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「態度の申訳然たること」

こういう文章をみかけたのですが、意味がよくわかりません。もう少し前後を付け加えますと「宮内省の陸海軍に対する態度の申訳然たることを語り」というものです。宮内省が、陸海軍に対し、低姿勢に過ぎるということを言っているのでしょうか?それとも、宮内省が、陸海軍に対し、申し訳ないと考えているということを言っているのでしょうか?よろしくお願い申し上げます。なお、本文章は奈良侍従長長官の昭和6年10月12日の日記にあるものです。

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  • ithi
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回答No.2

abadoさん、こんにちわ。 どうも内容の「朝鮮軍独断出兵」から、満州事変に関する記事だと思います。本当は朝鮮軍(司令官林銑十郎)を出撃させるには天皇から参謀総長(金谷範三)を経て命令が来てから軍司令官が発令するものですが、それを待たないで出兵したものですから、統帥権干犯だと参謀総長が天皇から注意を受けたのでしょう。「兎角の噂」とは関東軍高級参謀板垣征四郎大佐と、関東軍作戦参謀石原莞爾中佐が首謀し、軍事行動の口火とするため自ら行った陰謀であったことだと思います。 特に日付から錦州爆撃を言っているのでしょう。 関谷が陸軍大臣(南次郎)、荒木、小磯国昭、幣原喜重郎、谷亜細亜局長を訪問して満州事変の事態について情報収集した結果、暗に宮内省の陸海軍に対しての態度説明がこうですよと言い、陸海軍に押し切られたということを奈良に伝えたのでしょう。 ちなみに奈良と関谷は栃木県出身ですから、軍人、文官ですが同郷の先輩後輩に当たります。

abado
質問者

お礼

前後の状況から、同郷関係まで意を尽くしたご回答、大変ありがとうございました。

その他の回答 (1)

  • ithi
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回答No.1

abado さん、おはようございます。 たぶん、昭和天皇の侍従武官長だった奈良武次大将の日誌の中のことだと思いますが、これだけではまだ、内容がつかめません。申し訳ありませんが、この記事の前後数日を原文でお願い致します。 ちなみに奈良武次大将は砲兵科の出身ですが、日露戦争の時は旅順にいました。とても優秀な人で軍務局長を務めてから裕仁皇太子の東宮武官長となり、その後一貫して昭和天皇の側近になった人です。面白いのは軍部出身なのに軍部に対して批判したりする人です。

abado
質問者

補足

早速の回答、ありがとうございました。数日分はややきついので、以下の通り抜粋いたします。 十月十日 夫より牧野内大臣の需に応じ往訪せしに、朝鮮軍独断出兵に関し参謀総長が陛下より戒められたる点に関し兎角の噂さある由に付き事情を聴かるるに依り、余の所見を述べ且つ種々雑談して午后四時武官府に還る。 十月十二日 午后四時退出、帰宅。午后五時半関屋次官来訪、時局に関し陸軍大臣、荒木、小磯、幣原、谷亜細亜局長等を歴訪せる話等をなし、暗に宮内省の陸海軍に対する態度の申訳然たることを語り、午后六時半去る。 十月十三日午后関屋次官一寸来り前夜の挨拶あり、此時又少時談話す。 やや物足りないかもしれませんが容赦ください。 このとき関屋次官はどう考えていたのか、陸海軍寄りにたって、身内の宮内省をものたりなく感じていたのか、という点です。 よろしくお願い申し上げます。