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「賭け」について。

「賭け」について思うことを教えてください。 私はこう思います。 「全ての決断は原理的に賭けである。 しかし、本命狙いだけではつまらない。 では、いつ、何で大穴を狙うかが問題である」

みんなの回答

  • kanto-i
  • ベストアンサー率30% (180/596)
回答No.9

博打の賭けは確率であり、誰にでも勝者になる権利がある。 裏を返せば、必ず当たりがなければいけない。 それはアイスクリームの当たりでも、本の「抽選で当たる!」も同じこと。 >「全ての決断は原理的に賭けである。 しかし、本命狙いだけではつまらない。 では、いつ、何で大穴を狙うかが問題である」 これは、人生の選択についての決断の話しであろうから 全員当たる確率も、外れる確率もある。 賭けではあるが賭け事ではないからである。 今日の帰り道、いつもと違った道を歩き興味を魅かれる店に出会って「当たり」と思う時もあるだろうし 水溜りの水を跳ねられて、服を汚すことになり「ハズレ」と思うかもしれない。 重要な決断の賭け(選択)に出る時は、就職や結婚や家などの大きな買い物や その他諸々のことに対しては、本命とか大穴とかそういう目を持って狙う人も居るだろう。 私の場合は、やりたいことを突き詰めて勝算がある準備ができた時。 それを平凡と言うのか無謀と言うのかは、内情や真意や意図を知らない人が 自分の思いだけで判断した言葉であれば勝手に言わせておけばいい。 どんな思いでそこにたどり着いて、勝算があるまでに至る道のりを大切に思うけど 結果が大穴と言われる内容ほど、道のりが険しいのは知っている。 いつ狙うかより、狙って叶えるまでの時間と労力がね・・・。 大穴に見えるのは、飛びぬけた発想力ですから 私には、すべてにおいて堅実さが重要かなと思います。 人生は賭けであっても、賭け事にしてはならない。 なんて思ってます。

alterd1953
質問者

お礼

>人生は賭けであっても、賭け事にしてはならない。 なるほど。そうですね。 大体、重みが全然違いますからね。 そして、いかに大穴に見えても 実は飛びぬけた発想力と堅実さに支えられていなければならないとう言うことですね。 実は、私は人生の早い時期に少し大きな賭けに出ました。 そして、今、正解だったと確信しています。 別に飛びぬけた発想だったわけではありませんが 恐らく、多くの人が選ばない道であったろうと思います。 しかし、幼い頃ではありましたが何故か強い確信があったのです。 回りの言うことを聞かず、自分の考えに従って良かったと思っています。 ご回答ありがとうございました。

alterd1953
質問者

補足

そろそろ締め切らせて頂きます。 遊びの賭けならいざ知らず、人生における賭けには 当然、大きなリスクが伴いますので どちらにも深い味わいのあるご回答を頂けました。 皆様、ご回答ありがとうございました。

noname#184677
noname#184677
回答No.8

おじゃまします。 高校生のとき、マイナーな受験雑誌「大学への数学」の読者の声欄に 投稿したことがあります。 「占いの法則    占う事象Aの発生確率がP1とすると、占いに  使う事象Bの発生確率P2は 常にP1≧P2  である。なぜなら・・」  当時、好きだったクラスメートの女の子の気持ちが知りたくて  何度もトランプで占ったり、果ては鉛筆を転がしてみたりしていて  気が付きました。相手が私に好意を持っている確率が10%程度  なら、それを占うのにコインの裏表みたいな確率50%のことで  占っても意味ないだろうと。  次の号に他の読者の反論として 「占いは 神との交信である。」 という趣旨のことが書かれていました。 その意味は、今思えば 「未来は不確定であり、結果は神のみぞ知る」 という趣旨だったのでしょう。 あの角を曲がれば、その先に「幸運」が綺麗なワンピースを着て 可愛いバッグを持って僕を待っている そう思うのは自由だけど、その前にもう少しましな街を 歩いたほうがいいということはあるようです。 賭けと占いの違いは、結果を受け入れる覚悟と 運不運を自分で創造できるという実感でしょうか。 射幸心は人一倍強い私ですが、度胸がないので、 元でのかかるでかい博打は苦手です。投資という屁理屈で 武装された博打では結構やられていますけれど。 人生では、離婚という大きな賭けを経験しています。 賭けは、今持っているものを捨てて、かわりによりよきもの を得るというねらいですが、ややもすると結果がでるまでの プロセスのスリルを楽しんでしまったりするのが自分の 愚かなところかと思います。 いつ、大勝負にでるか・・・については、私の場合状況から 次第にそうなっていったわけですが、それでも決心するまで 3年はかかっています。啐啄の機というのはおのずと訪れるようで 「お客さん、お時間ですよ。まいりましょう」 と賭場に案内してくれる人は必ず現れるようです。それまで 並んでないとダメなのはパチンコ屋の新装開店とさしてかわらない ですけど。 で、結果ですけど、やっぱりポーカーと同じで手が悪いと 全とっかえしたらいい手がきたなんてことはおおいにあるわけです。

alterd1953
質問者

お礼

そうなんですよね。 私も「捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」と言う言葉が好きなんですが ちまちま計算して姑息に振舞うより「ええい。いったれ」と行った方が 結果オーライって時がありますよね。 ただ、マージャンなんかだと、いわゆる「暴牌」ばかり振ってると その内、えらい目に会うんですよね。 ですので、所詮、未来は予測出来ない訳ですから 確率計算出来るものに関しては統計に従えば良いのでしょうが 最終的には、経験に根ざした直観に頼るしか無いのでしょうね。 後、仰るように、自然の流れに乗るのも非常に大事だと思います。 ご回答ありがとうございました。

noname#202494
noname#202494
回答No.7

単なる”賭け”ではなく、賭け事、いわゆる、カジノの賭け事ですが、”胴元であるカジノには、絶対勝てない。賭け事は最終的には、元手の大きいほうが勝つ仕組みになっている”と聞いています。 どう転んでも、より資金があるほうが勝つなら、一般社会と同じではないか、と。何もわざわざカジノに出かけていって、試してみる必要はないように思いますが、好きな人は、好きですよね。 オーシャンズ11~13で、カジノのオーナーが狙われて、泥棒側に味方する気持ちになるのも、ほとんど勝って帰ってくる人がいないからでしょうね。 人生の曲がり角での、賭け、でも、やはり、それまでの貯蓄がものをいうように思います。お金のこともあるでしょうし、人脈のこともあるでしょう。浪費を重ねた末、大きな賭けに出るのは、負けるのがめに見えているし、そういうのは大穴とは呼ばないですよね。破れかぶれ、とか。 大穴でも、勝算があるから、賭けるんだ、と思いたいですね。

alterd1953
質問者

お礼

仰る通り「大穴狙い」と「破れかぶれ」の区別は難しいですね。 当然、前者の方が勝算が少しでも多く無いとダメですよね。 企業で言うと、いわゆる「ベンチャー企業」でしょうか。 個人で言うと「ビッグになる」みたいな感じでしょうか。 当然ながら、どちらも、僅かな成功者の影に死屍累々な訳ですね。 ただ、不利だった者の成功物語というのは常に面白いですので 大穴を狙う人は勝算を見極めるセンスを持ってて欲しいですね。 ご回答ありがとうございました。

  • Tefu_Tefu
  • ベストアンサー率27% (87/322)
回答No.6

こんにちは 賭けとは脳内物質ドーパミンによる「快楽」を得るためのものでしょう それは 人間が生きていくうえで必要なもの刺激だと思います 賭けには 勝ち負けが伴います 人生に於いて勝つことが生存のためには重要だと思われます 如何なる人も何事にも勝ち続けることは不可能です 問題は どうしたら勝てるようになるかだと思います ギャンブルで考えてみますと「運」が勝利の条件だとしますと参加者がいつも勝ち続けるのは不可能であり何時か負けとなります 参加者全員が負け組であるのは間違いないと思います ただし 一回の勝負だけなら参加者の勝ち負けの「運」は同じです 誰が勝ったのかというと「胴元が手数料」として勝ったのです ギャンブルは参加者は勝てない遊びです ここで 胴元の条件は何か?と考えるとそれは「無限な所有物」になります さて 人生に於いてもいろんな場面で勝負が付き纏います 勝負に必要なのは 「運」と「無限の所有物」とその場を仕切り誰よりも先に行く者=「胴元」ではないかと思います 人生はギャンブルのように一回勝負で終わりとはならないので「運」任せではいけません 「運」を良くするのは「経験による直観」です 「無限の所有物」とは「無限に持続可能な好きなこと」=「泉のように湧きでる才能」でしょう (才能とは自分が好きなこと=能力をお金が得られるまでに継続したもの 例えば1万時間以上続けられること) そして 「胴元」=「自分の土俵」=「自分が誰よりもできることにより初場代=手数料を頂くこと」でしょう 私は以上のことより 誰でも「人生の勝ち」=「幸福」を手にすることは可能だと思います

alterd1953
質問者

お礼

なるほど。 ドーパミンはどうも人生において必要不可欠のようですね。 ただ、全員が負けを経験するのも事実だと思いますし 勝つには経験による直観が物を言うのも真実でしょうね。 もう一つ重要であるのが、いかに胴元になるかでしょうね。 現代社会では、資本家が最も分かり易い胴元でしょうが そうでない場合は、自己の才能を信じて ねばり強くやり抜いた者にのみ、勝利の女神が微笑むのでしょうね。 ご回答ありがとうございました。

  • 31192525
  • ベストアンサー率19% (704/3540)
回答No.5

alterd1953さん、こんにちは。 「苦痛が二種類あるように、快楽にも二種類ある。一つは肉体的快楽であり、もう一つは予想の快楽である」(出典忘れました 汗)  結果がともなえば尚良いのですが、それが大きな決断であるにせよ、ギャンブルであるにせよ、この言葉の如く 『賭けは一種の快楽』  ではないかと。。。  あー、それにしても中らないなぁ、お馬さん。あーぁ。(深更に帰ってきて、録画した競馬中継を見ての感想 笑)

alterd1953
質問者

お礼

どうもです(笑) なるほど~。 「賭けは予想の快楽」ですか。 確かに、予想が当たった時は嬉しいですよね。 納得です(笑) ご回答ありがとうございました。

  • larme001
  • ベストアンサー率44% (271/608)
回答No.4

ギャンブルでいうならば、まあ漫画ですが、ア○ギの名言では、 「不合理に身をゆだねてこそ、ギャンブル」  ってなセリフがあります。つまり、100人がいたら99人が常識として捉えるその残り一人になることがギャンブルにおける特異点を生み出し、結果的に相手を出し抜いて勝つということに本質的にはつながるのでしょう。ある意味直感が支配する世界でもあるわけで、必ずしも論理的に物事をすすめるべきではない心理的なものも多くあるということです。  人生の決断における「賭け」ってのはギャンブルのような運否天賦に身を委ねるのは「バカ」がすることです。いかにリスクをなくしてリターンを確実に確保するのか?そのためには負けない努力というよりも、どの程度の実力がどの段階までに備わっていれば成功できて、そのためには今何をどのくらいしなくてはならないのかを論理的に考えて実行出来る人が結局成功するのです。  逆に言えばその目標と自分の能力や分析力の甘さ未熟さときちんと向き合わずに、無謀に大穴叩いて狙うってのは聞こえはいいですが結局は何も考えていないのと同じことではないかということです。大穴を狙うときってのは、それ相応の準備をして勝算が十分にあるからチャンスが来たときに狙えるものだということです。世の中で成功している人々ってのは色々見てみれば誰もが努力家なのはそういうことです。

alterd1953
質問者

お礼

確率から考えれば子が胴元に勝つには大穴狙いしかないわけで その判断を直観に委ねるというのは非常に面白いです。 ただ、実人生で考えれば 仰る通り、努力の末に得られた情報の上に立った直観が物を言うのでしょうね。 ご回答ありがとうございました。

回答No.3

「賭け」について思うことあります。 私はこう思います。 賭けの要素の無い決断は無い。(当たり前のことかもしれませんが^^) でも、まず、 遊びとしての賭けと、人生での決断の賭けとを分類して考える必要を私は強く感じる者なのです。 そちらの質問の希求するところは、簡単に書いていますが、後者の何かの答えを求めているものに思えます。 それを遊びの賭け事に例えて洒落たエスプリにされているのでしょう。 で、その人生での賭けなのですが(痛みをともない、切実さのある実人生での賭けについてなのですが) たしかに、確実性の高い安全パイだけを狙っては、人生大きく成功しないでしょう。 》では、いつ、何で大穴を狙うかが問題である《 そして、確かに、その通りだと私も思います。 例えばお金儲け(時としてそれも切実であり、かつ解りやすい例えの一つと思いますので^^)。 思い切ったイノベーションは、自分や自分たちの会社が儲かる可能性だけでなく、社会全体にとっても意義のあることですが、 そこには失敗という痛手の危険性もあります。 それが決定的に一人生では取り返しのつかない痛手につながる危険性を想定出来る時には、その場合最初からプランニングの中で思索しておく必要があり、 その実人生でのプランニングは、それでも、確かに、あらゆるファクターの集合が結果を生むのである限り、かならず正に》原理的には賭け《であるのでしょうけど、もうそのへん遊びとしてはとらえられない切実さを帯びてくるわけです。 まさに、》では、いつ何で大穴を狙うかが問題である《 というところは、 この切実な実人生での、まっしぐらな闘いの現場でこそ問われる問題だということになるかと思います。 私はここに、たとえ失敗しても失敗しても、それもどん底に陥り、時には悪や狂気の神経にまで落ちぶれてすらそれでも生き抜き、再び立ち上がり、切実に、魂が本当に求めるところを、求め続けるのが人生、人の命だと思っているのですが、 その魂からの叫び、実際の体験からの卓上の思考だけでは解らない深い「抜苦与楽」の叫びから、 そのためには、もちろん計算は出来うる限りしつつ、危険は出来るだけはさけつつですが、 人のため世のため(相身互いの普通の神経からのメッセですが、これが》何で《についての簡単単純な私の考えるところです) その意志を持った決断をすべきと思えた時(これも単純ですが、それを》いつ《の答えとして考えるところなのです) それを人生での賭けと私は考えているのです。 というより普段あまり考えてはいないのですが、そう思っていて、賭けということは常に意識の中に入り込んでいます。 つねに確率は問題視しているということです。 あまりしゃれっ気の無い回答になってしまいますが^^、 くそ負けるか! とどんな結果にも闘い続けるこころというか、そんな感じですね。 人間が人間的であらんとして、人間性の闘いに、どうして負けていられるか、くそ、このやろう♪♪という感じ^^で笑か!♪ 生業の方も忙しく^^、暇じゃないですけど、少し時間にゆとりが生まれましたので、卓上の思索も少し楽しんでみました。

alterd1953
質問者

お礼

私の意図を的確に汲んで頂きまして誠にありがとうございます。 人生における様々な危険を勘案した上で尚 魂から「何くそ!」とやる「賭け」にとても共感致します。 仰る通り、遊びのギャンブルは論外として 自分一人ならいざ知らず、大勢に影響が出る賭けの重さはいかばかりかと思います。 スティーブ・ジョブズも、正に、それをやったのかもしれませんね。 お忙しい中のご回答ありがとうございました。

noname#196137
noname#196137
回答No.2

全ての決断は、結果的には賭けだった。 本命を狙っていたのか、大穴を狙っていたのかも、後で気が付く。

alterd1953
質問者

お礼

非常に混沌とした中を生きる感じがしますね。 ご回答ありがとうございました。

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