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吾妻鏡

こんにちは。 いよいよ本日、『鎌倉殿の13人』が最終回を迎えますね。 源頼家は、『吾妻鏡』に沿った三谷幸喜氏の脚本により、他人の妾を奪ったり、蹴鞠ばかりしていた暗君として描かれていましたが、政治もきちんとしていた人物と思います。 僧侶、慈円の書いた『愚菅抄』には、弓の腕前は、父の源頼朝に勝るとも劣らない優れたものであったとの記述があります。 その北条一族を褒め称えた歴史書『吾妻鏡』には、源頼家の事を伊豆、修善寺で亡くなられた、としかありませんが、『愚菅抄』には、その凄惨な最期が記されています。 北条義時、政子寄りの『吾妻鏡』より、『愚菅抄』の方が信憑性は高いのでしょうか。

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  • Nakay702
  • ベストアンサー率79% (10004/12513)
回答No.2

以下のとおりお答えします。 >北条一族を褒め称えた歴史書『吾妻鏡』には、源頼家の事を伊豆、修善寺で亡くなられた、としかありませんが、『愚菅抄』には、その凄惨な最期が記されています。北条義時、政子寄りの『吾妻鏡』より、『愚菅抄』の方が信憑性は高いのでしょうか。 ⇒仰せのとおり、鎌倉幕府、とりわけ源頼家の死をめぐる記述については『吾妻鏡』より、『愚菅抄』の方が信憑性は高いと推測することができると思います。 『吾妻鏡』は、武家支配・北条執権の擁護を主たる眼目として編纂されたのに対し、『愚菅抄』は、神皇の正統性・藤原摂関家の擁護や、歴史哲学・啓蒙を念頭において編纂されたものだからです。全7巻の最後(付録の巻7)では、日本の政治史を概観して、今後の日本がとるべき政治形体と当面の政策を論じている、と資料にありました。『吾妻鏡』の執筆者はおもに鎌倉幕府の要人であり、『愚菅抄』は天台宗僧侶の慈円の手によって書かれたものであるということもそのことを支持する事実と言えるでしょう。 『吾妻鏡』は、のちに『東鑑』とも書いたように、「西(京)の史書」に対する「東(坂東)の史書」といった意味合いを込めた命名だったのかも知れませんね。なお、『愚菅抄』の「愚菅」とは、「私見」の謙譲語で、それはまたそれで、編者慈円の謙虚な姿勢を語っている、と解釈できるかも知れません。 なお、詳しくは、 https://ja.wikipedia.org/wiki/吾妻鏡 https://ja.wikipedia.org/wiki/愚管抄 をご覧ください。

sora_iro1881
質問者

お礼

ありがとうございます。 そうですよね、吾妻鏡には、源頼朝の亡くなり方も、抜け落ちているのですよね、実際、落馬で亡くなったなんて、にわかに信じられないです。頼朝さんは義経に酷い仕打ちをしましたので、あまり好きではないので、3代で途絶えても自業自得な気が致します。 頼家さんは、近習も何処かへ流され、出家させられ、幽閉…これでもか、というくらいに翼をもがれて。 そんな寂しい毎日に風呂は、唯一の楽しみではなかったのかと思うのですね、何も暗殺しなくとも、と思うのですが…情けは禁物なのですかね、頼朝の例もありますし。 西の京都、東の坂東、坂東とは茨城の辺りでしたか?利根川を堺に、でしょうか。 愚菅とは、ご自身をへりくだった表現なのですね。 博識ですね!勉強になりました。(^^) 回答ありがとうございました!

sora_iro1881
質問者

補足

詳しくありがとうございます。 お礼は、夜になります。 すみません!

その他の回答 (1)

  • head1192
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回答No.1

それを示す根拠はどこにもない。 資料は客観的つまり「神の視点」で眺めなければならない。 私情が許されるのは歴史小説や歴史ゲームだけである。

sora_iro1881
質問者

お礼

ありがとうございます。 そうですよね。 分かりようがないです。 所詮、勝者の良い様に改ざんされているのでしょうから。 不都合な部分は削除、何処かの教科書と一緒ですね。 戦国時代のゲームなど、皆、見目麗しい若者に描かれていますが、そんは事はあるはずもなく。キャラクターの容姿でファンになるのも危険ですね。 回答ありがとうございました。

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