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希望という名の
あなたを尋ねて 遠い国へと また汽車に乗る・・ どこへ行けばいいんだろう・・?
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#18です。 >客観的事実の確認は比較的容易ではあるが、主観的事実の確認には困難が伴う場合が多い 確認が比較的容易な客観的な事実として、この世に神はいない。 確認が比較的容易な客観的な事実として、神しか絶対的意味を人に付与できない。 確認が比較的容易な客観的な事実として、人には個々人だけに通用する相対的意味しか造れない。 論理的な判断として、私に絶対的意味はない。 以上。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
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ごあいさつ抜きになります。 ▲(伝パウロ著:ヘブライ人への手紙11:1-40) ~~~~~ 1: 信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。 2: 昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。 ・・・ 4: 信仰によって、アベルはカインより優れたいけにえを神に献げ、その信仰によって、正しい者であると証明されました。 ・・・(中略:誰々がこのように《信仰によって生きた》という事例が挙げられている)・・・ 39: ところで、この人たちはすべて、その信仰のゆえに神に認められながらも、約束されたものを手に入れませんでした。 40: 神は、わたしたちのために、更にまさったものを計画してくださったので、わたしたちを除いては、彼らは完全な状態に達しなかったのです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ (あ) 11:2で 《昔の人たちは》とあります。そのようにイエスが出る前のお話です。 (い) すなわち ▲ 11:39 ところで、この人たちはすべて、その信仰のゆえに神に認められながらも、約束されたものを手に入れませんでした。 ☆ といった限界があるかと見られている。 (う) すなわち ▲ 11:40 神は、わたしたちのために、更にまさったものを計画してくださったので、わたしたちを除いては、彼らは完全な状態に達しなかったのです。 ☆ わかりにくいです。《パウロが書いたと伝えられている》のみの書簡だと学問的に(それが 決定打だとも言えませんが)認められていることと関係するようです。 (え) けっきょくこのくだりは とうぜんイエスの登場とそれによって何が変わったかを問題にしています。 (お) 端折りますが ヨハネの福音書では イエスによって《真理と恩恵》が増し加わったと説明しています。《信仰》論としてです。 (か) 《まこと(真理)》が 早い話が 《無根拠》のことです。《義なきをもって義とす》。 (き) 《めぐみ(恩恵)》とは 身と心とのあらゆるもの・あらゆるチカラが 自然本性としてあたえられたものであると同時に それが活かされチカラを発揮し得るようにみちびくそのハタラキについての――聖霊としての――めぐみを言います。 (く) すなわち まこととめぐみとを合わせて捉えるなら 次のようになると考えます。 ひとは うまれつきそなわった自然本性において生きるとき ――それは特には 存在の中軸としての意志(自由意志)によって生きるとき―― その意志が 人間の考えつとめようとする自由である部分を削ぎ落とされてのように つまりは おのれのむなしさ(=十字架上のわれ)を知ることをとおして あらたにあたえられた自由であるかのごとく けっきょく《無根拠》によってみちびかれて 《わたし》は 自然本性たるもともとの自由がそのすがたをすっかり現わした という状態に成る。 意志が わが意志としてはたらく意志が 世によってはりつけになって死んだとき もともとの自由意志として活かされるようになった。 これをめぐみとして あたえられる。 このワタシが 永遠の現在(そういう動態)である。 (け) 極端なことを言えば この《真理と恩恵》をあたえられたということは 聖書のオシエは もはやどうでもよいとなります。義無きを義とす。いっさいのオシエは 聖霊のハタラキ(すなわち 無根拠のチカラなきチカラ)に取って代わられます。 (こ) このような《非思考の庭なるのぞみ》という名の汽車に人びとは すでに乗っている。あるいは 火の中をくぐり抜けてきたかのようにして 乗車することへとみちびかれます。 わたしのように 完全な自由――あやまちうる動態として――になってください。
お礼
ありがとうございます。 >《まこと(真理)》が 早い話が 《無根拠》のことです。《義なきをもって義とす》。 いかにもBさんらしい表現と思います。 《義なきをもって義とす》とは 信仰における他力の極至であり、私的な解釈は不純でさえある、 受け取るがままに無根拠であってよい、という解釈なのでしょう。 それはそれで、信心の姿勢と、そこに現れてくる主観的真実を大切にすべし・・となりましょうか >あやまちうる動態・・ ご忠告ありがとうございます。 ここまで分析を進めてきて思う事は 一言で言えば 「平坦」であるという事です。 どのような論理的思考・考察であっても、感性的印象としては平坦にならざるを得ない 逆に見れば、平坦である事が論理的思考であるという事です。 それは自由意志の行いに対する形而上的な批判でもあります。 分析を始めた時から既に生じていた事でもありますが ここへきて、かなりその印象が強くなってきたことは否めません。 私、という自由意志を遊ばせてやってください それだけです。
補足
補足の続きです。 この場をお借りします。 考察の途中ですが、ここで一端、再び主観の展開をして、平坦性の解除を試みる事にします。 それは、感性の側からの申し出のようでもあり 直観把握は概念に優先するという一時許可の表れのようでもあります。 意志の自由が感性優位の選択の形式をとった場合の一例でもあります。 その内容は、説明も解釈もあえて必要としないものであり、各個人の自由な解釈に委ねられるべきものです。 「はじまり」 絶望は希望のはじまり 言葉なき絶望は 言葉なき希望のはじまり 誰が与えたのでもなく 誰が受け取ったのでもない 私という たった一人の人間に生まれた希望は 私に呼びかける 今ここの希望は 私の涙を拭いてくれる 微笑みを もう一度と言ってくれる 悲しみを背負ったばかりの私に 希望というあなたは 訳を言わず ただ、強くあれ とささやく 私が歩きはじめて 見えなくなるまで あなたは ずっとそこに立ち 私を見守りつづける 私の中を走るようにして現れたあなたを 私は今 希望と名付けよう つづく・・
「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」 (新共同訳聖書 ヘブライ人への手紙 11章1節) この言葉と >信仰という精神的事実の確定を単なるすり替えでないとすれば、神への信心はそのまま希望であると言えるでしょう。 貴方の仰るこの言葉はイコールと言えます。 >信仰における信心の確定の困難さをそのまま表していると思います。 信心即ち希望である、というところに辿りつく困難さです。 はい。 「そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます。」(コリントの信徒への手紙一 12章31節) 「たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。」 (コリントの信徒への手紙 一 13章1-2節) 希望を信じ、信じた希望を愛する。 このことが、希望を信じて生きることの完成点であると言えます。 「愛は、すべてを完成させるきずなです。」 (コロサイの信徒への手紙3章14節) 「信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。」 (コリントの信徒への手紙 13章13節) そして >希望を信じるという大切さは、生きてゆくことへの大切さ 希望を信じるがゆえに、生きることへの大切さが生まれる 貴方の仰るこの言葉とも、ほぼイコールです。 貴方は十分に、心の中に答えが在ると思います。 ただ、自分の中に在る答えを見つけ出していくために、他者との適正なやり取りが必要なことも分かります。 「人が独りでいるのは良くない。」(創世記2章18節)のですから。 こちらこそありがとうございます。
お礼
ありがとうございます。 神への信仰に精通されている事と存じます。 >「たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。」 たぶんと言っては失礼ですが この言葉が伝えようとしている事は 信心のごく浅い段階から深い段階までも含めて、愛の大切さ、重要性を説いているのだと思います。 どのような信仰においてもそうですが、超自然的な奇跡という面に捉われやすいものです。 しかし、信仰の本質とは、そのようなところにあるものではなく、むしろそれらは信仰に付随して派生するものとして捉えられるべきと思います。 信心の段階に応じて起きてくる出来事に目を奪われてはいけない、愛という本質を見失ってはいけないという注告のようにも聞こえます。 愛という本質を見失わないことが、信仰を深めるにあたって最も大切である、と言っているのでしょう。 また、推測になりますが この御文には、他者に愛を差し向ける場合の方便が暗に説かれているとも解釈する事ができます。 超自然的な働きを愛の方便とせよ、というものです。 それは、愛のもつ力を否定せず、奇跡という形で放つ高次元の信仰の実践でしょう。 聖者と呼ばれた人々の行いは、そうであったのではないかと思います。 私達に 奇跡に目を奪われずに、神の愛を信じ深めてゆきなさい、その事が一番大切です。 という聖者からのメッセージでもあったのでしょう。 推測を抜きにした、その事だけでも十分な感じがします・・。
補足
補足の続きです。 この場をお借りします。 主観的自由とは 自らが束縛されぬものと知る事、また、束縛されぬ状態においての認識である 自らは自由であるという、客観的状態に捉われない精神的自由である では、このような精神的自由、意志の自由といったものが、どのようなものであり、それがどのような結果をもたらすのか、という事を、無実における根拠の内容という視点から入って見てゆく事とする 無実とは無事実、事実が無いことである 対象とすべき事実が見当たらないことである この場合、実際に事実そのものが存在しない場合と、事実があるにも拘わらず知る事ができない場合とがある 無実における根拠とは無根拠のことであるが 事実が無いという無根拠と、知ることができないという無根拠との両方がある 事実が無いという確認がされれば明らかに無根拠であるが 確認の方法において、知ることができないとされれば無根拠とは言い難い このように無実における根拠とは、事実が無い無根拠と、知るすべがない不確定な無根拠とがある 繰り返しになるが 「事実無きをもって無根拠とすべし」であるから 事実を知るすべがない無根拠とは、確定しえない未確定の無根拠である 言い換えれば、認識外の情報は根拠足り得ず、それゆえに未確定の無根拠が生じる、ともなる では実際に未確定の無根拠とは、どのようなものなのだろうか それを、認識外の情報、或いは、知覚外の情報というように捉えてみる事とする 認識外の情報とは、意志によって選択の対象とされなかった情報を含む広範囲のものである それは、意志に付与されなかった情報、及び、意志に付与されたにも拘わらず選択の対象と成り得なかった数多くの情報である これらは知覚の範囲外のものと、範囲内のものとに分けられよう さらに、これらを、認識以前の感覚や直観を含む感性情報の範囲外と範囲内というように解釈する事も適切である 次に、これらの内容と意志の働きとの関係を見てみる 認識外の情報と意志との関係でもある その前に明らかにしておくべき事として 意志による選択とは事実概念の構築であるが、意志が自ら選ぶという事は、自らに由る、自由、と名付けられよう 自らが選び、自らに由って、事実が確定される事は主観的な自由と呼ぶに相応しい行いである 主観的自由とは、自らが事実概念の構築を行いうる自由である 或いは、主観的自由とは、主観的事実の構築を行いうる意志の自由を指す このような主観的自由における意志の働き、振る舞いは精神的自由とも言えるものであるが この意志の働きが認識外の領域へと向けられてゆくのは、意志が自らの自由な働きを束縛しないという、精神的自由がもたらす必然性の表れでもある 主観的自由における自由意志が、認識外の領域に事実概念の構築を行う、或いは、行おうとする事は、常に起きていると見なすべきであろう このような自由意志の認識外の領域への渉入を見てみる事とする 前述した、未確定の無根拠の内容が示すところの、知覚外と知覚内に対する意志の自由な振る舞いである この場合、知覚内における自由意志の作業とは、新たなる設定も含めた選択の範囲の拡大と、そこにおける確認や発見といったものである 次に、知覚外の領域に対する自由意志の作業であるが そこには、仮定と虚構という、事実概念に代わる構築や展開が見られる 尚、直観による自由検索、或いは、無限検索というようなものも取り上げられるかもしれないが それらは前述した、選択の範囲の拡大や設定に含まれるものであり、その内容は通常感覚外の感性情報の一種として扱われる事が妥当である 仮定と虚構の成立において、直観が重要な役割を担っている事は確かだとしても、それがもたらす内容を知覚外と言う事はできない つづく・・
「わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。」 (新共同訳聖書 ローマの信徒への手紙 5章3-4節) 練達を通って生まれた希望は、腕の良い鍛冶職人によって鍛えられ、精錬を受けた道具のよう。つまり一足飛びにたどり着けるものではない。だから >中々難しいですね・・ 簡単に、信じることも、希望を持つこともできないのが本当のような気がします。 貴方の仰るのは、たぶんこういう事だと思います。 >希望を信じるという大切さは、生きてゆくことへの大切さ 希望を信じるがゆえに、生きることへの大切さが生まれる ほぼ申し分ない、と思われます。
お礼
ありがとうございます。 苦難や絶望から生まれてくる希望とは 明らかに、それを否定できないものですが そこには仰るように、信じるという力があるように思います。 夢という言葉とは違ったニュアンスがあると思います。 人は追い詰められた時に、そうした体験をもつのでしょう。 信じるという意志の力の裏付けを、信仰に拠る人もいれば、そうでない人もいると思います。 信仰という精神的事実の確定を単なるすり替えでないとすれば、神への信心はそのまま希望であると言えるでしょう。 信仰を持たない場合では、客観的事実の積み重ねという、自己の意志によって希望を描いてゆくといった事のように思います。 その辺の違いは少なからずあると思います。 >「わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。」 この言葉は、もう、信仰における信心の確定の困難さをそのまま表していると思います。 信心即ち希望である、というところに辿りつく困難さです。 また、ごく一般的に解釈しても 拠り所とすべきものを得て希望をもつことが、いかに難しいものであるかを示していると思います。 (注) 単なるすり替え=客観的事実のすり替え
補足
補足の続きです。 この場をお借りします。 客観的自由と主観的自由 客観的自由とは、束縛されぬ状態が認められるという事です 行為・行動において解放されているという外面的状況を指している 束縛しようとするものに対して解放されているという、対極的な意味をもつ自由である この場合、客観的な視点の違いや、客観性の程度によって、自由として認められる内容も様々である ここにおける自由とは、客観という尺度において計りうる自由であり、その客観性には明確な基準が定まっていない であるから、自由という事実確認において、明確な客観的基準を設けることが必要であり そのようにして確認された自由こそ、客観的自由を表すものと言えるだろう 事実と根拠という見方からすれば 客観的事実としての自由の確認とは、客観的に設けられた具体的な判断基準を根拠とする、と言える 逆にいえば、具体的な判断基準を根拠として、客観的自由は確認されるべき、となる 「事実をもって根拠とすべし」という視点において 具体的な判断基準とは、事実に代わりうるものであり それゆえに、より客観性の高い、簡潔で明確なものである事が必要とされる つづく・・
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
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たらいまわしになりますが。 【Q:人生の最終目標って何でしょうか?】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8202185.html ☆☆ (回答No.9) ~~~~~~~~~~~~ ★ (2) 世界(この世)の真理は何ですか? ☆ どうも 《無根拠》だと考えられます。 親鸞という人間は (α) 義無きをもって義とす というふうに表わしました。 つまり この《無根拠》を 人生を生きる根拠としてもよし 根拠とはしなくともよし となります。 無根拠を根拠とする場合には これを神と言ってもよいでしょうし アミターバ・タターガタ(阿弥陀如来)と呼んでもよしマハーワイローチャナ・タターガタ(大日如来)もよし あるいはブラフマンとか さらにはヤハヱーとかクリストスとかアッラーフとか さまざまな名で呼んでも その《無根拠》そのものに変わりない。こうなります。 ★ (1) あなたの人生の目標は何ですか? ☆ 何のために《この世の真理》を《無根拠》と捉えたか? あるいはそもそも《真理》とは何か? 真理とは何かについて多少とも分かるように言ったのが 《無根拠》ということですから では真理を無根拠と知って どうするのか? 何の得があるのか? これについては (β) 真理は きみたちを自由にする と言われています。どういうことか? 真理であるなら あなたの・わたしのあるいは誰々の考えることはすべて分かるという状態です。 あるいはつまり 世の中のすべての人の思惟と行動とが分かる。 しかもそれらの行動の社会的な相互影響の関係や過程やその構造的な――動態としての――からくりも 人類の初めからおしまいまですべて分かる。というような状態のことです。まぁ 想定として言っているわけですが。 でもそのような真理が――部分的にでも――知られるならば ひとはかなりの程度において 自由になる。のではないでしょうか? そして そのように人間どうしの行動が社会的に歴史的にこれこれこういうふうに相互に影響してあれそれのようになったと知ったという場合 では そのコトが どのようにして・なぜ起きているのか? この問いを立てた場合 その答えは 《無根拠》である。というものです。《自然史過程〔に人びとはそして生物も何もかも従う〕》というふうに言いかえてもよいと考えます。 (α) 義無きをもって義とす です。 ~~~~~~~~~~~~~~~~ 《かたちのあるものごと》も希望に成り得ますが いかんせんそれらは移ろい行かざるを得ない。とすれば 希望というのは 《かたちのあるもの》ではないと帰結されます。 《かたち》というのは 概念でもありえます。思想でもあり得ます。
お礼
ありがとう。 ちょちょ っと 待ってくれ・・ まだ 根拠(こんきょ)の分析が終わっていない そっちが終わってからにしてくれ・・ すこし時間がかかるかもしれない Bさんからすれば 何をいつまでやってるんだ! 長い独り言じゃないか! と言われそうなんだが 始まったついでなんで、やっておこうと思う 宿題みたいな感じもする たまには 言葉の数学も頭の体操にいいかもしれない 補足欄に少しずつ書きこむよ 気が向いたら読んでくれ 高校生程度だと笑われるかもしれないが・・
補足
補足の続きです。 この場をお借りします。 一度、主観を展開してみます。 その後に考察に入ります。 「希望」 希望は今始まる 今始まる希望が永遠に連なってゆく 永遠の中の一瞬の希望が私である 私に与えられた自由が希望である 希望という名のあなたは、ここにいる 希望とは今日を生きること そして明日を生きること 苦しみをものともせずに、生きること 未来を描き、未来に近ずくこと 迷わない君を天は祝福するだろう 人が輝きをもつことを止められはしないと 今という一瞬に放たれた希望の矢は永遠である それは、私が私を顧みるまでもなく永遠である 人一人が記す永遠は、今ここにある希望なのだと 君はきっと見つけるだろう 未来を描くとき 新しいキャンバスも絵具も筆も 好きなように使いなさいと 神様が置いていったものを 自由を使いきることに後悔はない、と君が思うのなら 希望は微笑むにちがいない 君の永遠を誰よりも知っている 希望という小さな神様は 今ここにいる 事実、自由、希望という三つの言葉を取り上げてみよう 客観、主観の両面から見てみる 1 客観的事実と主観的事実 2 客観的自由と主観的自由 3 客観的希望と主観的希望 1については前述したので、2と3について考えてみる。 つづく・・
「希望がわたしたちを欺くことはありません」 (新共同訳聖書 ローマの信徒への手紙5章5節より) そして、希望に生きることは、 ただ「信じる」ことによってのみ可能。 希望に確認や論拠を、求めてはいけない。
お礼
ありがとう。 力強いですね。 ただただ希望を信じよ 疑うことなく信じよ 信じてこそ希望 希望だけが生きる道 といった感じですね・・ 思うだけでは希望にはならない 信じるという事がなければ希望にはならない そうだと思いますが 信じる程度・・が問題として残るのではないでしょうか かすかな希望、かすかな望み、という言葉もあるように 信じる心の度合いによって、希望の確かさも変わってくると思います。 中々難しいですね・・ 簡単に、信じることも、希望を持つこともできないのが本当のような気がします。 それでも仰っていることの大切さは分かります。 希望を信じるという大切さは、生きてゆくことへの大切さ 希望を信じるがゆえに、生きることへの大切さが生まれる といった解釈が可能でしたら その事にまったく異論はありません。
補足
補足の続きです。 この場をお借りします。 課題を設けて広く考える前に、もう少し深く考察してみたいと思います。 前述した、事実と根拠との関係を、認識における客観性という視点において見る時 事実と根拠とは、客観が客観である事の証明となるのでしょう 一つの事実の証明は、幾多の事実によって成されるという関係である ここにおいて、一つの証明すべきものに対して、複数のものが必要とされるという事は、一種の照合であるとみなす事ができる 一つに対して複数の照合を必要とするのが客観の証明であるとも言える この事は、極めて単純な事のように見えるが 実際においては、主観的事実の排除のために繰り返し行われる照合の作業である このような作業が必要とされ、行われる背景には、事実における主観的要素の介在が多分にあると思われる 事実とは常に主観の一部となって受け入れられているからである 事実として認識されているものから、主観的要素を排除するためには、複数の照合が行われていると見るのが妥当である また、照合の働きを受け持つのは、意志によるものであるが そこには、瞬時に働きうる直観の存在なしには、意志が命ずる事もない、という事が上げられよう 直観のもつ働きの内容である検索と照合という性質以上の事を、意志が直観に命ずる事もない 無限検索というような直観の受容性は、この場合、客観の証明に際しては意志によって必要とはされていないはずである 客観的既存情報の検索に直観の働きが注がれていると見るべきである このようにして、一度受け入れられた事実における主観的要素の排除に際して、意志と直観が、その作業を繰り返し担っている事が明らかになってくるだろう これらの繰り返し行われる作業は、感情を排した理知的なものであるが 事実に対する解釈を客観性に求めるという、一種の人間性の表れと見る事もできる 主観を含めた事実から、主観を削って、より真実に近い事実を明らかにするという知的な人間的行為である そこには、その行為が必要とされる状況があるに違いないが 事実を明らかにしなければならない、という他律的な場合と 事実を明らかにしたい、という自律的な場合とがある 他律的な場合には、より客観性の高いものが求められていくのが自然だろう 他者においての判断や選択が容易に可能であるべき、という条件の基に行われるからである 自律的な場合には、判断や選択が自らに可能な範囲であればよい、という緩い条件の基に行われる 後者の場合には、主観的な事実解釈があってよい、或いは、残しておくべきもの、という意識が働いているはずである 自らが知り得た事実に対して、自らの解釈を失ってはならない、という意識である このようにして、自律的、或いは、自由意志に基ずく行為には、客観的な事実解釈に主観的な事実解釈が必ず付随していると見る事ができる また、主観的な事実解釈が、自由意志に基ずく行為には不可欠だと見る事もできる 自由意志とは、客観に主観を加えずにはおかない、主観から客観を見ずにはおれない、といった面を持つのだろう つづく・・
#13です。 #14さんと同じ事を言ってるとは、毛頭言うつもりはありませんし、あなたの発言の意図を完全にわかってもいませんが、 >贅沢な絶望といってもいいんじゃないかと・・ >生きる意味を探すという執行猶予付きの絶望なんでしょうから・・ は、少なくとも自分の意図とは違います。 「生きる意味なんかいくら探したって、どこにもありゃしないよ」という絶望です。 それでも生きていて良いと、無意味を全肯定しない限り続く絶望です。
お礼
ありがとう。 ごめん・・ 絶望に慣れきっているせいか つい 執行猶予付きの絶望・・ などと言ってしまった 執行猶予とは、絶望を抜けた状態からでしか言えない言葉だった 絶望そのものの中において、執行猶予などあるはずがありませんね・・ >「生きる意味なんかいくら探したって、どこにもありゃしないよ」という絶望です。 生まれ生まれ生の始めに暗く、死に死に死んで死の終わりに暗し・・ という感じでしょうかね このへんは宗教的な問い求めへとつづいていく感じもします。 無宗教の立場においての否定できない心の暗さ、みたいなものを感じるのですが この問い求めは、もうまったく個人的な問い求めと言っていいと思います。 仮に、宗教に足を踏み入れた人であっても 信仰によって得た答えが、その疑問を完全に解いてくれるとは限らないように思います。 ただ、残り時間という制約を感じる時、主観的な答えを迷いなく受け入れられる、という事はあるかと思います。 絶望に贅沢はありませんね・・ でも 思うんですよ 起死回生というような体験を味わった人からみれば 絶望は懐かしいと・・ きっとそうではないかと思うんですが・・ どうでしょうね・・。
補足
補足の続きです。 この場をお借りします。 事実無根という言葉を用いる場合 言葉に事実が伴っていない、根拠となる事実が無いことを指す 虚偽の言葉であるという断定である この断定は、根拠としての事実が無いという断定なのだが ここで言う事実とは、主に客観的事実である 事実とは一つであるから、その一つの事実の有無の確認において、存在しないと確認されれば、無根、無根拠とされる 客観的事実の確認は比較的容易ではあるが、主観的事実の確認には困難が伴う場合が多い 見た、聞いた、というような短時間内における感覚情報には、それを不確定たらしめる幾つもの要素が存在する 最も多いのが錯覚と呼ばれる感覚情報の誤った解釈である 感覚情報を受け取っている本人における解釈が、他の人の解釈との相違がある場合には、いずれが事実であるかの判別がつきにくい であるから、この場合においては、多数の人に共通する感覚情報の解釈をもって事実と認められうる事が多い 逆に見れば ごく少ない人数における情報は、信憑性が疑われる可能性が高いという事になる さらには、一人の人間のみによる感覚情報ともなれば、事実として認められうる確率は極めて低くなってしまう 主観的事実とは 人間の感覚や意志によって捉えられうる事実であるが そこには、人間の持つ感覚や意志の範囲内という制約が始めから付きまとっている また、それらの主観的事実が、記憶という時間的変化に晒された不確実な情報である事も考慮しなければならない 以上の事柄から 主観的事実を根拠とすべき事実として扱うことにおいては、不確実さと困難さとが伴う よって、客観的事実を根拠とする場合において それらの主観的事実は、客観的事実に付すべきもの、参考としての情報として扱うべきものとすべきである 例外があるとすれば 客観的事実が全く認められず、主観的事実に頼らざるをえない場合である 主観的事実のみによる根拠とは、不確実で弱い根拠であるが 他の関連する情報との照合において、確かな根拠の一部となりうる可能性をもっている よって、根拠の重要な仮定として扱う必要が生じてくる 根拠としては認められないが、根拠の仮定としての重要性を認めておくべきである 以上が、事実と根拠に関する考察の主な概要である これらは、根拠を求めるという姿勢の内容であり、そこにおいて導き出された根拠とは、事実という客観性の高いものである 物理的な法則性を除外した場合の一般論として 根拠とは事実であり、事実を根拠とすべきである 無根拠とは事実なき事であり、事実なきをもって無根拠とすべきである と結論づけられよう 次に、根拠たる事実・無根拠たる無事実と、人間の行動や精神を関連づけて考察してみよう つづく・・・
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
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むこんきょ。 これは いっさい何も規定しない。条件づけることをしない。 こう言っているのですから いちいちさぞ分かったように解釈したり批判したりしているのは おかしい。 きちんと相手の言おうとする内容を把握して それから批判をしなければいけない。 だからたとえば 岡本太郎とは 何のつながりもない。 似ていることと同じこととは 別だ。 話になっていない。 むこんきょ とは何か? 理解しようとしていない。
お礼
ありがとう。 結構きびしいね・・ 遠慮なくどんどん言ってくれ・・ そのほうがいい ま 無根拠という言葉の意味を、遅まきながら調べてみた 辞書によると、まず根拠というものは 「よりどころ」「基づくところ」 とあった。 だから 無根拠とは、根拠に無が付くのだから 「よりどころが無い」「基づくところが無い」 となる。 根拠という言葉は、「根」と「拠」という文字から成っている 根であるところ、と読める 基づくところ、という意味も頷ける 根があってこそ、幹も枝葉も花もある 反対に 根が無ければ、幹も枝葉も花も無い 根拠がある、という場合 基づくところがある、という意味になる 概念を示す場合の証明とすべきものがある、という意味になる その証明には、さらなる証明がある、という意味も求められる場合もある 根拠の根拠というものである では 根拠とは正しいのであろうか 或いは、正しくないのであろうか 根拠が正しくなければ、根拠が誤っている、のか、根拠が無いのか、どちらかになる 根拠が誤っている場合には、根拠が無いとは言えない 根拠とすべきものの選択が誤っている事になる 選択の誤りは無根拠ではない、という事になる また 選択の一部が正しいという場合には、根拠がそれに伴って正しくある、という事になる 以上から 根拠の確率を決めるのは、いかに根拠とすべきものを選択するかによっている 無根拠という場合 根拠の確率が0%という、全くない状態を示しているが、 そこには それとは反対の状態も含まれる可能性が無いとは言えない それは、上記の選択の誤りの可能性を否定できないからである 無根拠と言う場合において 根拠とすべきものの選択の誤りの可能性を完全に排除すべき条件が整わなければ、無根拠と言い切る事はできない では、その排除すべき条件とは ある結果をもたらす原因と認められうるものが存在するか否か、による 原因における、直接要因と間接的要因の全てを含むものが存在するか否か、である その事と、もう一つの見逃してはならないのが 原因に対する認識の程度である 認識の範囲において選択は成り立つという点から、 ・ ・ ・ ・ ・ (だめだ 眠くなってきた・・) (脳味噌が勝手に動いているような感じだ ) (今日はこれまでにしよう ) おやすみ また・・。
補足
認識の範囲において選択は成り立つという点から、 認識の範囲が広ければ、選択の範囲も広く 逆に、認識の範囲が狭ければ、それに伴って、選択の範囲も狭められてくる 選択の正しさの度合いは、認識の範囲の広さによるものとは限らないが、その確率は高くなると見るのが一般的である 以上の事柄を踏まえた上で 「根拠」に関して多用される概念を見てみよう 「事実と根拠」 根拠として取り上げられるものとは 一般的に、事実という客観性に富むものである 客観的に見て確実と思われる事実である 根拠に相応しいものとは、単純に客観的事実そのものである またそこには、事実の確認という選択を経て残りえたものでなくてはならない、という条件が付けられている 事実における概要とは、そのようにして確認されたものであるが 事実の細部にまでの確認は求められない場合も多い 根拠とすべき事実、という場合 事実の概要もしくは中枢である事柄を指す場合が殆どである これは、根拠を明確に示すために必要とされる一種の条件でもある 次に、客観的事実以外に、根拠足り得るものがあるかどうかについて この場合、数式や法則というものにおいて それが必要とされる場合にのみ認められる 事実という時間的状況ではなく、発見され積み重ねられてきた真理的なものである 事実という時間的状況が複合的な現実とすれば、これらはそれらに比して単一的であり無機的で抽象的なものといえる あらゆる時間においても有効な適用性を持つことから、それを否定することはできないとされる では、それら以外に根拠とすべきものはないのだろうか 客観的事実の対極としての主観的事実というものの可能性はどうだろうか 見た、聞いた、というような感覚的事実の確かさを問う事でもある・・ また・・。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
- ベストアンサー率16% (203/1213)
★(No.15お礼欄) ~~~~~ それはそうなんだけどさ・・ 希望の望は、「望み」「望む」 心の解放感の彼方を象徴的に言ってはいけないのかね・・ ~~~~~~~~~~~ ☆ 回答者としてのわたしの見解内容を あきらかにしたのみです。 ★ ~~~~~~ >永遠の現在 これはいいと思いますね。 希望は、今始まる 今始まる希望が永遠に連なっていく 永遠の中の一瞬の希望が私である 私に与えられた自由が希望である 希望という名のあなたは、ここにいる ~~~~~~~~ ☆ 《始まる》のではなく ☆☆(回答No.15) むこんきょという汽車に乗ったなら 《いま・ここ》が のぞみそのものであるとなります。 ☆ そして 《永遠の現在》ですから その《のぞみ》が つねにそのつどの現在としてある。こうです。 ★ 永遠の中の一瞬 ☆ というふうに見るのではなく そうではなく 《いまの一瞬》が 永遠の現在としてある。です。そしてそのことが 人間にとっての《のぞみ》です。 ★ (もっと早く言ってくれればよかったのに・・) ☆ あなたが理解しようとしていなかっただけです。いまも そうです。
お礼
ありがとう。 分析はいいんだけど固執しないほうがいい 希望という動態を感性的に見ることを忘れてはいないだろうか でないと、主観的な広がりを失った冷たい希望になってしまうと思う。 この 永遠の中の一瞬という捉え方なんだが 主観的な永遠でしかないと思う 永遠的にといった方がいいのかもしれない でも そう言わずに 永遠と言い切ってしまう それは天動説なのかもしれないが 華厳でいうところの世界観に及ばないのが自然な気がする 永遠と言い切って、そこに自分という存在を当てはめてみる そのほうが人間らしいと思う。 もっと早く・・とは 以前にBさんから言われた言葉を振ってみたんですよ。 嬉しくはなかったのかな・・・
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
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★ 希望とは海の彼方 ☆ いいえ。むこんきょという汽車に乗ったなら 《いま・ここ》が のぞみそのものであるとなります。 永遠の現在 と言います。 受け取るだけでよくて したがう必要はありませんが 違った内容で受け取られていることについては ただしました。
お礼
ありがとう。 それはそうなんだけどさ・・ 希望の望は、「望み」「望む」 心の解放感の彼方を象徴的に言ってはいけないのかね・・ >永遠の現在 これはいいと思いますね。 希望は、今始まる 今始まる希望が永遠に連なっていく 永遠の中の一瞬の希望が私である 私に与えられた自由が希望である 希望という名のあなたは、ここにいる (もっと早く言ってくれればよかったのに・・)
お礼
ありがとうございます。 そうですね・・ 神とは何か 人とは何か 私とは何か 通常は・・仰るように >相対的意味 で終わるのでしょう。 人は知り得ただけしか理解できない 知り得た以上の解釈はできない だから、意志の自由は 認識外において、仮定と虚構を創りだす という相対性 すべては有限で相対的であるから絶対ではない では、その事実概念の相対性として すべては絶対である とも反証できる可能性がある 形而上的な相対性を否定できる理由は何も無い・・ 意志の自由が、事実のみならず、仮定と虚構を超えるものを見い出しうるのか それとも、自由の限界において現れうるものがあるのか 意志の自由が相対性を超えられないとすれば、そこでその自由は終わるのか・・ さて、どうでしょう >私に絶対的意味はない。 意味は与えられる と書き替えることはできませんか・・ 意味の無い認識に、意味は与えられる、と 知ることを、与えられると 書き替えることはできませんか・・ >論理的な判断 も含めて それが、自由意志の敗北とは思えないのですが・・
補足
補足の続きです。 この場をお借りします。 仮定と虚構とは 仮定とは、根拠のある事実想定である 根拠のある事実想定が仮定である 虚構とは、根拠のない事実想定である 根拠のない事実想定が虚構である 自由意志によって、認識外の領域に構築される仮定と虚構は、根拠の有無によって区別される また、事実証明の可能性の有無においても区別される 根拠があり、事実証明の可能性を持つものが仮定である 根拠がなく、事実証明の可能性を持たないものが虚構である 自由意志は認識外の領域に、事実概念に代わりうるものとして仮定と虚構の構築を成そうと試みている、試みようとしている 自由意志の行い、振る舞いとは、無根拠という実体の無い虚構をも生み出すものである 客観的希望とは、仮定に基ずくものである 仮定を根拠とした希望である いずれ事実として明かされるであろう仮定を根拠とした、実現可能なビジョンが客観的希望である 実現可能という保証をもつビジョンが客観的希望である こうなるであろう、という確かな希望である 主観的希望とは、我れ思う希望である 実現の可能性の有無に関わりなく、心に自由に描く希望である 実現の保証の無い不確かな希望である それは不確かなままに、心の自由さを表しているものである 夢、という言葉が示すように、それは人を未来へといざなうものでもある 根拠無きを虚構と言わず、夢という言葉に代えて人は希望を持つ 心の自由に裏付けられた希望である 主観的希望とは、このようにして、心の自由を得る事と、自由なビジョンを共に得る事である 以上の希望に対する解釈は、心の内の意志の側から見た解釈であるが 感性の側から見た解釈はどうなのであろう ビジョンというものを感性はどう捉えているのだろう 意志が望むビジョンと、感性が望むビジョンとの間には隔たりがあるように思われる 感性的ビジョンというものがあるとするならば その喪失は絶望と呼ばれるものではなかろうか 絶望とは、意志が認めた感性的ビジョンの喪失ではなかろうか 絶望への問いかけ、働きかけを意志が持つ時、感性が答えうるもの それは言葉ではなく、意識外の領域から感性が直接伝えたものでもあるように思われる 意志の求めに直観が答えたもの 私は、それをもって希望と名付けたいと思う 心の底に生れてきた形無き希望こそ、本当の希望ではなかろうか 生きる勇気をもたらす直観が伝えた超越的無意識と呼ぶべきもの 意志が頷くに足る感性の答え それこそが希望ではなかろうか 以上で考察を終わりたいと思います。 長い間お読み下さいましてありがとうございました。 付け足しの乱文になりますが・・ 思い返せば 昔、若かった頃、くたばり損なって味わった希望があったように思います。 その希望は今も心の底にあるような気がします。 それでいいのかもしれませんね。 それでは皆さんお元気で・・ ありがとうございました。