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日本の歴史についての質問です。

以前、ラジオで家系図の話をしているのを聞きました。 リスナーからのメールで『うちには江戸時代からの家系図があります』『平安時代から脈々と続く家系図があります』などの話が番組に送られてきたのですが、パーソナリティが一言、 『日本では○○があったから、1000年以上前の家系図が残っている、なんてことはほぼ無いんですけどね。○○時代に家系図ブームがあったから、その時に作られた偽者でしょう』 と言っていました。 この、○○に入るのは何でしょうか? 私は聞き流していたのでわからなかったのですが、今になって妙に心に引っかかっています。 回答、よろしくお願いします。

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  • tyr134
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回答No.3

日本において、家系が重要となってくるのはおおよそ6-7世紀以降になります。 この頃から、天皇中心とした律令制が敷かれるようになっていきました。 この律令制下では、官僚(主に文官)は家業となっていきました。 この時期に、藤原氏・蘇我氏・村上氏・源氏などの有力な家系が誕生しました。 そうした家系に連なるものでなければ、政治的地位のある役職につくことはできませんでした。 その後、鎌倉時代に東国(今の関東~東北地方)に源氏を中心とする武家勢力が力を伸ばして来ました。 しかし、ここでもやはり公家に連なるものでなければ中央(京都や天皇がいる場所)で高い地位につくことはできませんでした。 その後、南北朝時代・室町時代・戦国時代と、事実上の権力は武家勢力が力を伸ばしますが、やはり政治的地位は低いままでした。 ただ、この過程で律令制は崩壊し封建社会へと移り変わっていきました。 この時に、盛んに行われたのが「系図を買う」という行為でした。 つまり、没落した貴族などから買ったり、金や武力に物を言わせてより高い位につけるように家系図を贋作したりしました。 あの、豊臣秀吉や徳川家康なんかも「系図を買」って天下統一の一助としました。 その後、江戸時代になると寺請制度や檀家制度の確立によってある程度正確に作られるようになりました。 また、幕府側が大名や庶民を統制しやすいように細かい家系図が作られるようになりました。 なので、日本の場合は余程のことが無い限り、正確に江戸時代以前の家系を遡るというのは難しいこととなりました。 現在であれば、役所に残る本籍や寺にのこされた文献なんかを調べることで多少は家系図を制作することはできますが、やはり戸籍抄本が作られた明治までか、どんなに古くても江戸時代以前まで明らかにすることは難しいこととなります。 >この、○○に入るのは何でしょうか? 以上の事を踏まえると、○○には「戦国時代」か「江戸時代の家系図ブーム」といった用語が入るような気がします。 ではでは、参考になれば幸いです。

macaco_1974
質問者

お礼

素晴らしい回答をありがとうございました!

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  • ithi
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回答No.6

macaco_1974 さん、こんばんわ。 たぶん、戦国時代だと思います。このころになると本当の農民階級の人が足軽や武士になりあがっていきます。乱世では家柄ではなく、戦での手柄によって身分が上昇していきます。よく言う下剋上のです。戦功を立てて主人から自分たちの領地や屋敷が与えられるのですが、今度は経営していくうえで一定の秩序や決まりが必要です。そうなってくるといわゆる新興の武士階級は身分を飾るうえで、自分の家系図を名門とのつながりがあるように改ざんしたり、身分の高い女性を正室や側室にするようになります。一種の貴種信仰ですね。こうして自分は少しでも名門の出であるかのように装うようになります。そうしないと今度は自分たちがこの身分秩序から排除されるもとになってしまうからです。それは出自が家臣と同じだと下剋上である時代ではさげすまれたりして反逆されてしまうもとになってしまうからです。

回答No.5

「ANo.4」です。 うっかり「○○」が二回あるのを見落としていました。当然、前の方の「○○」の話をしています。 ついでに補足しておきます。 京都は応仁の乱で、完璧に近い焼け野原になっています。 建物で残ったのは、有名なところでは「醍醐の塔」(醍醐寺の五重塔)ぐらいです。 京都ネィティブはおそらく、「応仁の乱で、ぜんぶのうなっった(なくなった)」と共通の認識として持っていると思います。 奈良などよその歴史のある土地を無視していいのならば、「1000年以上前のものは残っていない」というのは、大げさでもなんてもない、ということになります。 そのパーソナリティがどこ出身が分かりません。が、文脈から考えて、おそらくはこのことを知識として持っているのでしょう。

参考URL:
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%9C%E4%BB%81%E3%81%AE%E4%B9%B1
回答No.4

答えは簡単です。 「応仁の乱」です。 たとえば、内藤湖南(京都大学の中国史研究の祖)は、こういった意味の言葉を残しています。 「日本史の研究は、応仁の乱以前はやる必要はない。あそこで全部焼けてしまった。以前と以後では関連はない」 また、近衛文麿に関して、このラジオ番組でのやりとりの参考になるような話が残っています。 客:「おたくに伝わっているというあのお宝はどうなりました」 文麿:「このあいだの火事で焼けました」 近衛文麿は戦前の総理大臣で、五摂家筆頭の家柄の出身です。つまり藤原家の嫡流中の嫡流です。 「このあいだの火事」というのが、「応仁の乱」のことで、“お公家さん”の時間感覚を表すエピソードとして語られることが多いようです。 「文麿ではなく、弟で音楽家の秀麿が言った」とされることもあります。同じことでしょう。 「応仁の乱」以外の考え方もあるでしょう。が、専門家でもない人がラジオ程度で語っているなら、その可能性を考える必要はないでしょう。

参考URL:
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E8%97%A4%E6%B9%96%E5%8D%97
  • fumkum
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回答No.2

おはようございます。 『日本では○○があったから、1000年以上前の家系図が残っている、なんてことはほぼ無いんですけどね。○○時代に家系図ブームがあったから、その時に作られた偽者でしょう』という発言の中で、後ろの「〇〇時代」は「江戸時代」だと思います。前の〇〇は、おそらく「戦国」か「戦乱」が入るのだと思います。江戸時代は幕府が大名・旗本などにの系譜の提出を命じたことが何回かあり、それが「寛永諸家系図」「寛政重修諸家譜」になります。この時に大名でも自分の父母はともかく、祖父母の名前さえはっきりしない家があったとされます。戦国の動乱の中からのし上がった家で、それらが儒官などに頼み、自分の祖先を創作してもらうとともに、それらしい家系のつなげてもらって系図を創作した話が伝わっています。室町中期頃から戦国時代(戦国時代の定義はともかくとして)にかけての下剋上の中で、家系を誇った者が没落し、氏素性のはっきりしない者が上昇しますが、氏素性のはっきりしない者も、地位が上昇するとともに、それらしい家系を称することが出て来ることと軌を一にします。その面で、戦国時代は家系の面でも混乱期と言えますので、前の〇〇は、おそらく「戦国」か「戦乱」が入るのだと思います。 また、江戸時代は庶民についても、家が安定し、武士をまねて系図をつくることが盛んになり、系図ブームが起こったとされますので、後ろの「〇〇時代」はまず間違いなく「江戸時代」だと思います。 以上、参考まで。

  • mshinoda
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回答No.1

家系図ブームが起きたのって、「戦国」時代ではないでしょうか。 下克上で成り上がってきた武将が、源氏や平氏の末裔という家系図を偽造したわけです。 1000年以上前というと……戦国時代よりも前。京都の公家はまだしも、地方の武家の家系なんてあてにならないのでは? 世継ぎがいないと養子に家督を譲りますし、もうなにがどうなってるいかわかったもんではない。 江戸時代以降明治維新までは、日本人は寺の檀家制度を使って管理されていたので、過去帳などをたどると系図は明らかにできるのかもしれませんが。

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