藩士の8割近くが中途採用」です。 「二君に仕えず」は、通用しませんよね。^^; 藩士の出身地は全国にまたがりますから、優秀な人材の多くは他家へ仕官しています。 「再就職の時間を与える」「再就職出来なかった者が、暴動を起こさない様に」が、大石さんの本音との説も有力です。 仮名手本忠臣蔵の影響と、明治政府の「忠義思想」の影響でしようね。 映画・ドラマになっている忠臣蔵は、フィクションに過ぎません。 赤穂藩断絶も、領民は赤飯を炊いて喜んだとの資料もありますからね。 そうそう、忠臣蔵で悪名高い大野九郎兵衛。 彼は、赤穂浪士2番隊体長との説もありますよ。(碓氷群史) 磯部温泉で有名な磯部村で、林遊謙と改名して潜伏していました。 「本所での襲撃に失敗した場合の、備え」だとか・・・。 添付画像は、大野九郎兵衛の墓と伝えられている墓碑です。

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  • rikimatu
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回答No.2

かなり冷遇されたらしいです。 何かで見たのですが、野菜などを買いに行ってお前に売る物はないと言われ売ってもらえなかったりしたらしく その子孫と分からないように改名してたらしいですよ。

  • ithi
  • ベストアンサー率20% (1972/9601)
回答No.1

kunuoo さん、こんばんわ。 赤穂藩は断絶時士分だけで308人いたとされています。女中から小物まで入れると400人くらいだったと言われます。 47人しか忠臣がいなかったということになります。 討ち入りに参加した人の家族は仕官の口があるなど世間から優遇されましたが、その反動で参加しなかった人は相当世間から冷遇されました。それは幕末まで続いたそうです。 詳しくは下記のURLを参照してください。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E7%A6%84%E8%B5%A4%E7%A9%82%E4%BA%8B%E4%BB%B6#.E3.80.8C.E4.B8.8D.E5.BF.A0.E8.87.A3.E3.80.8D.E3.81.AE.E3.81.9D.E3.81.AE.E5.BE.8C

kunuoo
質問者

お礼

早速の回答、ありがとうございました。 引用ですが下記の文で、討ち入りに参加しなかった方々の面目は 立ったのではないかと思いました。   また、「不忠臣」と呼ばれるが、討ち入りを事前に密告した者はいなかった。 そのご家族まで辛い思いをされたとは・・・。 なんともやるせないというか、なんというか。 歴史には、日なたもあれば影もあるんですね。(当たり前ですが。(笑) 大変参考になりました。ありがとうございました。

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