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薩長の田舎侍、田舎武士。
薩長の田舎侍とか田舎武士とかいう言葉がありますが、 いつ頃、だれが言い始めたのですか。 薩長の連中に反感をもった江戸の町人たちがそう言っていたのですか。 天保の改革という名の圧政で徳川を快く思っていなかった庶民は、新政府に期待し、おおむね好意的であったということはありませんか。 そのような風潮を苦々しく思った誰かが、後年、小説や新聞で広めた言葉ではないのですか。 よろしくお願いします。
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必ずしも江戸の町人に薩長の人々がよく思われていたわけではありません。 京の人に薩長土の人間が人気がでたのは、公家工作政界工作や藩同士の付き合いのために樽をぶちまけるかのように祇園界隈で金を使いまくって京の町が好景気になった影響が多分にあります。 一方それまで江戸に重要人物が集まり江戸に参勤交代をして江戸が一大消費都市だった時代は江戸の町人は潤いますが、それが重要人物は京に集まり政治決定し、参勤交代はどこの大名もサボタージュとなると、江戸は一気に人と金が集まらなくなります。 彼らの世話をすることで成り立っていた江戸の町人の暮らしは一気に成り立たなくなります。 当然時代を変え江戸を不景気にした薩長の行為を江戸の町人が面白く思うわけはありません。 田舎侍という言葉はわかりませんが、芋侍と薩摩藩士を馬鹿にする言葉は当時からありました。 まあ訛りがきつくて言葉が通じないので揶揄されやすいのでしょうが。
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NO3です わざわざご丁寧なお礼を記入して頂きありがとうございます。 お礼の中に ○最近は、歴史の常識とされてきた事柄が実はそうではなかった、というような話がときどき出てきます。 とありましたので若干補足させて頂きます。 実は、の話が出て来るのにはおおよそ三つ程の理由があります。 (1)明治政府が自身の正統性を強調する為に、藩幕体制の欠点を殊更に強調して教育しました。 (2)第二次世界大戦後に、左翼系の人達が社会主義思想普及の為に、ヨーロッパの社会制度を無理やり藩幕体制に適用して、極めて歪んだ解釈が広く教育界に広がりました。 (3)江戸という都市と城下町とでは、情景が非常に異なりますが、時代小説では、江戸の情景をそのまま城下町の情景描写に適用しています。 (文芸作品としての評価とは異なりますので誤解無きよう願います) 江戸という町は、武家と庶民との人口比がほぼ5:5でした。 武家50万人、庶民50万人、その他(寺社) これに対して、各藩の武家の人口比率は2~3%でした。 更に、各藩は武家が領内を勝手に歩き回ることを嫌い、城下町に住むことを求めました。 藩によっては法令によって、城下を離れて領内に立ち入ることを禁止しているところもありました。 薩摩藩だけは、兵農分離が徹底せずに、農村部にも武家が耕作をしながら生活する、という極めて特殊な藩でした。 藩幕体制は諸外国とは異なり、権力と富の所有を徹底的に分離運営していました。 典型的なのが、大名の区分です。 外様大名は、幕政には一切関与できませんでしたが、禄高は譜代大名をはるかに超えた大藩が多数ありました。 幕府は、大名の経済力を削ぐために、参勤交代と公共工事の請負を強制化していました。 薩摩藩は、江戸から最も遠く、1年おきに殿様が江戸と薩摩を往復する費用は莫大なものでした。 薩摩と並ぶ加賀の前田家は、江戸との距離も近く費用負担は左程のものではありませんでした。 薩摩は、外様の雄藩として前田家と同様の交際を求められ、それにかかる交際費は相当な負担となっていました。 これに薩摩藩内の特殊な事情が加わり、江戸時代末期には膨大な借金を溜め込んでしまいました。 財政は完全に破綻していました。(江戸藩邸内に現金が全く無いということもありました。) だいぶイメージが違うことを御理解いただけましたでしょうか。
お礼
再度のご回答ありがとうございます。 大変よく解りました。 「薩摩は雄藩である」からと言ったところで、台所は火の車だったのですね。 「実は、の話が出て来るのにはおおよそ三つ程の理由があります」との解説はとても参考になりました。 どの理由も成程と納得しています。 特に(1)(2)の理由は思い当たる節があります。 日本史は、60年以上も前に中学生で習ったきりですから。 ご教示に感謝します。
相当古い時代からありました。 天保の改革とは無関係です。 江戸っ子という言葉が最初に書き記されたのは、明和八年(1771年)の年に読まれた川柳とされています。 1688年~1703年のいわゆる元禄時代は上方文化です。 1603年に徳川幕府がスタートして以来全国各地から人口の流入が続き、元禄時代ごろから落ち着きが出始めましたが、文化の発信地は依然として上方でした。 18世紀中頃から、いわゆる江戸生まれ江戸育ちの人達が人口の大半を占めるようになってきました。 この頃から、江戸っ子意識が出始め、地方から参勤交代のお供で出てくる武家を田舎者扱いし始めました。 言葉も江戸弁が主流となり、方言は田舎者の言葉だという意識が強くなりました。 特に、薩摩は、特有の薩摩弁を使うので相当に違和感があったようです。 このころから、誰が言うともなく、浅黄裏(あさぎうら)という言葉が使われるようになりました。田舎侍(いなかざむらい)という意味です。 藍は木綿を丈夫にする性質があるのとともに、染めを繰り返すことにより深みがましてきます。 薄い緑に近い藍色の木綿地を着物の裏地として使うのは、安い着物とされていました。 紺色は「花色木綿」と呼ばれていました。 江戸文化の最盛期である1804年~1829年の文化文政時代には、武家は困窮していました。 この頃から、浅黄裏は「田舎侍=貧乏侍」を表す言葉として定着しました。 特に、薩摩藩の困窮は酷く、江戸藩邸の家臣は衣服もままならない状態で、町人が取引を辞退するような状況でした。 同様に長州藩も困窮が進み、薩摩藩ほどではないにしても、決して豊かとはいえない状況でした。 幕府が倹約を強要したのは天保の改革だけではありません。 享保の改革、寛政の改革などしきりに贅沢取り締まり令が出されています。 つまり、薩長を田舎侍扱いしたのと、幕政の倹約令とは直接関係がありません。 薩長がことのほか嫌われるようになったのは、むしろ幕末から明治初期にかけてです。 特に薩摩藩は兵農分離が徹底していませんでした。 袴は、江戸では武家のごく普通の外出着でしたが、薩摩では下級武士が着用することを認めていませんでした。 官軍として江戸へ進駐してきた薩摩兵が真っ先に願い出たのが袴の着用でした。 上野の西郷像がおそろしく気楽な恰好をしていますが、江戸っ子からすれば寝間着姿以外のなにものでもありません。 到底武家の姿とは思えませんでした。 この下級薩摩兵が当初略奪行為を頻繁に行い徹底的に嫌われました。 江戸っ子からすれば薩摩兵は百姓なのか武士なのか全く見分けがつきませんでした。 へんな言葉を使う成上りの乱暴者以外の何物でもありませんでした。 面と向かって田舎侍とは決して言いませんでしたが、江戸っ子どうしでは「浅黄裏」で充分お互いの意志の疎通はできました。 鹿児島県民を誹謗している訳ではありませんので、誤解なきよう願います。
お礼
丁寧なご回答ありがとうございます。 よく解りました。 最近は、歴史の常識とされてきた事柄が実はそうではなかった、というような話がときどき出てきます。 それで、「薩長の田舎武士」という言葉を見つけて、ホントに薩長は嫌われていたのかな、と思って質問しました。 「特に、薩摩藩の困窮は酷く、江戸藩邸の家臣は衣服もままならない状態で、町人が取引を辞退するような状況でした」は、意外でした。
- ithi
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kouki-koureisya さん、こんばんわ。 天保の改革という名の圧政で徳川を快く思っていなかった庶民といいますが、それとこれとは話が別です。 薩長の連中に反感をもった江戸の町人たちがそう言っていたのです。 江戸の町民は公方様が江戸にいるということが一種のステイタスになっていましたから、江戸の習慣に疎い辺境の大名に過ぎない薩長の武士たちから支配を受けるのを潔しとしなかったのです。
お礼
ご回答ありがとうございます。 江戸の町人は「江戸は公方さまのお膝元」と思い、それを誇りにしていたのだから、薩長主体の新政府軍に反感をもっていたはず、と私も思っています。 それを承知でホントにそうかな、天保の改革で締め上げられた庶民の多くの反応はどうだったのだろう、と思って質問しました。
お礼
ご回答ありがとうございます。 薩摩藩士を小馬鹿にした“芋侍”という言葉が当時からあったのですね。 もともとあったこの言葉から、誰かが薩摩の田舎侍や田舎武士と表現したのかも知れません。 ちょっと調べてみますと田舎武士や田舎侍という言葉も私が思っていたよりはずっと少ないですね。 >当然時代を変え江戸を不景気にした薩長の行為を江戸の町人が面白く思うわけはありません。 >訛りがきつくて言葉が通じないので揶揄されやすいのでしょう なるほど、そういうことですね。納得しました。