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「縁」について。
「縁」について思うことを教えてください。 私は 「人間は常に環境からの影響を受けて生きていることを表わす言葉」だと思います。
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遅くなりましたが、読んでいた本を一応読み終えましたので、ご報告方々、失礼します。 キンドルでは、日本の本がアップロードできないらしく、がっかりしながら、ドイツ語やフランス語の本を英語で読むことにしました。日本語で読むよりは、わかりやすいかも、という、怒涛のマークさんのご推薦で、カント(ウハァ)も買いましたが、これは、自信がないですね。哲学脳ではないんです。私の脳は。物理学の素養がないと無理ですよね?やっぱり。 それで、最初に読んだのが、ボルテールの”カンディード”でした。 常に環境からの影響に流されるようにして、楽天的に、人生の妙味を味わった男性の半生記です。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%B3%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%89 その中で、彼は、南米滞在中、エルドラドからつれてきた赤い羊を百匹、船主に騙し取られます。仕方なく、他の船で、ヨーロッパに向かう途中、(細かいところは省きますが)一筋の赤い線が自分たちの船に向かって泳いでくるのを発見。百匹のうちたった一匹が泳いで戻ってきたんですね。。。その羊も、彼は、失ってしまうんですが、たった一匹の羊は失った九十九匹の羊よりも、貴重なものでしょう。縁というのは、こういうものではないかなぁ、と。 私は、小さいときから、親に別れ、友人に別れ、祖国に別れ、比較的その場限りの人間づきあいをしてきたので、NO3さんのような、穏やかに繋がりあったご縁を思い浮かべることはできなくなっています。日本的な、縁側で涼んでいて、結べるような人間関係はいいですね。(もしかしたら、そういう意味では全然ないかもしれませんが、どうでしょうか。) 現在私の住んでいるところでは、自分をアピールし、いかに善良で、有能な人間であるか、証明したところで、ようやく、ご縁を築く第一関門が開きます。 ですから、あちらから一方的に与えられる神様とのご縁は、私にとって、ありのままで受け入れてもらえる、大変安らかなものであるといえます。
すみません。これアンケートだとばかり思って気楽に答えてました。て・・哲学だったのですね。 うーんユングを引用しておいてよかった。 場違いな投稿すみません。
お礼
いえいえ。 私は、軽い「哲学カフェ」的なノリでやってますのでお気軽にどうぞ。 フランス人に出来て、我々、日本人に出来ないことは無いでしょう(笑)
シンクロニシティという言葉があります。 「意味ある偶然の一致」という意味だと辞書には出てきますが、私は「縁」と呼ぶべきだと思っています。 具体的には、ユングがある女性の心理療法を行っていた場面でのこと 彼女が「黄金のコガネムシが現れる夢を観た」という話をしていた最中、2人がいた部屋の窓にコガネムシが ぶつかってきたのだとか。その部屋は薄暗く、走光性のある昆虫がぶつかってくるとは考えづらい 状況だったといいます。 噂をすれば影・・というのもこの類ですが、シンクロニシティというのが縁ということと 密接な関係を持っていると思うのです。 この背景には「意識が現実を創造する」という認識があって、(引き寄せの法則とかいろいろ説は ありますが)呼び寄せた現実は意識が作り出した「縁」ということになります。 それならば、神の恩寵など関係ないじゃないかと言われそうですが、意識が現実を生み出す にあたって、不安と結びつけば不幸が呼び寄せられるわけで、不幸を縁と呼ばないように、 幸福な現実だから縁であり恩寵であるのです。 男からこういうことを言われるのは気持ち悪いでしょうけど、alterdさんが私と同じ 1953年10月生まれのサックス吹きということも偶然の共通点、縁だと私は感じています。 そのことがないとさほど親愛の情を抱くこともなくすれちがっていたかもしれません。 共通点があれば差異もあるのが人間で、alterdさんはおそらく言葉で説明しきれないことは お嫌いなのかなと拝察します。すみません。 私は、自分が馬鹿ではないことは自覚していますが、これを言ったら馬鹿だと思われるような ことを口にするのが実は大好きです。 そのひとつがオカルト趣味。 「世の中に偶然はない。すべては必然だ」という考えがあります。もちろん他動的に生きるのでなく、 自分から外界に働きかけて、そのうえで外界が与えれくれるものを受け入れるという意味です。 シャーリー・マクレーンで思い出しましたが、今から25年くらい前に『アウト・オン・ア・リム』 を読んでその神秘体験もさることながら、偶然の出会いがすべて意味を持つという物語の展開に感銘 を受けました。 それをきっかけに、ニューエイジサイエンズにどっぷりはまった時期があります。 翻訳家の山川夫妻が訳した本はほとんど読みました。 そもそも私は13歳の時弟を亡くしその責任の一端は自分にあるという幻想に囚われていました。 私は呵責の念から逃げたくて、曹洞宗の経典や母がはまっていた谷口雅春『生命の実相』を糸口に 神道・キリスト教・大本教をはじめとする新興宗教まで一通り入門書の類を読み漁った宗教少年でした。 (ちなみに成長の家信者ではありません) もちろん一方で素粒子論や宇宙論の入門書を並行して読んでバランスをとることにつとめたつもりです。 ニューエイジで語られることは実はすべて既存の宗教が語ってきたことで 「すでに聞いたことがあるなつかしい話」は何の抵抗もなく受け入れることができました。 ニューエージサイエンス流には、縁というのは、波動の共鳴。 共鳴することで、はじめて力を伝えることができる。人は自分と似たものを引き寄せる。それが「縁」であると。 あーあ、なんだかインテリジェンスの高い常連さんたちから、相当白い目でみられそうです。 あ、そうそう、#4さんの水面下に連なる地形はまさにユングの言う共通無意識のことかもしれません。
お礼
おお。 これはまた読み応えのあるご回答ありがとうございます。 exhibitionistさんは、前から私に近い方とは思っていましたが かなりなものですね(笑) 私も、ニュー・エイジ関連は興味がありましたので 「シンクロニシティ」「アウト・オン・ア・リム」 「タオ自然学」等興味深く読みました。 オカルト関連では そのものずばり、コリン・ウィルソンの「オカルト」が凄く面白かったです。 後、宗教関連では 「臨済録」が、サルトルなんかよりは、よっぽど読み応えがありましたし ウィリアム・ジェイムズの「宗教的経験の諸相」も、とても好感を持てました。 また、仰る通り、ニューエイジ・サイエンスの言っていることは 私も、宗教がすでに言っていることばかりのように思います。 私は、特に老子が好きですので余計そう思います。 ですので、私にとって、学問というものは 賢者の直観を追試しているようなものであると捉えています。 最近も「ヒッグス粒子」が発見されましたが こんな発見はせいぜい百年に1度ぐらいでしょうし 実際、光の波動性に関しては、あの大天才のニュートンも間違ったようですし アインシュタインも「宇宙項」は失敗だったと言っていたそうです。 (皮肉にも最近見直されているようですが) そして、ホーキング博士も「ヒッグス粒子」には懐疑的だったそうです。 つまり、人間にとって「真理」は常に揺らいでいるんですよね。 その事実に私は物凄く興奮します(笑) その内、「DNA」の中に「共通無意識」の証拠が見つかれば フロイトの鼻を明かせますね(笑) >あーあ、なんだかインテリジェンスの高い常連さんたちから、相当白い目でみられそうです。 やたら、人を白い目で見る人の方がインテリジェンスは低いと思います(笑) ではまた(笑)
海面上にところどころ突出して見える島々が 現世の私達だとしたら、水面下に連なる地形の 全てが「縁」ではないかと感じます。 海ゆえに「塩」かもしれませんけれど。 住宅の一階和室の庭側に良く付いているもの、 そう、縁側。 あれなど、まさに縁を連ねる場所だったですね。 フチを何故エンと呼んでこの字を当てるのでしょう。 そこに何か深いものが隠れているように感じます。
お礼
相変わらず、例え話がお上手ですね。 確かに、見えない物の表れが縁ではないかと思います。 縁側の例えも良いですね。 日向の縁側でゆっくり話せるようなご縁であれば最高です。 話は少しそれますが 「塩」に関して思い出すことがあります。 それは、中学校の先生が色紙に書いてくれた 「汝、地の塩になれ」という言葉ですが 最近になって、ようやく分かって来たように思います。 ご回答ありがとうございました。
私にとっては、縁といえば、”仏縁”、あるいは、”縁起”のことです。英語・キリスト教だと、グレイスになります。人間の努力とは関係のないところに存在する、人間からの視線では偶然ですが、後に振り返ったときに恩寵であったのが判る出会い。信念を持って、血のにじむような努力をして、手に入れた配偶者を、”ご縁がありまして”といわないのと同じでしょうか。根っから宗教的でして。 ユダヤ人の作家、ジャージー・コーシンスキーが本を書き、ピーター・セラーズとシャーリー・マクレーンで映画化された、”ビイング・ゼアー”という優れた作品があります。ご覧になったことがあるかもしれませんね。役者出身のロナルド・レーガンが大統領にさえなれる、アメリカの政治界を鋭く風刺したものだ、とみる人もいます。 主人公のチャンスは、だれにも知られずに、植木師として、お屋敷の中で生まれ育ち、学校にも行かず、知識は植木関係とテレビの受け売りのみ、しかし、住んでいたお屋敷と、その服装の立派さから、周りに誤解されて。。。という、ストーリーです。非宗教的な意味合いでの”ご縁”を、そのまま映画にしたら、こんな風になると思います。 あと、もうひとつ、昨夜から読み始めた本が、”ご縁”と関係があるようでしたので、それを書いてみたかったのですが、まだ読み始めたばかりなので、どうしてもまとまりません。ですので、まとまりのない回答になりました。 別件ですが、音楽関係のご質問、凄かったですね!私も百を超えたところで、是非、参加したかったです。しかしながら、No.1から読み返して、重複しないような曲名を探し出す根気がなくて、見送りました。おなじみさんのご回答、楽しく拝見しました。
お礼
なるほど、縁がグレイスですか。 Ciaopolpoさんらしい、人間が大きなものに包まれている感じがします。 チャンスはとても良い映画でしたね。 人間の善良さがいかに大事であるかを良く表わしていたように思います。 ピーター・セラーズのとぼけた善良さが凄く活きていました。 それと、この質問は2週間は開けておきますので 今、お読みの本のご感想も出来ればさわりだけでもお願いします。 後、音楽の質問は、お題が、たまたまハマったのと お盆休みだったのが効を奏したのでしょうが 前代未聞のお祭り騒ぎになり途中で頭がクラクラしました。 恐らく、一生忘れる事は無いだろうと思います。 私にとって、正しくグレイスでした(笑) ではまた(笑)
- pandaApple
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「環境」というと、なんだか具体的なものばかり浮かびますが、そういう具体的なものもそうですが、さらにはもっと抽象的なものとの関わりも、「縁」には含まれるように思います。 また「あらゆるものからの影響を受けて」いるだけではなく、影響を受けて存在する「私」自身が、「あらゆるものに影響を与えている」存在でもあると思います。 私が仏教を学ぶ過程で「あっ」と思ったことは、《私が存在するから世界が存在する》のだということです。 私が存在しなければ、今のこの世界は存在しない。今とは違った「世界」であるはずです。 先の方の回答でいえば、「私があの時死んでいれば、この子(孫)は生まれなかった」です。私が存在するからこそ、「子(孫)」が存在する。 あるいは、私が今日、散歩に出て、土手を歩いて、ぺんぺん草を踏んでしまったら、そのぺんぺん草は枯れてしまう。私が踏んだことで一つのぺんぺん草がなくなってしまう。ごくごく僅かなことではあっても「世界」が変わってしまう……。 また、全く何の接点がないように思われることでも、私が存在するから成立していることが数多くあると思います(長くなるので例は挙げませんが)。 とにかく、何か一つ歯車が違ってくれば、今の「世界」は全く違ったものになる……。 「縁」を「人間」だけのものとは考えず、「世界」のありとあらゆるもの(道端のぺんぺん草一つでも)に《影響》を与え合うことだというのが、「縁」だと思います。
お礼
なるほど。 自分と世界が双方向で影響しあっているということですね。 以前、コンピュータ・シミュレーションから導かれた概念で 蝶の羽ばたきのようなささいな現象でも 台風の進路を変える可能性があるという いわゆる「バタフライ・エフェクト」を聞いた時に 似たような感慨を覚えました。 私も、この世には何か精妙な双方向の働きがあるのだという感覚を持ちます。 ご回答ありがとうございました。
- Nebusoku3
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>「縁」について思うことを教えてください。 >「人間は常に環境からの影響を受けて生きていることを表わす言葉」だと思います。 「人間は常に環境からの影響を受けて生きていること」についてはその通りと思います。 (環境に関しては自然環境も社会環境も含んでいると理解しています。) 自分の考える「縁」はその他に 文字通り、「色んな人、原理、真理、物との出会い」 と考えております。 社会環境、自然環境がどんなに働いても「縁」無ければ一生会うことも無い方々や真理などにも遭遇することがありません。 「縁は異なもの味なもの。。」 という言葉があった様に思いますが、本当にそう思います。 自分の孫のことを見ていると自分が若いころに死にそうな危険な目にあったことを思い出します。あの時死んでいればこの子も居ないのだな。。といったことを考える事も「縁」 のうちではないかと思います。 孫との “出会い” ですね。。。
お礼
最近、Eテレでやっていた「コロンビア白熱教室」という番組で 「選択」について講義をしていました。 その最終回で 「人間は何を選択するかによって本当の自分を知る」 あるいは 「人生は選択によって作る芸術である」と言っていました。 そういう意味で、人との出会いは正しく大きな縁であり その人と深く付き合うがどうかが、その後の人生に大きく影響があると思います。 そして、仰る通り、それは自分にとっての真理に出会う旅ではないかと私も思います。 後、これもまた、仰る通り、出発点から遠く離れた場所で ひとつの結果に触れた時に「縁」の不思議を感じるのかもしれませんね。 ご回答ありがとうございました。
お礼
ほ~。 ボルテールがそんな小説を書いてたんですね。 なんか教科書で政治絡みで出会った切りであまり興味がありませんでしたが ライプニッツを批判的に取り入れているのなら興味があります。 但し、ライプニッツも微積への貢献は凄いとは思いますが いわゆる「モナド」に関しては、ニーチェの「永劫回帰」と同じく 疑いの目を向けてます。 そして、生真面目と言うか厳しい感じがするCiaopolpoさんが 競争社会であるアメリカへ行かれたのは必然のような気もします。 私もまた、どちらかと言うと、厳しい人間だと思いますので交友関係は狭いのですが せめて、その関係だけは大切にしたいと願っています。 その観点からすると 聖書の最初に書いてある 「神の言葉、全ての人に開かれて」と言うのは ある種の救いではあるでしょうね。 ではまた(笑)
補足
そろそろ締め切らせて頂きます。 軽い「哲学カフェ」的なノリでやらせて頂いておりますが 随分、良いお話をお聞き出来ました。 皆様、ご回答ありがとうございました。