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もし、自分が冤罪で死刑の判決を受けたら
死刑賛成派の人は自分が冤罪で死刑になる可能性は全くの想定外なんでしょうか? 死刑賛成派の人は反対派の人に対して 「それじゃ、自分の身内が無残に殺されても死刑反対と言えるのか?」 とよく反論しますが、それでは 死刑賛成派の人は 自分が万が一 無実の罪で死刑を宣告を受けても 死刑賛成を貫けるんでしょうか? 貫けるとしたら これは確率論の問題でしょうか? それとも、それくらいのリスクを甘受する覚悟があるんでしょうか?
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- naocyan226
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死刑と冤罪を同じ範疇において論じるから、こういう疑問が出てくるのでしょうね。 前者は刑法における処断刑の範囲つまり量刑の問題で、後者は裁判における裁判官の被告人に下すべき宣告刑を決定する作業上の問題です。 死刑の是非と冤罪のことは全く別ものです。つまり、死刑賛成者でも冤罪には反対でしょう。 しかし、 もし自身が冤罪で死刑を宣告されたら、当然怒り狂います。が、裁判所が最終的に決めたことに反抗できません。まことに悔しくで残念で無常ですが、死刑制度がある以上は仕方ないですね。 ここであわてて死刑反対論者になっても遅いです。天に向かって吐いた唾が自分にかかるわけです。 要するに、死刑の是非を論議する際には、裁判制度とその現状の是非も併せ論議する必要があります。
自分が冤罪で死刑になる可能性はあっても、死刑制度は必要だと考えます。 私が疑われて取り調べを受けたら、いかに都合の悪いことがあっても、包み隠さず話しますし、話の矛盾を突かれて誘導されたら、矛盾を認め、真実が何であったのか説明する方法を、冷静に考えさせてくれるよう頼む心算です。 そして、死刑判決を受けたら、運命を受け容れます。 個人としての自分よりも、社会の秩序の方が大事だと考えるからです。
お礼
ありがとうございます。 そこまで言い切るのは偉いです。もっとも、実際に万が一そういうことになったら これは別の話ですが。 ともかく、私が全面的に賛同できかねる部分は残りますが、それでも 両方の立場を考慮し客観的な立場で判断し、#7さんよりもはるかに簡潔かつ明瞭に結論を導かれたことは賞賛に値します。
- key00001
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個人が冤罪で死刑になるリスクを甘受する覚悟など、出来るワケが無いでしょう。 そんなモノを甘受する必要も無いし、甘受してはいけない性格です。 そもそも「冤罪被害があるから、死刑に反対」と言うのは、詭弁的要素を含みます。 冤罪そのものが、排除すべき「悪」であって、その悪は容認する前提でないと、その反対論は成立しませんし、死刑そのものの悪性については全く言及していません。 「死刑存置国においては、冤罪による死刑執行を、絶対に行ってはならない」と言う当たり前のことを、逆接的に言っているに過ぎません。 実際、近年においては、明らかに冤罪で死刑執行された事件などは顕在化しておらず、むしろ死刑囚が釈放された事例の方が存在しており、少なくとも日本では、「疑わしきは処刑せず」と言う「当たり前」が徹底化されてきています。 また、「可能性があるから」を理由にするなら、「殺されるかも知れないから殺した」と言う正当防衛論なども容認せざるを得ず、人道主義など死刑そのものを悪とする死刑廃止論とは相容れない性格です。 確率論の観点で言えば、ミクロ的には単純に、自分や身内が死刑になると言うレベルですが、マクロ的には死刑存置による犯罪抑止力で、自分や家族が殺人事件などの被害者や、逆に加害者、あるいは冤罪被害者にもなりにくいと言う部分まで考慮されます。 死刑が存在することによって、ミクロ的には冤罪被害で死刑になる確率が存在する一方で、マクロ的には自分が非業の死を遂げる様な確率は大幅に減少するので、確率論で言えば個人レベルでもメリットがある可能性が大で、社会的なメリットは多大です。
お礼
毎度ありがとうございます。 しかし、key00001さんは核心に辿り着くのに いつも冗長で回りくどくなる傾向がありますね。(笑) >そもそも「冤罪被害があるから、死刑に反対」と言うのは、詭弁的要素を含みます。 多くの人が死刑と冤罪は別物だと仰いますね。これを言ったら、遺族感情と死刑も別問題になりますけどね。確かに同列では扱えなくとも、冤罪で死刑になるというのは両方の問題が交差する事項であり、まるっきり切り離して考えることこそ詭弁ではないでしょうか? #2さんと#4さんのお礼も参考頂きたいんですが、現在のような警察や司法の信頼が揺らいでいる中で 死刑が判決後即刻バンバン行われたら冤罪の死刑囚は冤罪を証明する機会さえも奪われてしまいます。そう言えば、アメリカ人の銃問題についての議論掲示板を見たんですが、銃と殺人は別問題だという意見も多かったですね。銃の所持は自分の身を守るためであり、銃がなくとも人は殺せるだそうです。 >「死刑存置国においては、冤罪による死刑執行を、絶対に行ってはならない」と言う当たり前のことを、逆接的に言っているに過ぎません。 いや、中国やイスラム諸国は冤罪による死刑執行自体を重大視していませんよ。 >また、「可能性があるから」を理由にするなら、「殺されるかも知れないから殺した」と言う正当防衛論なども容認せざるを得ず、人道主義など死刑そのものを悪とする死刑廃止論とは相容れない性格で これは少し論理の飛躍じゃないですか。第一、日本は正当防衛がなかなか認められにくいし。 >確率論の観点で言えば、ミクロ的には単純に、自分や身内が死刑になると言うレベルですが、マクロ的には死刑存置による犯罪抑止力で、自分や家族が殺人事件などの被害者や、逆に加害者、あるいは冤罪被害者にもなりにくいと言う部分まで考慮されます。 ミクロとかマクロとかまた話をややこしくされていますが、もっと分かりやすいのは身代金目的誘拐でしょう。誘拐は今まで成功例のない割に合わない犯罪だと言われますが、これは抑止効果が目的ではないでしょうかね。 大きな声では言えないんですが、警察に通報したらおそらく8割は人質が返らないんじゃないでしょうかね。誘拐犯は警察の動きを察知した時点で身代金の受取りを断念し、連絡をばっさり止め、人質を殺害し 逃亡を図ろうとするでしょう。警察の動きを察知しながらも巧妙に身代金の受取りを決行しようとするのは もはやテロリストでしょう。しかし、警察に通報しなければ 7割は身代金を払えば無事 人質が返ってくるそうです。 それでも誘拐があったら警察に通報するのが正しいというのに似ているでしょう。 しかし、死刑にどれだけのメリットがあるかは疑問です。 そう言えば “死刑そのものの悪性については全く言及していません。”と仰っていますが、key00001さんの仰る “死刑そのものの悪性”とは具体的に何でしょうか? そして、その “死刑そのものの悪性”を上回る社会的メリットとは何でしょうか? また、key00001さんの十八番の社会契約論という舶来思想に行きつくんでしょうか?
- Subaru_Hasegawa
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死刑反対派の議員の理由の一つが表題の通りなんでしょう。 っていうか冤罪ではなくて、外観誘致罪などで公開銃殺刑になる議員がいるでしょうし。 そんな事を言ったら、火の扱いを間違えて家が火事になる可能性の方が高そうですな。 以上の点から、質問者の論理は詭弁にしかならない。
お礼
ありがとうございます。 >っていうか冤罪ではなくて、外観誘致罪などで公開銃殺刑になる議員がいるでしょうし。 あらら、当質問のテーマから少しそれますね。銃殺刑は現在の日本では行われていませんよ。 >そんな事を言ったら、火の扱いを間違えて家が火事になる可能性の方が高そうですな。 以上の点から、質問者の論理は詭弁にしかならない。 詭弁は むしろSubaru_Hasegawaさんの方じゃないでしょうか? ますます、死刑から話がそれてしまいましたね。死刑と火の扱いを比較するのはナンセンスですよ。しかし、Subaru_Hasegawaさんの詭弁につきあいますが、死刑がなくとも人間の営みは成立しますが、火がなければ 人間の暮らしは成り立たないでしょう。もっとも、私が家では 暖房も 灯油ストーブからエアコン、 調理もガスレンジからIH調理器にシフトして少しでも火事のリスクを減らすように努めています。死刑も徐々に他の方法にシフトできればいいんですが...
- hekiyu
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”死刑賛成派の人は自分が冤罪で死刑になる可能性は全くの想定外なんでしょうか?” ↑ 想定外でした。 そもそも冤罪で死刑になるような人には、一般の 善良なる市民など存在しないと思っていました。 こう言っては問題ですが、それなりの人だけが 警察に疑われるのだろう、と思っていました。 現実にはどうなんでしょう。 ”死刑賛成派の人は反対派の人に対して 「それじゃ、自分の身内が無残に殺されても 死刑反対と言えるのか?」 とよく反論しますが、それでは 死刑賛成派の人は 自分が万が一 無実の罪で死刑を宣告を受けても 死刑賛成を貫けるんでしょうか?” ↑ だから、これは死刑賛成の根拠にはならないと思っています。 遺族の具体的感情を根拠にすべきではありません。 根拠となるのはあくまでも国民の一般的感情です。 ”もし、自分が冤罪で死刑の判決を受けたら ” ↑ これに対しては、次のように反論します。 もし、死刑を廃止して、それで犯罪が増え被害者が増えたら どう責任をとるのだ?
お礼
いつもありがとうございます。 >警察に疑われるのだろう、と思っていました。 現実にはどうなんでしょう。 死刑になることはないでしょうが、例えば 殺害された被害者が誰かをレープしていれば レープの被害者にも警察は容赦なく容疑をかけるということ。殺害された被害者がストーカーだったら特に。殺害された被害者がレープの被害者の持ち物を所持しる確率は非常に高いですからね。そして、殺人の最も強い動機の一つに怨恨があります。 >根拠となるのはあくまでも国民の一般的感情です。 この前の質問では 遺族感情を重要視していたような発言をされた記憶がありますが、 考えが変わったんでしょうか? >もし、死刑を廃止して、それで犯罪が増え被害者が増えたら どう責任をとるのだ? 失礼ですが、お目出度いとしか言えないですね。いざ、自分の命が俎上に挙げられた時に、私ならそんな悠長なことは言えません。
補足
>>もし、死刑を廃止して、それで犯罪が増え被害者が増えたら どう責任をとるのだ? そう言えば、この前は 死刑による犯罪の抑止効果を疑問視するような発言をされていましたね。多分、hekiyuさんは死刑が好きなんですね。だから、死刑擁護の表向きの理由がコロコロ変わるんじゃないでしょうか?
- onbase koubou(@onbase)
- ベストアンサー率38% (1995/5206)
じゃぁ死刑じゃなく終身刑なら冤罪でもよいのでしょうか? 「冤罪」をいうなら「罪に問うべきではない」ということになります。 「冤罪」と「死刑反対」を同列に論ずるべきではない。 またそれをいうなら「冤罪が発生しない完ぺきなシステムがあれば死刑があっても良い」ことになります。
お礼
ありがとうございます。 私は死刑については在日米軍基地のように必要悪として消極的な容認派です。本当は無くせれば無くした方がいいんんですが、今の日本の現状では社会の治安維持のためには必要かと思います。ただ、反対派の多くは現実の認識に欠けるし、賛成派の人は死刑の弊害についても理解が不十分なことが多いです。 >「冤罪」と「死刑反対」を同列に論ずるべきではない。 これ、死刑賛成派の再反論として耳にたこができるほど聞き飽きているんですが、死刑賛成派の人にとって「冤罪」がいかに他人事かを物語っています。 それじゃ、一旦死刑は別として冤罪だけを考えてみます。 冤罪というのは証明されるのは非常に珍しいことなんです。ということは、冤罪が一件証明された裏側には 何百という証明されない冤罪が闇に葬られている可能性があるということです。 それではもう一度、死刑に戻ります。onbaseさんは死刑執行人の精神的負担を考えたことがありますか? それがましてや冤罪だったら... しかし、中国やイスラム諸国だったら死刑執行人も 死刑が冤罪だとしても比較的平気でしょうね。特に中国は人口が余りすぎていて、人一人の命なんか非常に軽いものとして考え パンダの命以下でしょうね。そして、中国では一人を冤罪で死刑にするよりも 犯人が捕まらない方が大問題なのです。だから、冤罪も小さいな問題として片付けられ、真犯人が見つからなければ最も怪しい人間をスケープゴートにすることなんか日常茶飯事です。 本題に入りますが、onbaseさんも冤罪で死刑の判決になるのは想定外のようですね。 私なら、自分でなくても 自分の身内が冤罪で死刑の宣告を受けたら “「冤罪」と「死刑反対」を同列に論ずるべきではない。”なんて能天気に割り切れないと思います。飯塚事件のようにならないように 少しでも死刑を回避させることを考え、冤罪を証明しようとするでしょう。 >またそれをいうなら「冤罪が発生しない完ぺきなシステムがあれば死刑があっても良い」ことになります。 だから、永山基準もある意味 理に適っているでしょうね。冤罪の可能性を考えても 1人は冤罪だとしても 3人の殺害とも冤罪という確率は限りなくゼロに近いと思いますから。 最後に、日本が原発を再稼働して 何十年か後に福島原発事故をはるかに超える大惨事が起きたら 私は死刑存置国よりも死刑廃止国に移住したいです。
- bari_saku
- ベストアンサー率17% (1827/10268)
冤罪で死刑判決を受けるシチュエーション自体が想定外ですね。 人一人殺したってなかなか死刑にはなりませんし、殺したいほど他人に憎悪の念を抱くのは自分のメンタルによくないので、極力回避します。
お礼
ありがとうございます。 >殺したいほど他人に憎悪の念を抱くのは自分のメンタルによくないので なかなか ここに気づく人は少ないですよ。
- gohara_gohara
- ベストアンサー率37% (573/1517)
私は、死刑は(消極的)賛成派ですが、そもそも、冤罪の問題と死刑の問題は無関係と考えています。 仰るように、無罪であるのに、冤罪で死刑になるリスクというのは存在しています。 しかし、では「死刑がなければ冤罪の問題が解決するのか」という応えは「No」である、ということです。死刑になるかならないかはともかく、逮捕をされれば、その時点で、その人は仕事を失います。そして、逮捕をされた時点で、世の中からは「犯罪者」という扱いを受けます。 その前提で考えれば、死刑の有無に関係なく、冤罪は許されないことである、となるはずです。 冤罪の可能性があるから、死刑はダメ、と言う理由にはなりません。 私は別に、死刑判決をどんどん出して、どんどん執行しろ、とは一切思っていません。冤罪の可能性のあるケースについては、今以上に慎重な判断が必要だとも思います。 ただ、例えば、秋葉原の無差別殺傷事件のように、犯人が逮捕された人物であることは疑いようが無いケースがあります。こういう場合に、死刑がある、というのは何も問題が無いのではないかと思います。
お礼
回答ありがとうございます。 >私は、死刑は(消極的)賛成派ですが、そもそも、冤罪の問題と死刑の問題は無関係と考えています。 私は冤罪で死刑になるのが最も屈辱的な死に方だと思います。足利事件の菅谷さんも 早々と死刑が執行されていたら無念を残したままこの世を去っていたでしょう。そして、冤罪の被害者もずっと増えていたでしょう。
- shirokomo
- ベストアンサー率27% (122/443)
>>死刑賛成派の人は自分が冤罪で死刑になる可能性は >>全くの想定外なんでしょうか? 可能性というのは何にでも存在しますからねえ。 私は女ですが、私が男で電車通勤をしていれば 痴漢冤罪で捕まる可能性もある、というのと同じレベルで 「そういうこともあるだろう」程度には思っています。 死刑を無くす/無くさない、賛成する/反対する というのを考えるとき"自分が冤罪で裁かれるリスク"は考えません。 >>死刑賛成派の人は 自分が万が一 無実の罪で死刑を宣告を受けても >>死刑賛成を貫けるんでしょうか? 違うということを証明する為にあらゆる手段を尽くします。 これは別に死刑に限った話ではないでしょう。 最初に私が書いた痴漢冤罪だってそうですし、 窃盗でも、傷害でもそうでしょう。 自分が冤罪でどうの、ということを"リスク"という形で考え、 そうなりたくないからと言っていては何もできなくなります。
お礼
回答ありがとうございます。 喩は悪いですが、例えば 近所で親同士、または子供同士が仲良しの家の子供が交通事故でけがをすると、多くの人は自分も危機感を感じて用心深くなると思います。 ところが、自分が殺したいほど憎んでいる人が交通事故で死ぬと、他人事どころか喜ぶ人もいるかもしれません。人間って ホント勝手ですよね。
お礼
ありがとうございます。 >死刑と冤罪を同じ範疇において論じるから、こういう疑問が出てくるのでしょうね。 またか。(笑) #7さんのお礼でも触れましたが、これとパラレルに考えると 死刑と遺族感情も全く別物なんですよね。 >ここであわてて死刑反対論者になっても遅いです。 これと似たようなことは 死刑反対者が遺族を無残に殺害された場合も当てはまるでしょう。 その点では #8さんが公正な判断力をお持ちです。つまり、身内を殺害されたわけでもなく、自分に冤罪をかけられた状態でもないからこそ、しかも両方のケースを想定できるからこそ、公正な判断ができるのであって、#8さんのお礼でも書いたように 事件に巻き込まれた当事者の意向を最優先にして考えるのは正しくないと思います。