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神はどこから見ているのですか?

背後霊みたいに、すぐそばに居て見ているのですか? それとも、いるのはいるけど空の上みたいな遠巻きに見ているのですか? あるいは、監視カメラの画像をモニターで見る感じでものすごい客観的に見ているのですか?

質問者が選んだベストアンサー

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回答No.16

神という言葉のあたりでみなさんかなりつまずいていますね^^。 ですが、まず神とはと考えた時、 それを仮に全知全能、普遍、偏在という言葉で哲学しようとした時にも、 私達の考える全知全能、普遍、偏在という概念を越えた存在であることも同時に理解されてこないですか? 実際にそういう神が存在したとすれば、 そういう神を神と名づけた時点で、それは私達のイメージの内側に神をかってに言葉のイメージの閉じ込めてしまっただけであり、実際の神とはまったく関係ないということになりませんか? なぜなら私達は全知全能も普遍でも偏在の力をなんらか持っているわけでもないからです。 まるで、イスラエルはキリスト教の神のものだ、いや、イスラエルはユダヤ教の神のものだ、何んだと、とんでもないイスラエルはイスラム教の神のものだと、いうふうに、神をそれが全知全能であり不変であり、偏在であると主張しながら、人間よりもいやしく寛容性もない低い精神に貶めておいて、さらにそこに争いまで起こしているのと、なんら変わりないことなのではないでしょうか? しかし、存在そのものは確かにあまりにも不思議で深い実態であることは確かで、どこまでもどこまでも私達が五感にて日々気が付きつつある実際の世界には違いありません。 その「存在そのもの」という実態の本質には、時空は概念としては越えられているわけです。 時空も存在しますが、その上位概念として私達は「存在」を「存在」と呼んでいるわけです。 それが最初からあったのか、無から生まれたのか、神という知的存在から生まれたのか、あるいは知的感性的存在の神と宇宙は最初から存在していたのか、そうした議論はいろいろかんがえられるでしょうけど、 この存在自体の不思議さを考えたら、そんな論議はどうでもよくなりませんか? 少なくとも私自身にはあまり興味の沸かない思索世界です。 というより、この不思議さがどうやって私達にそうした判断を可能にさせ、解明されうるのかが私にはまったく解らないのです。 したがって、その辺を求めての質問者様の質問であるのなら私にはあまり興味はその質問自体には沸かない者でもあるのですが、 例えば、神を偏在だというのならば、これは神経細胞の流のすべて脳の内側の意味あいを瞬時に読み取られているのが神ということにもなり、さらに全知全能というのなら、その人間がなんらか苦しんでいたら、その苦しみそのものを神自身も同じように苦しむ形で理解されているということになります。 であって神とは、人間に自由意思という自分の足ですべて解決してゆく脳を与えた存在であるとの哲学がその哲学の人間観の帰結であるとすれば、いつの時にても最大限に「神よあわれみたまえ」と泣き叫んでいるのが神ということにもなるのです。 かもしれませんよ。 でも、どうしてそんなことほんとうに私達人間の脳が理解できるのでしょう? こう考えられませんか? 精一杯で、あるいはめいっぱい人間として幸せと言える感性に、お母さんの胸で安心しきっている時のあかちゃんのような安らかな気持ちでいられる感性をその呼吸の中に宿した時には、 神という概念の実態はとらえることはできなくても、 存在という概念となら、その実態となら、それがどんなものであれ、おかあさんと心と心で対話しているようなものだということなら言えますでしょ。 あるいはそういう平和の世界の広がりを求めて、この実人生の求道の道を歩む時、その悲しい眼差しは、やはり無言のうちに、存在の悲しさを意識していて、そこに存在との出会い語り合いが行われているというふうにも考えられるところとなるでしょ。 そうした場合にての、存在の位置問題を質問したいということであれば、答えは明白であり簡単であるわけです。 存在は時空を、つまり時間と位置とを越えている不思議な世界です。 でも心と心で通じ合っているようなものです。 位置を把握する五感、視覚で把握される位置で「見ている」あるいは「見合っている」のではない状態ですよね。 心と心で通じ合っている状態ですよね。 その感性の深みからの回答ということであれば、心のその深みから「見ている」という、異なった意味、異なった質の視覚^^が その答えとなるかと思います。 ちなみに、その感性の深みを教えんとされてきたのが仏法の世界だというメッセを持って、私の方からの回答とさせていただきますね。 以上です。

その他の回答 (15)

  • tododesu
  • ベストアンサー率36% (28/77)
回答No.5

神、天、仏・・・いろいろな言い方がありますから、なるほど面白い視点ですね。 神だと、キリスト教・神道。 天だと、儒教系ですかね。 仏だと、仏教系。 それぞれ違うような気もしますが、「あらゆるところに遍在する」というイメージからだと、あらゆるところから多角的に見ている・・というか、感じている・・というような気がします。

  • tit6644
  • ベストアンサー率22% (77/340)
回答No.4

自分の中なのかなあ、やっぱり。 どこにいてもいいけどちゃんと全部見ててほしいです。 頑張ってるのになかなか報われません。

  • gadovoa
  • ベストアンサー率28% (835/2909)
回答No.3

神とは愛で、 愛とは愛として行動する人する人の一挙手一投足に存在しています。 遠くからみていません。その人の内にいるのです。

回答No.2

私たちの心の中にいて 私たちの視点から見ていると思います だから 神さまを否定する人たちにとっては神は存在しません

  • maiko0318
  • ベストアンサー率21% (1483/6969)
回答No.1

心のなかにいるとする意見もありますね。 やましいことをしてはいけない。という心の声です。

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