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源実朝は自ら唐船を建造しなければならなかったのか?
『吾妻鏡』には、源実朝が唐船を建造して渡宋を計画したものの失敗に終わった有名な話が出ていますが、これ以前の日本に当時の中国から大型の商船(唐船)が六浦などに来た、あるいは日本で大型の商船(唐船)を所有していた、という歴史記述はありますでしょうか? あれば文献名、内容を教えてください。 実朝は自分で唐船を建造しないかぎり宋へ行く手段が本当に無かったのだろうか? という疑問です。
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直接的なご質問は、 「当時の中国から大型の商船(唐船)が六浦などに来た、あるいは日本で大型の商船(唐船)を所有していた、という歴史記述はありますでしょうか? あれば文献名、内容を教えてください。」 となっていますが、 先行回答への補足に「実朝がなぜ莫大な費用をかけて自ら唐船を建造しながら失敗したのか、まだまだ腑に落ちません。」 ともあります。 直接的な回答は、 ・大型船所有の文献は存じません。 ・建造を命じられた 陳和卿には、造船技術も造船棟梁としての能力もなかった。 彼は仏師(仏師木工人/鋳物師)に過ぎません、食い詰めて日本に流れて来た 山師・香具師然とした食わせ者と思しき人物です。 「建保五(1217)年の四月十七日に、この大船は竣工するにはするが、 如何に多数の人夫を動員して「諸人筋力ヲ尽シテ之ヲ曳ク」が、しかし、 海まで引き出すことが出来ず、船は由比ヶ浜に遺棄放置された」 これは造船の基本的なことに無知である証左です。 本質的な問題はご質問の後段、 「実朝は自分で唐船を建造しないかぎり宋へ行く手段が本当に無かったのだろうか? という疑問です。」ではないでしょうか。 ここから派生するのが、「実朝が宋へ行こうとした理由は何か?」 ・仮にも将軍が渡来の唐船に同上渡海と言う訳にはいきません。かといって、それらを買い取るような政治的行動への意欲が、当時の実朝にはなかった。 そもそもが政治的野心による渡海でなく、客観的には幼児性の思い付きともいえる動機にすぎません。 渡海の為には、自ら建造するのが必然の情況と考えます。 ・実朝は武家としては半端、公家もどき、社会人としても世間知らず。 ・実朝は政治軍事よりも、公家文化の人。一方で後鳥羽院の呪詛を受け、元来虚弱な体質に加え、子がなく、源家も自分の代でおわるなどとも言い、精神幽冥の境にあったと思われます。 ・陳和卿は実朝に謁見した際、「君はかつての宋国医王山(阿育王山)長老の後身であり、自分はその徒弟の後身である」と阿諛追従を言う。ところが実朝は「余程以前の夜の夢に、一人の高僧が入ってきて告げたことと一致した」として、陳の言い分をまる呑みに信じてしまう。 ・実朝は陳和卿に乗せられ、“前世の地、医王山(浙江省寧波所在)へ行くために渡宋の決心をし、この陳和卿に渡海用の大船建造を命じた”、建保四(1216)年。 *参照資料は「源実朝再考」からの孫引きです。必要に応じ原典への参照を願います。 *某氏による「源実朝再考」ご一読ください。 堀田善衛氏の「明月記私抄」をひもとき実朝の渡宋妄想と陳和の船に触れています http://blog.goo.ne.jp/norilino1045/e/be74fbd9c95da67ac26ae3275a440af6
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- d-y
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源通親の高倉院嚴島御幸記に以下の記述がありました。 福原より、「けふよき日。」とて「舟にめしそむべし。」とて、唐の舟まゐらせたり。まことにおどろ\/しく、畫にかきたるにたがはず。たうじんぞつきて參りたる。 http://www2s.biglobe.ne.jp/~Taiju/1180_itsukushima-gokoki.htm#06 ちゃんと最後まで調べてはいませんが、平家物語とかでもよければ、他にも「唐船」を描いた場面がありそうな感じです。
お礼
ありがとうございました。 前のご回答者様にコメントしました通り「やっぱり実朝時代(以前)に唐船あるじゃないか」というウラがとりたかったので大変参考になりました。
- d-y
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文献を挙げることはできませんが、平清盛が入宋貿易のために音戸の瀬戸を開削し、大和田泊を修築したというようなことを習ったと思います。大きな船が大和田泊まで来ていたということではないでしょうか。 高倉院が宋船で厳島神社に参詣されたという記録も、どこかにあったような気がします。
お礼
さっそくのご回答ありがとうございます。 平清盛。ああ、そうですね。NHK大河ドラマでもたしかに唐船が登場してました。「高倉院が宋船で厳島神社に参詣されたという記録」。貴重な情報ありがとうございます。調べてみます。 でも、実朝がなぜ莫大な費用をかけて自ら唐船を建造しながら失敗したのか、まだまだ腑に落ちません。このご回答者様には感謝申し上げながら、さらなる情報をお待ちしております。
お礼
ご回答のお礼が遅れ申し訳ございません。 詳細なご説明、感謝申し上げます。 当時(実朝の時代)はすでに中国大陸から大型の商船(唐船)が六浦あたりに来ていた、あるいは日本でも唐船を所有していた者はいたということは十分考えられる。なのに何故実朝はわざわざ自ら唐船を建造したのだろうか? というのが私の疑問でした。そのため、まず実朝時代の日本に唐船の存在、あるいは来航の記録があるかどうか文献で確かめておきたかったというのが今回の質問の主旨です。そのうえでご回答者様の言われる「本質的な疑問」を解き明かしてみようと思ったのですが、洞察力の深いご回答者様に先読みいただき、踏み込んだご回答をいただき恐縮しております。ご意見はおおいに参考にさせていただきます。ありがとうございました。