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問題と答えは中に、それをつなぐ計算式は外に

私が問題を作りその答えは私の中にある しかし頭でわかってはいるがその通りにはできない その理由は計算式を理解していないから 計算式がなければ問題と答えはイコールで結べない 聖書を丸暗記しても意味がないのはこのため 問題と答えを結ぶ計算式は自分の外にある だから人は他者や社会を含めた外の世界を必要とする。 つまるところこういうことですよね?

みんなの回答

回答No.4

禅の大家である鈴木大拙博士の言葉に『答えはその問題を提起するその人の頭の中に既に、用意されている。』という意味の本を読んだ事があります。 貴方の質問が余りにも、大拙博士の言葉と重なっている意味を含んでいますので、一つの考察として書いてみます。 禅の目的は『見性成仏』です、自分自身を知る中に全ての答えがある、というほどの意味ですが、是は人間の意識性に疑問を持つという意味があります。 人間が何も疑問に感じないで、幸福感で満たされた心持が『天国』という訳ですが、天国に一番近い存在は幼子としています、そうして人間が成長した姿を『知恵が付いて、(識られざる自分自身の)神を疑う事によって、天国から追放された。』としています。 この中に貴方に対する答えが用意されています。その意味は『子供時代には、自分自身を疑う事が無かった。』という事実が隠されています。子供時代には『自分は何者か?や人生とは何ぞや?』といった事を疑う事がなかった、という事実があります。 思春期頃『自分の裸を他人に見せる事が出来なくなる頃』その疑問が頭をもたげています。丁度聖書の中の知恵の実を食べた効果が、恥ずかしいという感情を沸かせているように、人間の脳が完成に近くなった事を意味しています。 生命の神秘を悩む事が人間の悩みと思います。その神秘とは『生命体としての働き』を働く事が『生まれる時から始まっている事です。』 誰も疑う事も無く、誰も言い出す事が無いにしても、考えただけで分かる事があります。それは自分自身が生命体である事です。その生命他の主人公が誰であるのか?は抜きにしてです。 春が来て、毎年植物が一斉に、種から芽を出し始めます。桜ならその種としての花の色も葉の色も、全ての時期もはんこを押したように一斉に始まっています。昆虫でも同じです蜘蛛なら蜘蛛として、その蜘蛛独自の形から行動までも判を押したようにいつも一定しています。 人間も同じです、喜怒哀楽の感情は『万人共通です。』歌を歌えないにしても『絶対音感は持っていて、うまい人と下手な人の区別は、付ける事は出来ます。』 感動する場面では、これまた『万人共通で、感激する演技ではスタンデングオベーション(満場総立ち)という現実があります。』生まれたばかりの赤ん坊でさえも、何も習う事無く不安も安心も恐怖する事さえも、何も習う以前から『既に知っています。』 この既に知っている者を『命の働き』=『仏性』=『神』として仏典も聖書も、人間に教えようとしています。 shift-2007 さんの場合も、自分の自我意識が『命の働き』に疑いを持つ時、問題として湧き上がっています。 『命の働き』と一体になって働く時『答えはその手の中にあります。』ところが『一体になった時とは、没我の時や我を忘れている時』を指しますので、分かっていながら分からないという意味や、分からないけれども分かっているという意味になります。 見性体験をした時の言葉に『今更お前は誰かと聴く必要など無かった。』という事を語っていますので、実は誰でもが知っている事なのですが、その体験をしていない場合では、信じる事は出来ないと思います。 自分自身に疑いを持つ時『自分は何者か?』という問いになります。見性体験後では『自身は永遠からやってきて、又永遠に戻ってゆく事』が分かります。 幼子にはそういった能力が備わっているのか、自分自身を疑う事が余り無いように見えます。

shift-2007
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 天国にいちばん近い存在が成長し苦難を知る、そして見性得てまた天国に返る 見性を得るためにこの世界(ある意味で地獄)があるのかもしれないと思います。 人間にとって一つのルーチンになっているのかもしれません(あぁそれが輪廻ですね)。 >『今更お前は誰かと聴く必要など無かった。』 私という一人称を使う必要がなくなったという意味も含まれているのでしょうね。

回答No.3

聖書はロジックなんですよ。 聖書の内容は計算式になるんじゃないの。 深いようで浅い議論?具体的にお願いしますよ。質問者さんが解決したい疑問を質問サイトにご質問しているのですから。

shift-2007
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 聖書をどうのと言っているのではないのです。 それがロジックであってもいいのです 丸暗記しても意味はないと言いいたいのです 具体的なことを書かないとピンとこないならたぶん議論にはならないと思うので書きません。

回答No.2

 知識は外部のモノ。それを取り入れて内部で問題を解決する。  聖書を理解する計算式は仏教かと思います。  試してみてください。

shift-2007
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 計算式を示さないから闇雲に「信じる」が強調されてしまったんでしょうね。

回答No.1

聖書は外にある計算式の一つじゃないの。 例えばどういう問題と答え?具体性が必要。 内なる結論が先にあるのは宗教。外界ではなく宗教が必要ないのです。外界が要るのです。結論を先に出す思想がゴミという前提から計算し直しでしょう。

shift-2007
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 本という物質の話をしているわけではないのです。

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