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イエス キリストが無実で死刑になった時の責任
今日、新約聖書を読みました イエスが裁判を受けて、裁判長のピラトに死刑を宣告されて刑士に引き渡されましたが ピラト自身はイエスに対して、この人には何の罪も無いと言っています しかし民衆が死刑にしろと言い、暴動になりそうなので、やむなく死刑と定めたのですが、深く考えれば無実のイエスを死刑にしたのは、一般に言われているようにユダヤの民衆ではなく裁判長のピラトと思うのですが私の考えは変なのでしょうか?アドバイス戴ければ幸いです
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史実と聖書的伝承上のそれを混同すると,ややこしくなるので,聖書の描写に軸足をおいて回答を試みたいと思います。(まぁ,史実のピラトは聖書とその周辺以外に史料が残っていないので現状では闇の中です) 分り易いように,ここに出てくる人々の立場や身分を考え,その状況証拠から動機を探ってみます。 まずは,ピラトから始めましょう。 彼はローマ帝国のエクィテス(経済界で成功した家系)と言われる層に属していました。 そして,ピラトの願いはなるべくローマ皇帝の目に付かないよう平穏に総督の任期を過ごすことでした。 当時のローマでは,金持ちになる最短ルートが東方諸属州の総監になることでした。 東方は西方より豊かで発展した地であり,徴税権などの社会的システムから一代で財をなすことが可能でした。(反面,不正がバレて地位を失う人も続出したそうですが) おそらくピラトもそうした総督の一人であったろうと考えられています。 イエスの裁判に関しては,意外と公平であったようです。 ユダヤ人(議会)がイエスを罪人として付き出した時,尋問をしてもなんら罪が見つからないとしました。 それでも、ユダヤ人達が騒ぐので,ユダヤの王であるヘロデ王に責任を押し付けようとしました。 ところが,ヘロデ王も尋問しても何ら罪が見つからないといってピラト側に押し返します。 余談ですが,この意見の一致で不仲であったヘロデ王とピラトの関係が改善したとか。 閑話休題。ヘロデも無罪だと言っていると伝えても,ユダヤ人達の要求は収まらない。 このままでは暴動が起き,ひいては自分の地位が危うくなると思ったピラトは1計を思いつきます。 せっかくの過ぎ越し祭りなんだから恩赦を与える。 イエスと殺人犯バラバとどちらかを選べと。 ユダヤ人たちは一斉にイエスを十字架へと叫び,ピラトもそれに従いました。 選択権はユダヤ人に丸投げして罪のない人を十字架刑へかけることの罪悪感から逃れたのかもしれません。 ともあれ,ピラトの感心事はユダヤ人の青年の行く末ではなくて,自分の地位を安寧に保つことであったわけです。 次にユダヤ人議会の動機です。 当時のユダヤ人社会は,ローマ帝国に支配されていたものの,ある程度の自治権は与えられていました。 そこで議会の構成員であるサドカイ派と呼ばれる人たちが,宗教的にも政治的にも比較的自由に統治していました。 ところが,ローマ人官吏との癒着やローマ側の機嫌を伺ってばかりで腐敗していました。 彼らの権力の基盤はローマ側に依って立っていました。 そこに自分達のことを批判する一大勢力が現れました。 それが、イエスとその団体です。 イエスの動きが自分たちの立場を危うくすることを危惧していた彼らは,事あるごとにイエスに難癖つけて貶めようとしましたがうまくいきません。 しかし,過ぎ越し祭りの時にとうとうその身柄を確保することに成功します。 ところが,議会側の権限でイエスを裁くための罪がない。 幾ら自治権を任せられていると言っても,死刑に値するような重要な犯罪はローマ側(つまりピラト)にあったわけです。 そこで,彼らはピラトに「ユダヤの王を僭称した(=ローマに抗して反乱を起こそうとした)」のだから十字架刑へと詰め寄ったわけです。 十字架刑というのは,ローマの処刑法でユダヤの処刑法ではありません。(これって結構重要なメタファーだったりします) だから,何度も強くピラトに詰め寄っていました。 三番目の立場に属する人は,ユダヤ一般民衆である民衆派(ファリサイ派)です。 彼らは宗教的感情からローマ憎しの思いが募っていました。(或いは日和見を決め込む) また,ローマにしっぽを振ってばかりのサドカイ派にも不満を持っていました。 なので,最初はサドカイ派にもローマにも反抗的だったイエスに好感を持っていました。 ところが,イエスは宗教的儀礼にばかり固執するファリサイ派の指導層にも批判の矛先を加えます。 また,イエス教団が「神の国は来た」と喧伝している割には一向にローマに反旗を翻すでも生活がよくなるでもない。 そうして徐々に民心がイエスから離れていきます。 そうして迎えた過ぎ越し祭りの日。 過ぎ越し祭りと言えば,ユダヤ教で最も大切で盛り上がる祭りです。 祭りでは,人々の気分は高揚するものです。 そして,おそらくサドカイ派とファリサイ派の指導層などが上手く扇動してイエスを十字架にというシュプレヒコールを上げ,ピラトに圧力をかけイエスを十字架にかけるよう促しました。 以上が,主な登場人物・団体の背景でしょうか。 ともあれ,キリスト教の教義では「イエスが不当な裁判で十字架にかけられた」という人権上の問題よりも,「イエスが十字架に掛けられることで人類の罪が赦された」という贖罪論の方が重要視されます。 かなり前にオランダ・ハーグの国際司法裁判所に「イエスの名誉を回復しろ」的な事を訴えた弁護士がいたそうです。 結果はまともに取り合ってもらえなかったようですが,人類救済論を唱えるキリスト教会にとっては冷や汗モノだったかもしれませんね。 長文乱文失礼しました。 参考になれば幸いです。
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- k16399638
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3番さまのアンサーがすばらしいので、蛇足程度に漫談であります。 ポンテオ・ピラトにしてみれば、バラバを処刑したかったのです。 聖書では、 「このバラバは、強盗であった」 と記されています。この『強盗』という言葉は今日では反ローマの武装集団である、という見方が一般的です。バラバはピラトにとって現実的脅威でした。 実はイエスも「宮清め」事件、神殿で商売をしていた人を暴力で排除した障害犯であり、この乱暴をしたあげく、この神殿がくずれたら自分は三日で直してみせる、と豪語されました。ユダヤ教の神官にしてみれば非常な侮辱です。イエスがピラトに引き渡された理由のひとつが、ユダヤ教神官と彼らにしたがって生きているユダヤ人の多くでした。 しかし尋問したピラトにしてみれば、天秤にかければバラバを刑に処したい気持ちに変わりはありませんでした。ユダヤ教神殿・神官の怒りはローマ人のピラトにしてみれば、正直他人事です。 なのでピラトは簡単な尋問のあとで、民衆に 「この人に罪はない」 とまで言い切ります。十字架につけろ、とまでいう民衆に対してそう言ったのです。 しかしなおも、民衆はイエスを十字架に、といいつのって、そうしなければお前はカエサルの友ではない、とまでいいました。そこでピラトは 「自分にはこの人の血について責任はない」 と、衆寡の前で水を手にかけさせて洗うパフォーマンスをします。自分の手は血に汚れていない、と。 福音書によってこのあたりの描写は異なりますが、ユダヤでいかなるかたちでも自分の政治的立場・生命を保とうとしたピラトは、イエスは無実ではないかと民衆に判断をゆだね、責任を巧みに回避した有能な政治家であったとおもいます。 コプト教会、エティオピア教会では、この事件のあとピラトは悔い改めたとされ、ピラトを聖人に列しています。
お礼
回等ありがとうございます ピラトが 責任を巧みに回避した有能な政治家であったと 言う意見は 非常に納得できるものです 時々聖書を読むのですが、ふと疑問に思ったので御聞きしました ありがとうございました
- chiha2525
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イエスの裁判などについては、昔から研究されているであろうから、それなりに詳しい解説なりがあるのではないかと思うのですが、wikiの記事もイマイチ信頼性に欠ける書きかけのようなもので、でもそれなりには参考になるでしょうか。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E3%81%AE%E8%A3%81%E5%88%A4 しかしどうにも後付け臭さが抜けない…
お礼
ありがとうございました 今の考えとしては、ピラトは職務放棄したのでは無いかと思っています しかし、神がピラトの心をその様にしたとも思いますし 暴動の可能性などの周囲の状況やイエスが自ら命を捧げると言っているのですから 全ては必然であり、運命とも思います
補足
ありがとうございます 参考になるアドレスを拝見しましたが 自分で責任が無いと言い、群集がそれを認めたのなら 責任は無いのでしょうか ピラトはイエスを兵士に引き渡したのは裁判の結果としてではなく リンチにかける事を認めたのでしょうか この様なことが疑問に思えたので質問しました しかし、アドバイスには感謝します ユダヤ人には裁判権が無く、予審とでも言うものがあったのですね
- uen_sap
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あなたの考えは変です。 ピラトは執行者。 責を云々はよくわからない。 キリスト教にとって、復活は必要なことですから、責任問題は意味不明。
お礼
ありがとうございます イエスは自分で命を捧げると言っているので ピラトは単なるその補佐役の様なものでしょうか それならば、ユダヤ人がイエスを殺したとの話も意味の無い ものになってしまうでしょう 実際にイエスは復活しているのですから、イエス殺人の罪も誰にも無いと思えるのですが このあたりの論理的、法的な意味が知りたくて質問しました
お礼
丁寧な回等ありがとうございます 一番興味を持ったのは、ピラトの感心事はユダヤ人の青年の行く末ではなくて,自分の地位を安寧に保つことであった と言う箇所です そして、責任を民衆に丸投げして問題を回避したのですね 今の政治家や官僚にもあることの様です その時の民衆は興奮して正常な判断が出来なかった また、ユダヤの全員一致の意見は間違っていると言う話は以前にも聞いたことがあります だからこそピラトの責任が気になったのですが 他の方の回答にピラトは後に聖人に成ったとありますから、おそらく自分の罪を認め懺悔したのでしょう 私は、ピラトはその職責を十分に果さなかったと思うのです、たとえ暴動を招いても無罪とするべきと思いました しかし、イエス自身も 父よ、御心(みこころ)なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください と祈っているのですからイエスが処刑されることは避けられない事だったとも思います ありがとうございました