• ベストアンサー
※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:組織としての宗教は 違憲ではないか)

組織としての宗教は違憲ではないか

このQ&Aのポイント
  • 宗教組織は結社の自由になじまないのではないか?信教の自由を侵しかねないかたちと内容をもって憲法違反ではないか?
  • 宗教は個人の内面主観において自由に成り立つが、宗教組織は信仰から得られた生活態度を表現したものである。
  • 宗教組織では信仰が教義化し組織化されることで、倫理規範となり組織の運営や人間の関係の基準となる。このような組織の権限関係は人間の自由を侵すものではないか?

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • a_hona
  • ベストアンサー率21% (95/444)
回答No.28

要するに、神、謎の何かについては、天啓によって語られる、と言ったところだろうか。そしてそれとは別に謎の何かに対して開かれた窓、主の言う非思考の庭があって、そこで信仰というものが成り立っていると。 このような概要でいいのだろうか。 俺は天啓については寛容だ。それが哲学かどうかはさておき、本人が天啓、啓示だというのだから、それはそれでそうだと認める。 啓示の内容が神の性質を語ったものならば、啓示によって得た知識としてそれは認めるというのが俺のスタンス。 ただ、神学でそれが通用しても、哲学で通用するかどうかは知らん。哲学には哲学の体系に準じた標準となる言語が形作られているだろうから。哲学の言葉で言うならば、非思考の庭というのは所謂、悟性の働くところではないかと思う。 主の独特の言葉も、哲学用語に翻訳できるかもしれんな。俺の知識じゃ無理だが。 ところで、天啓とは何かという問いについてはまだ未提出であり、また別件となると思うから、今は問わない。天啓が何故生じるのかとか、それは何の顕われであるとかは、結構な量のある問答になりそうだから、ここでは問わない。 現行のありとあらゆる宗教組織が、信教の自由を侵しているのではないかという最初の問いに答えようと思う。 答えは侵してはいない。 自らの内的な信仰が、外的な何かの力、例えばヒエラルキーのそれなどによって屈するのであるならば、そもそも内的な信仰などなかったのである。 私的な感想になるが、私の知り合いで、少なからずの人々が宗教者であるが、内的な信仰と、外的な集い、を両立している様に見受けられる。そういうことからも、主の言う信教の自由とはそもそも侵されるのが難しいのであり、個々人で大事にしておればいいものであり、おおっぴらにする必要のないメンタルな部分であり、共有するのも難しいものである。例えば他人が親族になりがたい様に、おのが信仰というものは他者と共有することが難しい。むろん、あくまでも信仰が内的なものと外的なものに分けて考えられるという前提を受け入れて話してはいるのであるが。要するに、結社したくらいで信仰は揺るがないし、破門されたところでどうともない。というのが、主の言う内面主観における信仰の場合である。ただ、繰り返しになるが、あくまで主の信仰の定義を前提にして考えた場合、違憲にはならないということである。他の普遍的な信仰の意味や定義を用いた場合には、いささか複雑な問題になると思う。

bragelonne
質問者

お礼

 お早うございます。ご回答をありがとうございます。  ★ 要するに、神、謎の何かについては、天啓によって語られる、と言ったところだろうか。そしてそれとは別に謎の何かに対して開かれた窓、主の言う非思考の庭があって、そこで信仰というものが成り立っていると。  ☆ 《天啓》と《ヒラメキ》とは 同じものです。  信仰とは――少なくとも本人の意識においては――関係なく得られるヒラメキはあります。  もし何故かは分からないが特別のヒラメキだと思ったものがあったときには そしてそれが初めての体験であったときには これを 神の訪れだと捉えてみるわけです。  この雲をつかむようなナゾを受け容れるなら わが心に《非思考の庭》が――すでに分かっている《思考の緑野》や《感性の原野》とは別に――成ったと捉えるわけです。つまり 信仰のことですが。  信仰にかんするヒラメキなら 霊(スピリトゥス)が注がれるといったこと(つまり インスピレーション)として  天啓とか啓示とかという言葉でも表わします。  つまり言いたいことは  ★ 要するに、神、謎の何かについては、天啓によって語られる、と言ったところだろうか。  ☆ というふうに最初から《天啓》があったという捉え方は ふつう しないと思うことです。中国人なら――或る意味で 《神》に関係なく・もしくは神にかんしてあいまいなかたちで―― 《天啓》と言ってしまうかも知れませんが。  ナゾの何ものかを 神として捉えることは すでにしているでしょうね。  そうして わが心に《非思考の庭》が成ったと 自分で確認できて来たとき それを信仰として――つまりは 神とわれとの関係なる動態として――受け留める。  そこでのヒラメキについては 特に啓示としても捉える。  また 最初の訪れというのは わが心の窓をあたかも神がノックしたかのようなものだとタトエとして捉えてみる。  さらには この神を概念として把握しようとこころみる。  ・・・といったことが この順序で起きると見ます。  つまり言っときますが 初めに《天啓》という概念があって その概念(ないしそれを説く人間がいたときには オシエ)によって ヒラメキを得るわけではないということです。先に天啓という概念を持ってそれに合わせてヒラメキを規定するといったことは 信仰をオシエ化してしまっている宗教の規範に毒されています。  だから  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  俺は天啓については寛容だ。それが哲学かどうかはさておき、本人が天啓、啓示だというのだから、それはそれでそうだと認める。  啓示の内容が神の性質を語ったものならば、啓示によって得た知識としてそれは認めるというのが俺のスタンス。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ こういったしばしばインテリ層に見られるようなコメントが出て来る。そうではなく 決してそうではなく 初めには ヒラメキがあります。何だか分からない出来事が先です。つまり 白紙状態の問題です。  白紙状態に わざわざもったいぶって《天啓》などと言うような術語があってはたまりません。それは クリスマスツリーの飾りです。カザリとは しばしば世の中のシガラミのことです。世を渡るには必要かも知れませんが 信仰にとっては 余計なもの・余分なものです。  なんで非思考の庭に咲くヒラメキの花を オシエによって枠づけ最後までそのタガを嵌めて見ようとするのでしょう。樅ノ木本体だけの自然本性を思ってください。白紙状態という説明は 分かるとか言っていたぢゃないですか。  組織立った宗教は 余分なものです。カザリですが しばしば足を引っ張るシガラミです。宗教は 信仰の自殺行為として始まり そのような蝉の抜け殻として成立してしまった鬼子です。    ★ 哲学の言葉で言うならば、非思考の庭というのは所謂、悟性の働くところではないかと思う。  ☆ だから 思考の緑野や感性の原野とは別だと言ってるぢゃないですか。なぜなら ナゾの何ものかは 経験世界を超えていると見たからです。経験事象は 有るか無いかです。測定できます。ところが ヒラメキにおいてわたしをおとづれたナゾの何ものかは 有るとも無いとも分からない。波か粒か分からない。ついぞ分からない。分かるか分からないか それが分からない。これが 《非経験の場》と呼んで想定する神のことです。これをわが心に受け容れるなら そこに《非思考の庭》が成るという寸法です。《考える》でも《感じる》でもない。ゆえに 《信じる》と呼んで区別し用いるのです。  《悟性》は 認識にかかわる《考える》です。理性も知性も意識もみな 思考の緑野という領域に属します。  《非思考の庭》として定義し その見方を哲学としてどうですかと提起しているのです。  ★ ところで、天啓とは何かという問いについてはまだ未提出であり、また別件となると思うから、今は問わない。  ☆ 宗教者にとっては カザリとして必要でありあるいは重要であるかも知れないが こちとらには一向に不必要である。また その原形については ヒラメキという説明にすでにふくまれている。《未提出》ではない。まして《別件》ではない。宗教家は どう言うか分からないが。どう言っても くだらんとあらかじめ一括しておけます。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  現行のありとあらゆる宗教組織が、信教の自由を侵しているのではないかという最初の問いに答えようと思う。  答えは侵してはいない。  自らの内的な信仰が、外的な何かの力、例えばヒエラルキーのそれなどによって屈するのであるならば、そもそも内的な信仰などなかったのである。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これは じつは 精確な哲学としてのこたえである。  人間の主観内面が 他人の言葉や強要やによって侵されるということなどはあり得ません。心理として心のウワベに波風が立つくらいのものです。    ですが それを知っていて 良心・信教の自由なる人権を侵害しているのではないかと問うています。  これは けっきょく言ってみれば ヒエラルキアの権限や秩序に反対し抵抗する者に対しては どこまでもそれを押さえつけ 抹殺はしないとしても けっきょく社会的生命を消してしまおうとする。ここまでのウゴキは 最初の・信仰の自殺行為としてのオシエ化および組織化としての宗教の成立の時点ですでに孕まれていた。こう見るわけです。  つまり 言わば搦め手から 良心・信教の自由を侵している。こういう論法です。  すなわち  ★自らの内的な信仰が、外的な何かの力、例えばヒエラルキーのそれなどによって屈するのであるならば、そもそも内的な信仰などなかったのである。  ☆ と言うのが 筋であると同時に 実際問題は 微妙に違う。そのようにして《内的な信仰》が保たれる――つねに保たれ得る――にしても 生活が成り立たなくされてしまう。という外的な攻撃を受け 言わば内的な信仰も 社会の隅に追いやられ 人間関係の真っただ中にあって孤島となって生き永らえなければならなくなる。こういう情況であり事情であり 実際問題であると考えます。  つまりは ひと言で言って 内面に生きる信仰がわざわざ外に出かけて オシエ化しかつ組織化した宗教 これが その誕生そのものにおいて ひとの自由を侵す鬼子である。と結論づけます。  文献学やそれを基礎とした宗教学については あり得ますが(つまり オシエのみの問題としては あり得ますが) 宗教は そうだとしても 信仰にとってその蝉の抜け殻でしかない。こう結論づけます。  ★ むろん、あくまでも信仰が内的なものと外的なものに分けて考えられるという前提を受け入れて話してはいるのであるが。  ☆ この《外的なもの》は すでに信仰ではない。というのが 証明以前に明らかな命題です。  内面において得られたヒラメキから 何とかして思考や感性の場に言葉化して持ち出して来る。その言葉が オシエであり これを神聖にして侵すべからざる教義とした組織宗教は すでに信仰から別の世界に移ってしまっています。  ★ 要するに、結社したくらいで信仰は揺るがないし、破門されたところでどうともない。というのが、主の言う内面主観における信仰の場合である。  ☆ そのとおりです。したがって最大限譲歩したかたちとしては 組織宗教は その扱うことが《信仰》ではないと言っていなくてはならない。また 信仰を外から扱ってはならないとしっかりと自覚しなければならない。こう言ってやらねばならず それが守られれば 文句を言うのを控えねばならないかも分かりません。  ★ ただ、繰り返しになるが、あくまで主の信仰の定義を前提にして考えた場合、違憲にはならないということである。他の普遍的な信仰の意味や定義を用いた場合には、いささか複雑な問題になると思う。  ☆ 《違憲》という技術的な問題ではなく 憲法の精神として・あるいはまた その以前に 人間とその自由のあり方の問題として 哲学はしっかりと事態を見究め見解を明らかにしておかねばならない。ほかの定義を用いるというのなら わたしの定義とかみ合わせて論じることになると思われます。  というより これまで《信仰》についての定義は なされていないのではないか。《非思考》であるということ。これは アウグスティヌスと親鸞とにわたしがまなんで得た結論のひとつです。ほかに言っている見解は ないのではないか。  (4,000字)

その他の回答 (27)

  • a_hona
  • ベストアンサー率21% (95/444)
回答No.18

もし、誰もが絶対の神の威力、威信を笠に着て論争しているなら、それは不毛になるだろう。決着がつくからには、それぞれの神に優劣があることになる。主は本当に全戦全勝なのだろうか。死しても神の息吹で蘇るゾンビシステムを構築しているだけではないのか。 また、神に頼らず、自分自身を頼って生きている人もいるだろう。そのような人が不毛な議論に参加するか分からないが、皆が自身の神を拠り所にして論戦を繰り広げるとは思えない。どうだろうか。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ もし、誰もが絶対の神の威力、威信を笠に着て論争しているなら、それは不毛になるだろう。決着がつくからには、それぞれの神に優劣があることになる。  ☆ そうですよ。ただし そのつど本人にとってはその神が《絶対の威力を持った神》であったわけです。  つまりむろん 神は 主観の内における《信じる つまりは 思考に非ずなのに受け容れた》としての何ものかであるわけですが もしそこに《人間としてのワタシのハカラヒ》が混じっていたとすればそれはつまり マチガイであったということもあるわけです。  ★ 死しても神の息吹で蘇るゾンビシステムを構築しているだけではないのか。  ☆ たぶん《神の息吹きで》ということはないでしょうね。言いかえると 先ほどの例にように自分自身のハカラヒによっていて その神はマチガイであったという場合だと考えられます。  つまりゾンビというのはむしろ自分自身のチカラで そういう状態になるのではないですか? それこそ人間が人間として持つチカラによって――と言っても 非常なへそ曲がりの状態に発してそこからそのまま発展してしまったかたちですが そのような状態に――成ってしまったということだと見ます。    生きていながら死んでいるという状態です。意志はなく ただ死にむかう意志のみがある状態。    ★ 神に頼らず、自分自身を頼って生きている人もいるだろう。・・・皆が自身の神を拠り所にして論戦を繰り広げるとは思えない。どうだろうか。  ☆ 《信じる》は 自然本性にそなわっている。ということは 心の白紙状態でもあります。つまりは 自覚していなくても みながそれぞれ何らかのかたちで けっきょく《信じる》というハタラキを持っているし はたらかせていると見るわけです。  何度も出しますが つぎのように誰もにあてはまると見ています。:  ○ 参考:《非思考の庭》のわが存在における位置 ~~~~~    非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。直感・ヒラメキ)    ____________________    思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市)    感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観)    ____________________   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  つまりは  ★ 皆が自身の神を拠り所にして論戦を繰り広げ  ☆ ていると見ています。自覚の有る無しを問わないとすればです。そしてその神が マチガイだったという場合もある。    或る日或る時 ふとわれに還るというときがあると思います。そのときには――白紙状態(タブラ・ラサ)に戻ったのでもあって―― 普遍的な神をいだいた(受け容れた・信じた)のだと思われます。それ以外の場合では 自分がそれだと思った神であっても それは一般に人間の思考や想像によってつくりあげた神である。つまり まがい物の神である。つまり 間違っていたと気づくことになるそれであると捉えられます。    そしていづれの場合でも――つまり間違っていたとあとで気づく神をいだく場合であっても―― 《皆が自身の神を拠り所にして論戦を繰り広げ》ているはずです。気づくことはない場合が多いでしょうし いちいちそのように分析して指摘することもないのでしょうが。  つまりもっと露骨に言えば――これは 神の側からはむしろ当てはまらないことでしょうが 人間の側から見て言うとすれば―― あなたはあなたの神を拠り所として論戦を繰り広げているし わたしはわたしもそのようにしている。さらに露骨に言えば あなたの神とわたしの神と どちらがほんとうの普遍的な神であるかというたたかいに成っている。  これを神は どのように見ているでしょうね。つまり どちらに軍配を挙げるかの問題ではなく そうではなくたとえば何故いちいちそんなことをあらそうのか。といった見方ではないかと思われますから。    アッラーフと言おうがブラフマンと言おうが ヤハヱーだろうがキリストであろうが 神はひとつ――全体としてひとつ――であるに決まっている。《無い神》と言っていても 同じく全体としてひとつの神に入る。なのに・・・。ということではないでしょうか。

  • a_hona
  • ベストアンサー率21% (95/444)
回答No.17

絶対化はしていない、では絶対視も同じくそんなことはしていないと言うだろう。しかし、その信仰は無限なる何者かを拠り所としているのであり、その威力を頼って他の信仰に立ち向かうというのは、一種、神に依拠した戦いであり、やはり自身の信仰する神の絶対性を笠に着ていると言えないだろうか。

bragelonne
質問者

お礼

 つづいてです。  ★ では絶対視も同じくそんなことはしていないと言うだろう。  ☆ いや 《非経験の場》として神を想定するということは 相対性の世界を超えていることになるからには 神は《絶対》ですよ。そういう定義です。  ★ その信仰は無限なる何者かを拠り所としているのであり、  ☆ ということになりますが そのとき《無限なる何ものか》は 《拠り所》として 無根拠ですよ。これこれこういう根拠や内実があるといったことは ついぞ人間には分かりませんから。  ★ その威力を頼って他の信仰に立ち向かうというのは、  ☆ ここは 表現の問題で揚げ足取りをします。   ○ 信仰を得て 非思考の庭がわが心に成ったなら そういう動態として過程します。その過程で 神の《威力に頼る》ことがおおいにある。こういう話です。  ★ 他の信仰に立ち向かう  ☆ というのは じっさいにはそのようなほかの人の信仰が文章にして説明されたその内容 これに立ち向かうということです。つまりは ふつうの論文や発言を取り上げて批評したり批判したりするのと変わらない。  ★ 一種、神に依拠した戦いであり、  ☆ 文章ないし発言を批評の対象としていることは 神ないし信仰は 直接に前に・オモテに出て来ません。  ぎゃくに言うならば すべての思考は 根源としては信仰から出て来ていると見るからには それは 実質的に《神に依拠した戦い》になるということかも知れません。そしてそれは 誰もに共通であり 例外はありません。  ★ やはり自身の信仰する神の絶対性を笠に着ていると言えないだろうか。  ☆ それは あなたから見てそう見えるということでしょう。  というのも わたしの《たたかい》は ほとんど全戦全勝であるようだからです。  もしぎゃくに言うなら 誰もが自分の神に依拠したたたかいをおこなっており その神の絶対性をかさに着ている。と言えます。

  • a_hona
  • ベストアンサー率21% (95/444)
回答No.16

見込み違いというが、本当に見込み違いだろうか。自身の信仰する、謎の何者か、を、自己の中で絶対化し、その威力を頼ってはいないだろうか。確認したい。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 謎の何者か、を、自己の中で絶対化し、その威力を頼ってはいないだろうか  ☆ 信仰は 《非思考の庭》である。考えるにあらず。どうして《絶対化》をするのか?  《威力》には《頼って》います。  汲めども尽きない水が湧き出て来る。そのチカラの出ることを願っています。  だから 頼っています。  そうなると イエスが サマリアの女と話をしていたとき 言った。

  • a_hona
  • ベストアンサー率21% (95/444)
回答No.15

bragelonneは、何か自分が他者より優れた偉い人物だとでも思っているのだろうか。平然と他人をこき下ろす傲慢さと、自己の見解に固執する狭小。 主には砂上の楼閣さえ存在しない、空っぽだ。だから雲をつかもうとあがいているのだろう。 別にそれを俺は否定せん。救いを求めるのは弱い人間の性やからな。 悲惨なのは、主が自分のドグマにしがみついて、それでも自分は何がしの一端の人間で、哲学(ここでは知性と言っておこうか)ある人物だと思い込んでいる点にある。 俺は君の隣人じゃない。ただの回答者に過ぎない。既存の宗教の信者たちを哀れとも思わない。何かの宗教を信じているというそれだけで、憐憫をかけたりはしない。 幾つかの主の見解を聞いたが、俺と主とはかけ離れているよ。主は空想を神と称し、その権威をカサにきているに過ぎない。いくら言葉を弄しても、内容は僅か。自分は苦悩してるのだという心の叫びがこだましてるだけ。

bragelonne
質問者

お礼

 あ_ほなさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  ★ bragelonneは、何か自分が他者より優れた偉い人物だとでも思っているのだろうか。平然と他人をこき下ろす傲慢さと、自己の見解に固執する狭小。  ☆ たぶん 寄せて来られる回答の内容よりは 或る程度において よく分かっている。でしょうね。大雑把なただの事実〔として見たところ〕ですが。  (部分的に知らない情報が得られますし するどい視点を何気なく見つけることもあります。そして自然科学は からっきしだめです)。  むろん 見落としがないか。別の角度からのこたえはないか。つまりあるいは 自分のたたき台よりすぐれたこたえが寄せられて来ないかと俟っています。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  主には砂上の楼閣さえ存在しない、空っぽだ。だから雲をつかもうとあがいているのだろう。  別にそれを俺は否定せん。救いを求めるのは弱い人間の性やからな。  悲惨なのは、主が自分のドグマにしがみついて、それでも自分は何がしの一端の人間で、哲学(ここでは知性と言っておこうか)ある人物だと思い込んでいる点にある。  俺は君の隣人じゃない。ただの回答者に過ぎない。既存の宗教の信者たちを哀れとも思わない。何かの宗教を信じているというそれだけで、憐憫をかけたりはしない。  幾つかの主の見解を聞いたが、俺と主とはかけ離れているよ。主は空想を神と称し、その権威をカサにきているに過ぎない。いくら言葉を弄しても、内容は僅か。自分は苦悩してるのだという心の叫びがこだましてるだけ。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  みんな合っているよ。次のひとつを除いて。  ★ 空想を神と称し、その権威をカサにきているに過ぎない。  ☆ つまり  ★ その〔神の〕権威をカサにきている  ☆ とは違う。神は想定であり その神学は ドグマであるとし 信仰は雲をつかむようなものだと言っており たとえば  【Q:イエスという人間は 自分が神であると大嘘をついた。】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7725897.html  【Q:キリスト者は 猿回しの猿か?】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8181274.html  などなどの命題を出して問うている。決して《権威をかさに着て》などいない。むしろ 権威をボロクソにけなしている。  この一点のみ 見込み違いである。

  • koiprin
  • ベストアンサー率23% (72/306)
回答No.14

 ★ 憲法に縛られているこの問いは、縛られる自由を理解してしかるべきではないか?  ☆ 意味が分かりません。憲法を持つということは 主権の存するわれわれ市民の一人ひとりが同意しています。どうして《縛られる》ということになりましょう。 市民の一人一人が同意しているという事実はどこにもない。 あなたはいつ同意したのか?私は同意した記憶がない。 特に日本は、GHQがまとめた憲法であるし、アメリカの占領下で施行された憲法である。 日本国民の同意など必要とされていない状態で成立している。 そもそも憲法は、市民の代表だと名乗っている人たちが、これを守りましょうと言ったことに過ぎない。その内容自体をしっかり理解できている市民とはどのくらいいるのか? 憲法は、弱者を率いたエリートが、伝統と権威権力を持った既成支配者層に取って代わるべく、圧力団体を形成するために用意した方便にすぎない。 王権神授説を人権と変えただけ。 法とは規制であるから、縛ること以外の何物でもない。 法の下の平等であるし、日本国憲法であれば、公共の福祉に反しない限りという自由である。 どうして縛られてないと言えるのだろうか?

bragelonne
質問者

お礼

 こいぷりんさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  ★ 市民の一人一人が同意しているという事実はどこにもない。  ☆ もっともですが それでも結局 同意して憲法として持っていることになっています。  それが証拠に 憲法は改正するのであって あらたにつくるのではないわけです。  おしつけ憲法であっても すでにわれらが国の憲法です。事後承諾ということになります。  ★ どうして〔日本国憲法によって人びとは〕縛られてないと言えるのだろうか?  ☆ でしたら それでよいとしますから 憲法を持ち出すにせよ・それとは別に考えるにせよ 《組織宗教は 信仰を看板にかかげているかぎりは それが――その権威者ないし権力者の意向をつうじて――何ごとについても基準となる。とき 人びとのその人格の全体にかかわるようなウゴキを その基準に合わせてしなければならなくなる。これは 良心・信教の自由の侵害となるおそれがある》という問いについて こたえをどうぞ。  そういう質問です。

  • a_hona
  • ベストアンサー率21% (95/444)
回答No.13

なるほどねぇ、主の見解はよく分かった。しかし、何億という人々が信仰を事実共有している以上、主の戦は何というか、焼け石に水より酷い話になるなあ。 それとも、防衛戦だったのかな。 主の言う弱い人々に、主は勝てないよ。だってその人たちこそ堅固に信仰を共有して、自分の居場所を形作っている人々やから。 主の姿勢はどちらかというと小乗仏教のそれみたいに映るね。一人黙々と、みたいなね。悪い話ではないが、分の悪すぎる戦いではあるね。

bragelonne
質問者

お礼

 ★ 主の姿勢はどちらかというと小乗仏教のそれみたいに映るね。一人黙々と、みたいなね。  ☆ ぎゃくである。わたしが つねに社会の中に人びとと共にあって 互いの考えを伝え合おうという民主的なコミュニケーションの場にあり なければそれをつくろうとしており じっさいにそうつとめつづけている。    宗教に群れる人びとこそが ヒナヤーナ・ブディストである。おのが孤独地獄にひーひーと言って 群れたがる。  ★ 何億という人々が信仰を事実共有している  ☆ という幻想を共同しているに過ぎない。  あ_ほなさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。  ★ 主の言う弱い人々に、主は勝てないよ。だってその人たちこそ堅固に信仰を共有して、自分の居場所を形作っている人々やから。  ☆ この砂でつくったと知っていつつそれにすがるような・もろくてつねにこぼたれゆくまぼろしなる城に《居場所を形作って 堅固に信仰を共有している》人たちを それでも(分が悪く勝てないとしても) あわれに あ_ほな氏よあなたは 思わないのか。隣り人ではないのか。  ★ 焼け石に水  ☆ をかけつづけるなら やがて冷めて覚めるはずです。  ★ それとも、防衛戦だったのかな。  ☆ 防衛線にすらならなかった。その頃は いまのように理論武装していなかったが 同じ内容で振る舞っていた。そうすると 相手がわたしを相手にしない――単純に 相手にしない――ということが起こった。それだけである。深追いはしないのだから。かたちは わたしが去ったのだけれど 実質は 相手たちがわたしから去って行ったことだと思う。  昨夜ふと思ったことがある。しるす。    ラッツィンガーの事例を出したことに関連して それではもし組織宗教において権威を持つ指導者や権限をもって運営する者たちが ラッツィンガーのようなワルではなく おおむね良い人たちであったなら 宗教組織も 結社の自由にもとづき社会の中でみとめられるのではないか。という問い返しを受けたとした場合のこたえである。  もしそうなら それこそが まさに良心・信教の自由が侵されている事態であるというのが こたえである。  なぜなら そういう場合というのは 信仰の教義上の問題やら人生をめぐる問題全般やらのことについてその結論としてのこたえが けっきょくその権威者や権力者の意向によって初めて決まるということを露呈しているからである。  つまり 信徒一般は それぞれ自分では何も――大事なことについては――決められない。主体性も自由意志もみな 《教祖様やその代理のお方》に預けられてしまっている。人間の・自由の萎縮が起こっている。  これこそが 信仰を旗印にかかげる組織宗教の――その設立の時点においてすでに持つことになった根本的・致命的な――欠陥である。  わるいことをしたという事例は まだなまやさしい。むしろ反面教師として 人びとをして自由なるわれに還らせてくれるかも知れない。  要するに 信仰を看板とする組織は 信仰の自殺行為であり 狂気の踊りである。信仰が死ねば 人格を脱いだことになる。精神錯乱になるのは 自由だが ひとに迷惑をかけることは 自由ではない。  このあたらしい思想のゆくえにかんしては 塵も積もれば山となる。

回答No.12

とりすがりによって救いがもたらされるという意味で宗教は私も疑わしいと感じますが、何かに熱中している彼らは幸せそうですよ。

bragelonne
質問者

お礼

 ★ とりすがり  ☆ これは その組織に・つまりは誰か先輩のような人に支えとなって欲しいというよほど弱い人間のすることでしょうね。  一般に宗教人は そんなか弱い人間ではないでしょうね。  他人を蹴落としてでも地位を上にあがり どうにかして一人でも多くの人間を自分の思うようにあやつりたいとでも思っていることでしょう。支配欲を満たしたい。これが 多くの宗教人の動機です。  ★ 何かに熱中している彼らは幸せそうですよ。  ☆ これは ですから 何かおしゃぶりでもしゃぶらせておけば おとなしいという人たちのことでしょう。  問題が違いましょうよ この質問では。  ご回答をありがとうございます。

  • a_hona
  • ベストアンサー率21% (95/444)
回答No.11

なるほど。信仰の独立性を主張するのは一理あると思う。 しかし、信仰が共有可能なものであるかどうか、という点についてはどう考えてるのかな? 言葉にできない深い信仰というものが、他者にもある場合、定義不能な謎としての神という存在についての信仰は共有できるのか、否か。

bragelonne
質問者

お礼

 ★ しかし、信仰が共有可能なものであるかどうか、という点についてはどう考えてるのかな?  ☆ それは 無理です。  言いかえると 神や霊や信仰といった言葉が あくまで仮りの表現であって 言わば神という本体を分かりやすく指し示すような補助線である。ですから このような補助線としての言葉を手掛かりにして 互いにおのが内面のことについても対話を持つことはあり得るでしょうね。  ★ 信仰が共有可能なものであるかどうか  ☆ 第一に 信仰はおのが主観の内面にとどまるコトである。  第二に それでも 仮りの代理表現を用いて互いにその内面のことを伝え合うことは出来るかも知れない。  これは 信仰の共有ではなく 互いにその説明を そうとすれば共有するようになるといったところでしょうか。  ★ 言葉にできない深い信仰というものが、他者にもある場合、定義不能な謎としての神という存在についての信仰は共有できるのか、否か。  ☆ いま上に述べたとおりのことで 済むと考えます。  あとは むしろ経験思想の次元で――ということは 信仰から離れて しかも信仰を生かすようにしてそこから得られたヒラメキなどを経験思想として表現し直し――互いに社会の共同自治や身の周りの生活のことについて 助け合いよくしていく。こうすれば よいでしょう。  これが もし言うとすれば〔そういうことは出来ない相談ですが それでも言うとすれば〕神の共有となりましょう。信仰の次元では 無理です。  (聖書などの研究は 共同してすることも出来ますが)。  こういった事柄だったでしょうか。  ご回答をありがとうございます。

  • koiprin
  • ベストアンサー率23% (72/306)
回答No.10

宗教は規律を強いるというのは間違いない。十戒とか。 信教の自由とは、「何にしばれられるのも自由」ということ。 人間規範がないと弱いもの。マズローが社会的欲求と呼んだ3段階目の欲求を満たすためのもの。 だから、 >他人の信仰の是非や度合いを規定するかのごとく言い渡すのは 人間の自由を侵す犯罪行為ではないか? は成り立たない。縛られたい自由はどうするのか? そして現在はその教義が嫌であれば、改宗するということになる。 改宗する際に、暴力的な行為で改宗させない行為は、自由を侵すことになるかもしれないが、その一連の流れさえも求めている人がいるかも知れない。 そもそも自由は不自由がなければ成り立たない概念であるので、不自由な組織がなくなれば、信教の自由もなくなってしまう。という自己矛盾が生じる。 根本的なところでは、憲法は人が造った矛盾の塊であるし、特に改憲がなされていない日本であれば、その当時のままなので、今とは食い違うのも当然である。 憲法に縛られているこの問いは、縛られる自由を理解してしかるべきではないか?

bragelonne
質問者

お礼

 ★ 縛られたい自由はどうするのか?  ☆ それは 趣味嗜好の問題です。  ★ 不自由な組織がなくなれば  ☆ なくなってからの話です。その前に人権の侵害をゆるしてはなりません。  ★ その当時のままなので、今とは食い違うのも当然である。  ☆ 具体性に欠けた議論だと思います。  ★ 憲法に縛られているこの問いは、縛られる自由を理解してしかるべきではないか?  ☆ 意味が分かりません。憲法を持つということは 主権の存するわれわれ市民の一人ひとりが同意しています。どうして《縛られる》ということになりましょう。  ご回答をありがとうございました。

  • a_hona
  • ベストアンサー率21% (95/444)
回答No.9

ごめんやけど、主の文章は読みにくくて仕方ないなぁ。疲れるわ。いや、悪気があってゆうてるんとちゃうのよ? ちなみに質問をした倫理の先生からは回答を得られなかったね。 あと、俺の友達にもクリスチャンいるけど、みんな満足してるよ。ちゃんと信仰もあるし。なにがなんでもblageronneの信仰の定義にしたがわなあかんというのは、主のわがままやで。なにをそんなにこだわっとるんかのう。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  卑近な事例を挙げます。  ひとつ前のローマ法王であったラッツィンガーという人の態度について 二点 触れます。  ▲ (ヰキぺ:ベネディクト16世 (ローマ教皇)) ~~~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%8D%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%AF%E3%83%8816%E4%B8%96_(%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E6%95%99%E7%9A%87)  本名:ヨーゼフ・アロイス・ラッツィンガー  § 2.8 他宗教との関係  § 2.8.3 プロテスタントと東方正教会  2007年7月10日、教皇庁は「ローマ・カトリック教会は唯一の正統な教会である」との記述内容を含む文書を公表した。これには教皇ベネディクト16世が承認を与えている。  同文書はプロテスタント教会についても言及し、「使徒ペテロに始まる使徒的伝承をプロテスタント教会が壊し、叙階の秘跡を損なったために、『教会』と呼ぶことはできない」とした。  正教会については、使徒的伝承を守っていると評価する一方、教皇に対する認識の面で「まったき教会としては欠点がある」とした。    このように正教会、プロテスタントのいずれとも真っ向から対立する見解を明らかにする一方で、2007年10月22日にはイタリアのナポリで開催された異宗教間サミットに出席してもおり、他教派・他宗教との対話を完全に拒絶してはいない姿勢も示している。  § 4 批判  § 4.1 性的虐待事件への対応  2009年になってアイルランド、ドイツ、アメリカ合衆国におけるカトリック聖職者による児童性的虐待事件が報道されるようになった。このスキャンダルに関してカトリック教会およびベネディクト16世への批判が高まり教会への不信は戦後最悪ともされる状態にまで陥っており、教皇の辞任を求めるデモも発生している。  アイルランドにおける事例については2009年末にアイルランド政府が公表した報告書が騒動のきっかけとなった。この中では1930年から80年代にかけて、教会の運営する施設において数百人の聖職者が少なくとも2500人の少年少女に性的虐待を加えたと述べられており、さらに組織的な隠ぺいがあったと結論している。  ベネディクト16世は事件のもみ消しを図ったショーン・ブレイディー枢機卿の処罰を行っていないことが批判された。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ よくある思想の狭隘さとそして不祥事 このふたつのことですが これが 《信仰》を大前提とする組織において起こるとすれば 問題です。  まづ断わりますが そのような不祥事ないしうたがわしい思想の問題そのものをなじるものではありません。(わるいと言えば わるいです)。  問題は そのような《プロテスタントの信仰はまちがいである》という表明や 神父の不祥事をもみ消す別の神父を咎めないことやが 信仰にもとづいていると――少なくとも 一般信徒のあいだには うわべだけとしても―― 受け留められるなら そのことにあると考えます。  消極的なかたちで 信徒一般は そのほかの自由な考えを持ち得ないとしたら 問題です。  つまり ヒエラルキアなる組織における問題発生のあとの処理の仕方にかんする問題です。それは 組織があるかぎり 自由で民主的な処理の仕方はのぞめないのではないいか。これです。  信仰があれば まちがいをきちんと正すのが ふつうだと思われますが それが成されない。成されがたい。そして 成されずとも そこに信仰は 《正統》なる系譜として受け継がれて来ているとうそぶくことになっています。  これが 信仰をめぐる組織の持つ根本的な矛盾であり 一たん組織をつくったならすでにもう避けられない問題を孕むのだと見ます。    信仰は――タテマエとしてでも掲げられている信仰は―― 言わばすべてのことの土台ですので 一事が万事と見なされます。あるいはつまり そう見なされようがどうなろうが 法王がくだした判断だとすれば それがとおってゆくことにもなります。  信仰にもとづく組織でなければ つまりふつうの会社や生活共同組合のような集まりであったなら 問題は 違って来るはずです。会社の目的は 一定のことに限られているからです。《信仰》となると 人格の全体にまでおよびます。それゆえ 問題が生じます。  法王のくだした決断とその表明は つねに信仰にもとづくものということになって 自分たち内部の者のあいだでも 外部の人びとに対しても けっきょく――問題が生じているのですから それをめぐる――自己欺瞞を延々と堂々とつづけて行くということになります。    ですから 信仰という看板を外すか それとも自己解体するかしかないと考えます。  ★ ちなみに質問をした倫理の先生からは回答を得られなかったね。  ☆ でしたらこの《群れる》体質というのは 《お上志向》と言いますか 長い者には巻かれろの問題のようで 一たん保留します。組織じたいの問題であるよりも そこに入って行く人びとの側の問題であるかも知れません。(カン違いでした)。これは アマテラ予備軍症候群とも アマアガリ・シンドロームとも名づけています。

関連するQ&A