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邪馬台国奈良の疑問

邪馬台国奈良説を支持される方は以下の内容をどの様に説明されているのでしょうか? (1)対馬等に代官置いたとありますが、奈良から安全な通行方法を確保した痕跡? (2)倭国風習は海洋民と想像されるのですが、奈良との関係性?? (3)東に倭国続くとありますが、南を東に読み変えて、この部分を記述通り解釈する理由? あくまで、どのように説明されているかの質問です。正誤ではありません。

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  • wazaogi
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回答No.2

ご要望の回答になっているかはわかりませんが・・・ (1) 畿内説派が『魏志倭人伝』の大陸から邪馬台国までの 総距離1万2000余里に対して考える、対馬を経由する ルートとしては以下のようになっています。 (連続説というやつです) 帯方郡 ⇒ (水行7000余里) ⇒ 狗那韓国 ⇒ (渡海1000余里) ⇒ 対馬国 ⇒ (渡海1000余里) ⇒ 一支国 ⇒ (渡海1000余里) ⇒ 末廬国 ⇒ (陸行500余里) ⇒ 伊都国 ⇒ (100里) ⇒ 奴国 ⇒ (不弥国) ⇒ (水行20日) ⇒ 投馬国 ⇒ (水行10日、陸行1月) ⇒ 邪馬台国 奴国以降は日本海側ルートと瀬戸内海側ルートに分かれますが、 どちらにしても通っていく国と距離は変わりません。 ルート上の各国に代官・次官がいたとされるため、支配下に 置いていたとする向きと、同盟国ないし外交関係にあったため、 外交官として置いていたとする向きの二通りがあります。 どちらの関係にせよ比較的安全な通行を確保していたものと 解釈できます。 (2) 最初に出会った日本民族を第一印象で海洋民族的な特徴を 持った「倭」と呼んだとすれば、後に特徴と合致しない事例が 出てきたとしてもそのまま続けて呼称した可能性があります。 (3) 何説であっても都合の悪いところや説明がつかない 部分については、そもそも想定以前に説明を避けています。 例えば九州or畿内どちらを取ってもうなずける部分と首を 傾げる部分があるのはそういうことです。ご存知かとは 思いますが。 前述(1)のルート上に狗奴国がないので説明していない、 ということです。 納得できませんよね。 私も納得できません。 だから決着もつかないのでしょう。

441moe
質問者

お礼

色々有り難うございます。7/8世紀に書かれた国内記録から3世紀の国内状勢を判断する事自体無茶な事前提ですので、逆に面白いと思っています。 近畿説なら3世紀に北九州を支配下に置くか友好関係にないと対馬の代官は存続出来ない?? また順次勉強したいと思っています。

その他の回答 (3)

回答No.4

(1)邪馬台国の所在地に比定されている纏向遺跡からは東海、北陸、関東、吉備などで作られた土器が出土しています。  このことから少なくともこの範囲で物流が可能であったということになりますので、人的な交流も不可能ではないでしょう。  また現在のように日常的に連絡をする必要もなかったでしょうから船や徒歩などの交通手段で十分かと思います。 (2)「邪馬台国」の風習ではなく「倭国」の風習ですから河内湾あるいは北部九州での風俗が「倭国での典型的な風俗」として記載された、といえます。 (3)東海地域に比定されるか思います。

  • chiha2525
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回答No.3

畿内説は支持しませんが、疑問には答えてみたいと思います。 1、記紀を見るに、四道将軍(でしたっけ?)以降は、一部の反乱はあったようですが、それでも九州まで勢力下に置いていると見えますので、そのあたりは問題なかったでしょう。むしろ神武東征においても、北九州から岡山あたりまでは安全に移動できたことは注目すべきことだと思っています。 2、ヤマト王権が九州を支配下に置いたとしても、北九州民が海洋民でなくなるわけではないので、なぜ疑問に思うのかが良く分かりません。 3、南が東なのですから東は北になります。琵琶湖とする説と伊勢湾とする説があるようですが、苦しいと感じます。 3に関しての私説の概要 方位のずれは、福岡平野とする比定地と、その方位の記述とのずれから来ているのでしょうが、もともとの國の名前と方位とが同じものとは限りません。というのも、そもそも魏志倭人伝に書かれているように、魏の使いは梯儁と張政の2回あり、その2回の倭への道程をもとに工程文がまとめられたと考えられるわけですが、もし梯儁が福岡平野経由で国々の名を、張政が佐賀平野経由で方位(と距離)を記したものを、同じ工程のものだと誤って1つに纏めてしまったとみるならば、それらが矛盾しているものではないと見ることができます。 これが私の説(のさわり)です。まぁ参考まで♪

  • wazaogi
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回答No.1

奈良説=畿内説ですね。 (1) 対馬国は日本列島と大陸の間に位置する孤島で、 軍事・交通・産業の面で要衝となり得たためです。 邪馬台国以降の歴史上でも重要な拠点となっています。 通行のためだけではありませんが、幅広い意味では 確かに「安全」のためですね。 (2) なにを以て「倭人」と呼称したかもまた様々な説があります。 一説には中国少数民族の王国がかつては海辺を中心にあったと されていて、これらを中国ではとりまとめて「倭族」と呼んで いました。 すなわち小さくてやや色黒の海洋民の総称が「倭」であって、 その体躯、風貌、風習から日本民族の血脈を、中国王朝では 同じ「倭」人としてみていたとする説があります。 畿内との関係性云々ではなく、これに関してはそもそも 日本民族=倭ということになります。 (3) 地理統計が確立されていなかった時代、 世界地図は今ほど正確なものではなかったため、 当時の記述をそのまま鵜呑みにはできません。 14世紀に李氏朝鮮で作られた『混一疆理歴代国都之図』の 地理認識では日本列島の九州が北、北海道が南となっています。 南の記述を東と読み替える根拠はここからきています。

441moe
質問者

補足

(1)近畿から対馬までの安全な通行路を確保していたか?  人物資の往来路確保しないと代官ありえないので。  3世紀近畿在住国家が、瀬戸内海、陸路、日本海側  九州北部と支配下に置かないと不可能と思うからです。   (2)邪馬台国も倭国、倭人に含まれるなら、同じ風俗のはずですね。奈良には海ありませんので、疑問に感じるわけです。 海南島の風俗、適当に海洋民族の風俗を適当に記載した?? (3)読み替え根拠は多々あるようですが、なぜ「南にくな国、東に1海を経て倭国」の部分は読み替えないのかが不思議なのです。 ややこしい質問方法でで失礼しました。

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