私が知っている範囲ですが、主に、京都や奈良を中心に同心円上に言葉が広がっています。だから、同心円の中にある言葉は、似通った部分があります。松本清張の『砂の器』で、犯人が、東北弁のような言葉をしゃべっているので、最初は、東北の出身者ではないかと探すのですが、実は、島根県だったということが分かります。
地方の言葉の語源を調べると、非常に古い言葉が残っています。本州では、江戸時代の言葉が、そのまま凍結して残っていこともありますが、沖縄地方では、室町時代以前の古い言葉が残っています。文法体系は明らかに日本語ですが、方言には文法にも古い部分が残っているとと聞きました。(未確認)
たまたま、沖縄の周辺の島からやってきている人たちの話で、東京に出てきても、国に戻る人が多いのは、言葉の障壁があるからだと言っていました。
古来、東京地方の言葉は、京都からみれば、田舎の言葉だったわけです。
私は、いつも思うことですが、東京の隅田川の東の「墨田」、徳川の「松平」の苗字は、アクセントが、東京方言では、墨田のスに、松平のマにアクセントがありますね。それは、江戸時代からの名残りだそうで、これは静岡県西部や愛知県東部の三河方言に、同様のイントネーションがあります。徳川家康の影響だろうと思いました。
明治時代の中期から、標準語政策をして、言語的に国家統一を図ろうしたけれども、どうも徹底できなかったようですね。太平洋戦争前から、日本語の統一は、乱れていたような形跡があります。
>方言というものが存在してしまうのでしょうか?
私は、方言というものは、その地方の人のアイデンティティにつながるものだと思うのです。お国ならではの独特の表現があります。宮沢賢治の『永訣の朝』の詩の「あめゆじゅとてちてけんじゃ」などは、方言で書かれていていますが、それを標準語に直したのでは、味も素っ気もなくなってしまいます。方言には、その地方独特の気候や風土を表したものもあります。そういう部分では、なくなっていかないような気がするのです。
また、その国の人、独特の気質を表すこともあります。『がっちりマンデー』という日曜の朝の番組で、静岡県浜松地方の「やらまいか」という言葉が出ていましたが、「やってみようか」という意味だそうです。それを、街を上げてスローガンのようにするのは、ヤマハやスズキというメーカーなどの気質にも現れているものだと思います。
お礼
言葉の統一って結構難しい問題だったのですね。 方言ってその地方の個性と捉える考え方もあるのか。 方言には方言の良さというものがあるのですね。 回答ありがとうございました。