義務論は、自分に厳格であることを強く求める傾向があるから、敬遠されてしまうのでしょう。
道徳や義務は、信条、格律、自律、自制をどうしても必要なものとして求めます。
功利主義、実利主義を唱えた人はともかくも、普通の人にとって、功利主義などは「主義」とかの言葉がイメージさせるような信条、格律、自律、自制は必要としていません。刹那的、あるいはその時々の欲求に基づいた行動をそのまま正当化してイイようなイメージを持っています。
功利主義という言葉が存在しなくても、終わりよければ全てよし、欲望を抑えることはない、私利私欲があるものがその意のママに行動すると市場原理でうまくいくというような発想を受け入れて、信条、格律、自律、自制を求めるような道徳論、義務論が主導原理になるのを避けるのではないでしょうか。
「現実重視、結果で判断するという思考を善しとする」のをマズイと考えるのは、宗教的、思索的な傾向がとても強い人たちに限られるから、カントの義務論が一時的にある社会で絶賛されても、その状態が長く続くことはないのだと思います。
とくに、経済、景気が重視されたり、市民社会、多数派重視の社会になれば、自律、自制を求める思考がメジャーになる可能性は非常に低くなり、あるとき反動的に道徳論や倫理思考が強く喧伝され社会を風靡したように見えることがあったとしても、数年も持つことはないはずです。