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神はどこから見ているのですか?
背後霊みたいに、すぐそばに居て見ているのですか? それとも、いるのはいるけど空の上みたいな遠巻きに見ているのですか? あるいは、監視カメラの画像をモニターで見る感じでものすごい客観的に見ているのですか?
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神という言葉のあたりでみなさんかなりつまずいていますね^^。 ですが、まず神とはと考えた時、 それを仮に全知全能、普遍、偏在という言葉で哲学しようとした時にも、 私達の考える全知全能、普遍、偏在という概念を越えた存在であることも同時に理解されてこないですか? 実際にそういう神が存在したとすれば、 そういう神を神と名づけた時点で、それは私達のイメージの内側に神をかってに言葉のイメージの閉じ込めてしまっただけであり、実際の神とはまったく関係ないということになりませんか? なぜなら私達は全知全能も普遍でも偏在の力をなんらか持っているわけでもないからです。 まるで、イスラエルはキリスト教の神のものだ、いや、イスラエルはユダヤ教の神のものだ、何んだと、とんでもないイスラエルはイスラム教の神のものだと、いうふうに、神をそれが全知全能であり不変であり、偏在であると主張しながら、人間よりもいやしく寛容性もない低い精神に貶めておいて、さらにそこに争いまで起こしているのと、なんら変わりないことなのではないでしょうか? しかし、存在そのものは確かにあまりにも不思議で深い実態であることは確かで、どこまでもどこまでも私達が五感にて日々気が付きつつある実際の世界には違いありません。 その「存在そのもの」という実態の本質には、時空は概念としては越えられているわけです。 時空も存在しますが、その上位概念として私達は「存在」を「存在」と呼んでいるわけです。 それが最初からあったのか、無から生まれたのか、神という知的存在から生まれたのか、あるいは知的感性的存在の神と宇宙は最初から存在していたのか、そうした議論はいろいろかんがえられるでしょうけど、 この存在自体の不思議さを考えたら、そんな論議はどうでもよくなりませんか? 少なくとも私自身にはあまり興味の沸かない思索世界です。 というより、この不思議さがどうやって私達にそうした判断を可能にさせ、解明されうるのかが私にはまったく解らないのです。 したがって、その辺を求めての質問者様の質問であるのなら私にはあまり興味はその質問自体には沸かない者でもあるのですが、 例えば、神を偏在だというのならば、これは神経細胞の流のすべて脳の内側の意味あいを瞬時に読み取られているのが神ということにもなり、さらに全知全能というのなら、その人間がなんらか苦しんでいたら、その苦しみそのものを神自身も同じように苦しむ形で理解されているということになります。 であって神とは、人間に自由意思という自分の足ですべて解決してゆく脳を与えた存在であるとの哲学がその哲学の人間観の帰結であるとすれば、いつの時にても最大限に「神よあわれみたまえ」と泣き叫んでいるのが神ということにもなるのです。 かもしれませんよ。 でも、どうしてそんなことほんとうに私達人間の脳が理解できるのでしょう? こう考えられませんか? 精一杯で、あるいはめいっぱい人間として幸せと言える感性に、お母さんの胸で安心しきっている時のあかちゃんのような安らかな気持ちでいられる感性をその呼吸の中に宿した時には、 神という概念の実態はとらえることはできなくても、 存在という概念となら、その実態となら、それがどんなものであれ、おかあさんと心と心で対話しているようなものだということなら言えますでしょ。 あるいはそういう平和の世界の広がりを求めて、この実人生の求道の道を歩む時、その悲しい眼差しは、やはり無言のうちに、存在の悲しさを意識していて、そこに存在との出会い語り合いが行われているというふうにも考えられるところとなるでしょ。 そうした場合にての、存在の位置問題を質問したいということであれば、答えは明白であり簡単であるわけです。 存在は時空を、つまり時間と位置とを越えている不思議な世界です。 でも心と心で通じ合っているようなものです。 位置を把握する五感、視覚で把握される位置で「見ている」あるいは「見合っている」のではない状態ですよね。 心と心で通じ合っている状態ですよね。 その感性の深みからの回答ということであれば、心のその深みから「見ている」という、異なった意味、異なった質の視覚^^が その答えとなるかと思います。 ちなみに、その感性の深みを教えんとされてきたのが仏法の世界だというメッセを持って、私の方からの回答とさせていただきますね。 以上です。
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- sokk
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神は、あなたでもあります。 あなたが見ているものを神は見ています。
昔から人は同じことを色々と考えました。 日本でもつい最近までは、「お天道様が見ておられる」と言いました。今でも仰られるお年寄りがいるかと思います。 少ししゃっちょこ張って「天智(し)る、地智(し)る、人ぞ智(し)る」と言いました。 庚申の日というのは聞かれたことはありませんか?ふうてんの寅さんで有名な帝釈天の縁日です。 これは、帝釈天の家来の青面金剛(せいめんこんごう)というお方が三尸(さんし)の虫というのを遣わして人の心の中に住まわせて、庚申の日に、その人が日頃考えていること(心の中で思っていること)を報告させました。 仏様に言いつけられては困りますから、その日は三尸の虫が抜け出さないように、徹夜で起きていました。(平安時代からの風習です)起きていても眠くなるから飲んだり食べたりして遊んでいました。この名残が庚申の縁日です。 漫画の吹き出しで、主人公の気持ちを表すのに、悪魔と天使を喧嘩させる絵を見たことはありませんか。 このように、自分の心の中にある「良心」を神様と考えたようですね。 「正直の頭(こうべ)に神宿る」とも言いました。 今でもおまわりさんに叱られるときに「自分の良心に恥ずかしくないのか」とか「後ろめたくないのか?」と叱られます。 天国におられる神様とは少し違いますが、神様はどこにいても見守って下さると考えれば、そう矛盾したお話でもないでしょう。
- mas-george
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「神」というのを定義しましょう。 一切を含む存在、ということであれば、「どこから」というのではなく、「いま・ここで」ということになります。 なぜかというと すべては神の力の及ぶ中での出来事だから。及ばないなら神じゃないでしょ? ほとんどの皆さんが誤解しますが、神様って遠くにいて見守ってくれる、的な発想をしがちですが、 そもそも我々が神という全体の一部なんですから(神という存在を肯定するならば)、神の中にいるのです。 あまりに大きすぎるし何も言わないから、わからないし忘れるんです。
- fuukakou
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よく分かんない でも、自分の中からかな? 自分の意識・無意識に繋がってるようなイメージです。 さて、ここだけ書くといい感じですが よく考えよう。 神がすべてに繋がってるなら・・・他人からも物から総合判断で観れてるハズ、怖!! 自分を含め万物からですよ、ある意味ホラー!! 監視と見守るの境界線はどこだ?
- tumaritou1
- ベストアンサー率28% (260/913)
神や仏性とは貴方の脳の機能の内、貴方の自覚出来ない貴方です。違う言葉で表現するなら『無意識界や潜在意識界の主人公です。』 貴方が気付かない理由を書いてみます。誰でもそうなのですが、自分の顕在意識は、自分の無意識を意識する事が出来ません。 その理由は、お互いに脳梁(意識の根底)では何時も、絶えず出会っていますが、自我意識は憶えていません、或いは認識出来ていません。 人間の、意識と無意識は交替制で成り立っています。眠る場合を例にするなら、自我意識は眠る事などしていません。そう思っているだけです。自我意識の意識は朦朧として、『だんだん無くなってゆくだけです。』 すっかり無くなった時『無意識の自分が身体と心の支配権を、譲り受けています。』無意識が身体と心の支配権を握っている時、自我意識は無くなっています。この状態を『無』と言っていますが、自分がないのですから、『無意識の自分』を意識する事が出来ない理由になっています。 朝になった時、自我意識はすっかり『身を隠して休んでいたために』休んだ感が強くなっています。すがすがしい目覚めと言うわけです。 その反対の場合があります、『自我意識が意識したままで眠りに入りたいとする場合です。』自我意識が意識したまま(出張っていた場合)無意識の自分への切り替わりを拒んでいます。自我意識単体で眠ろうとした場合では眠る事が出来ません。脳の機能の問題から、自我意識には眠る機能が無いからです。出来る事は『スムーズの交替』だけです。 眠れないとする事は、自分の心と相争っているために、交替制がギクシャクしている事を意味します。 脳の機能の違いに付いての科学的な研究成果です。ウイキペデアからです。 『”ロジャースペリー 分離脳 ノーベル賞受賞者 受賞年:1981年 受賞部門:ノーベル生理学・医学賞 受賞理由:大脳半球の機能分化に関する研究 ノーベル賞の受賞理由となった業績として分離脳研究がある。てんかん治療の目的で半球間の信号伝達を行っている脳梁を切断した患者に、片方の脳半球に依存することが知られている作業を行ってもらい、二つの脳半球が 『それぞれ独立した意識』 を持っていることを実証した。”』 自分の脳の機能を脳卒中のために、内部から観察出来た、脳科学者が『無事生還出来て』j分の体験を語っている動画がありますので、紹介します。 『脳卒中、ジル、ボルト、テイラー博士』と検索をしてみて下さい、動画が出てくる筈です。 もう一つ載せてみます、運がよければクリックするだけで表示されると思います。 URL:http://www.youtube.com/watch?v=ldSoKfFYKqM この女史の体験は、キリスト者なら『神と和解しているところです。』仏教者なら、『自分自身の命の働き=仏性と出会う体験です。』 この体験を『見性体験』と言っているようです。つまり悟りを開いている真っ最中と言う意味です。 自我意識が『自分自身の無意識の意識』=『神や仏性』は、先に書いた理由から、会ったとしても記憶する事ができないように出来ているようですが、博士のように『死の淵に立って』全てを諦めた時『出会う容認あっています。』 従って死に行く人が、全てを諦めた場合では、自分の右脳の意識が出て来て全ての問題を解決しているようです。この場合ににこやかに死を向かえる事が出来るようです。 又、難問題を抱えて、苦しみ抜いて、しかもその難問に『解決する糸口さえ見出せなかった場合にも、出来なかった、として、自我意識が全てを諦める事があります。』 この場合での表現方法は『我が折れる』と言う意味の、『大死一番』と言う言葉で表しているようです。 この体験後では『出番争いをしない』事になりますので、何時も心の中が『静まり返っている事になります。』この静寂に満ちた脳内の様子(心持)を涅槃と形容しているようです。 もう二度と出番争いをしなくなるという意味は、『眠くなったら眠る』と言う事になります。交代性がスムーズに行くようになって『自分自身の命の源からの圧迫が無くなる。』と言う意味になります。 不眠症や神経症や鬱や感情障害などの状態から開放されると言う意味から、完治するという表現も可能になります。見性という体験の中に、生き難い想いや、漠然とした不安からの開放と言う意味があります。
- koiprin
- ベストアンサー率23% (72/306)
あなたが自分を見るように見ています。
- paraspor
- ベストアンサー率26% (4/15)
井筒 俊彦「イスラーム思想史」にこのような話が載っていました。 (以下は原文ママでなく私の抜き書きです) 奴隷・神学者・哲学者の3等級 ある日のこと、ムハンマドは一人の黒人の女奴隷に向かって「神様はどこにいるとお前は思うか」と尋ねた。すると彼女は「神様は天にいらっしゃいます」と答えた。ムハンマドはこの黒人女の答えをよしとし、彼女を解放して自由な身にしてやった。これが最下級の人間の等級をあらわしている。これはこれでよい。しかし少し考えてみると「神は天にいらっしゃるという言葉はあやまりであることが分かる。「神は天にいる」ということは天の中にいるということであり、神を空間的に限定することに他ならない。よって我々は「神はいたるところに遍在する」といわなければならない。これが神学者である。しかしこれも神の存在を限定することになるので十分ではない。よって「神はどこにもいない。ただその働きが全空間に及んでいる。神は神の中にだけある。神が空間の中にあるのでなくて、空間が神の中にあるのである」これが哲学者である。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
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こんにちは。 答えは 分かりません。 ですが この分かりませんは 分かるか分からないかが分かりませんという意味です。 神は 経験事象ではないからです。経験思考を超えています。 人間の思考力では分からないのですが 分からないとはっきり分かったというものでもないわけです。 はっきり分かったなら それは 経験事象になってしまいます。 ところが 分かるか分からないかが分からない場合には これを おのが主観の範囲内では 自由に想像してみることも出来ることになります。 その主観が ほかの人とのあいだで共同化することはかないませんが 自分ひとりにとっては まったく自由です。 あとは おまけとしては その主観としての想像が たとえ虚構であったとしても 世界の全体として現実を 歴史事実とともに 人間の真実として――つまり 虚構が示すことがらであっても 人間の真実を映すものとして――ときには迎え入れられることがあります。 世界を捉える上で その《でたらめ》の主観真実が 何かのきっかけになることがある。こういう意味です。 ★ 神はどこから見ているのですか? ☆ どこからでも 自由に感じてみてください。あるいは そんなのはあり得ないと考えてみてください。どちらも 自由であるとなります。 一般には 神は 霊として・つまりわけの分からないナゾの何ものかとして あまねく存在すると言われることがあります。遍在説です。 あるいは ひょっとすると ニュートリノのように われわれの身と心とを刺し貫いて流れているかも分かりません。 あるいは 誰かの絵のように 指先がいまにも触れなんとするようなかたちでワタシにおとづれているのかも分かりません。
- o-sai
- ベストアンサー率19% (199/1001)
神は居ません。 あの世もありません。 人生は一度限り、死んだらそれまでです。 宗教の定義する神は、人の創造の産物ですから、 想う人の心の中に居ます。 神に許されるか許されないかを判断するのは、あなた自身です。 つまり、あなたは神を裁く存在です。
一般的に神仏とされている存在の多くは、4次元に存在 ・表現されている一時的半実体のようで、この場合、離 れていても霊的に目覚めた人達とは常に繋がった状態の ようで、意識を向ければいつでも見える?というような 状態のようです 本質的な高次元の存在達というのは、より本質的な天界 という存在が、その想念に拠って、天界という御体上に 表現している全て(または現宇宙と表現の全て)を一体 化の中で、拡大した自己といえる個々として体験してい る、という状態のようです なので、本質的な高次元の存在というのは、私達の存在 ・思考・感情・行動などの全てを同時に経験している状 態といえるようです
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