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カント、ベンサムとミル

◎カント 「なんじの人格や他のあらゆる人の人格のうちにある人間性を、 いつも同時に目的として扱い、決して単に手段としてのみ扱わない様に行為せよ」 というのがありますが、自分の人格も他人の人格も目的として尊重しなさいということだと 解説にはありました。この「目的」のニュアンスがよくつかめません。 ◎ベンサムとミル 量的功利主義の快楽計算とは一般的な見方から考える幸福の価値観、 質的功利主義とはおのおの個人的な見方から考える幸福の価値観と考えても よいものなんですか?

質問者が選んだベストアンサー

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回答No.3

補足を要求されているのを拝見しました。 どのように答えようか考えましたが、量は量で、質は質である、という以上の説明の仕方を思いつきません。 ベンサムとミルが同じことを言っている、というのは、質問者さんのご解釈の領域ですので、尊重したいと思います。 なおベンサム・ミルに関しては、このサイトがわかりやすいと思いましたので、よかったら参考になさってください。

参考URL:
http://www.ne.jp/asahi/village/good/bentham.html
noname#7970
質問者

お礼

ご回答をありがとうございます。 あまり深く考えなくてもベンサム→量、ミル→質という風に覚えておけばたいていの問題は 解けそうです。(あんまりよくない方法かもしれませんが) 今、哲学専門の勉強ではなく、大学入試としての哲学を勉強しておりまして、一般的な見解を 理解したかったのです。 私の解釈の領域ではやってけない部分がありまして、補足させていただきましたが、 困らせてしまってごめんなさい。

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その他の回答 (2)

回答No.2

◎カントについて まず身近な例をあげましょう。 Aさんという女性がいるとする。 彼女にはB君という彼氏がいます。その彼はお金持ちで、何でも買ってくれるし、背も高くてカッコいいから、一緒に歩いてもみんなが振り返る。彼のおかげで、Aさんはいい思いができるんです。 ある日、このAさん、授業で大教室に入った。 ほとんどの机がふさがっていて、やっと見つけた席に着くと、コーヒーがこぼれている。もう、と思いながらティッシュを出して拭いていると、隣の席の男の子が、バツの悪そうな顔をしていて、手には紙コップ。(言っておきますが、これは全部捏造です。体験談なんかじゃありません) それがきっかけになって、彼女はそのC君と話し始めるわけです。 その日以来、AさんはC君が気になります。 どんな人なんだろう。何が好きで、どんな本を読んで、どんな音楽を聴くんだろう。何かが起こっても、まず頭に浮かぶのは、C君だったらどんなふうに感じるか、ということです。 C君と一緒にいたい、でもそれは、C君が何かを買ってくれるからでも、みんなが振り返るからでもない。ただ、一緒にいたいから、いたいんです。 さて、ここで問題です。Aさんにとって、どちらの相手が「手段」であり、「目的」であるかわかりますか。 手段とは、目的にたどりつくための方法です。わからないからちょっと教えてー、というのも、人を手段として使っていることだし、雨が降ってるから車に乗せてってー、というのも、人を手段として使っていることになる。 それに対して、人を「目的」にするというのはどういうことかというと、ほかの目的を考えない、ということです。 小さな魚は大きな魚に食われるために存在している。大きな魚は人間に食われるために存在している。 ならば、そうした生き物の頂点にいるはずの人間は、何のために存在しているのか。 カントは人間の存在それ自身が目的である、と言っています。 カントの言う「人間性」とはそうした意味合いです。 自分がそうであるように、他者もそう扱いなさい、とカントは言っているわけです。自分の利益のために他者の存在を利用するだけであってはならない、ということです。 ◎功利主義について 量的は文字通り、幸福の量のことで、質的は、幸福の質のことです。 価値観ということではないし、また一般的、個人的、という位相の話でもありません。 ある行為が「道徳的に正しい」かどうか、ということは、昔から大きな問題でした。 日常生活では自分にとって正しいと思うことが、人にとって正しいかどうか、は一概に言えることではありませんね。 それを一概に言ってしまえるような、客観的な指針を定めようとして、哲学者たちはいろいろに考えたわけです。 ベンサムは、ある行為が正しいかどうかは、多くの人が幸福になるかどうか、が規準になると考えました。 タコメーターで見るように、人々の幸福の度合いを知るためにはどうしたらよいか。 そこでベンサムは「快楽」という規準をもってくるんです。 あらゆるものごとは、快楽か苦痛を生む。 したがって、わたしたちの行為は、快楽を増大させ、苦痛を減少させることに規準づけて行わなければならない。 人に与える快楽が大きければ大きいほど、それは「善い」ことであり、個人が享受する快楽の量×人間の数=社会全体の快楽の総量が幸福である、と考えたわけです。 それに対して、ミルは快楽を等しく扱うことができるのか、と異をとなえた。 快楽にも高級なものと、低級なものがあるんじゃないか。そこで出てきたのが 「満足した豚であるよりは不満足な人間であるほうがよく、満足した馬鹿であるよりは、不満足なソクラテスであるほうがよい。そして、もしその馬鹿なり豚なりがこれとちがった意見をもっているとしても、それは彼らがこの問題について自分たちの側しか知らないからにすぎない。この比較の相手方は、両方の側を知っている」 という言葉です(この言葉は正確に引用されることがまれですが、後半の方が重要なことを言っているような気がします)。 ベンサムはすべての個人を平等に一単位、として考えた。同じように快楽も、その性質によらず一単位と考えた。 それに対してミルは、快楽はその性質によって高級なものと低級なものがあるし、人間だって馬鹿もいれば賢者もいる、としています(で、前者に関しては相当クソミソに言ってます)。 したがって、ご質問の回答としては、量的功利主義は、幸福の量を問題にし、質的功利主義は、幸福の質を問題にした、ということになります。 (なお、誤った点、理解の足らない点があったら、どうかご指摘ください)

noname#7970
質問者

補足

ご回答をありがとうございます。 ベンサムのタコメーターで見るように、人々の幸福の度合いを知るというのは ミルの幸福の度合いには高級なものと、低級なものがあるという考えと 一致してるという風にとらえてしまうんですが、どうなんでしょうか?

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noname#6165
noname#6165
回答No.1

いっこめだけ。 自分がもっと○○だったらとか、あの人がもっと×△だったらとか言う場合、~だったらああ(つまり目的)なのになぁ。というその人格ないしその人の性質が起こす出来事に対する期待のようなものがあるとおもうのです。 その期待する出来事のためには、自分を改造することも、他人を替えようとすることも、もっぱら惜しまない。 そのような態度を、「人間性を、単に手段としてのみ扱う行為」であるとしていると思います。   そうではなく、自分がもっと○○だったらとおもうが、今こうであること、それを、同時に目的(期待すべき事象)として捉えなさい。 こうではないですか?   例えば、自分(他人の場合も)の人格(外見も同じ)は、かなり不細工で、不純だと思われる。もっとよくなりたい、よくなってほしい。 そう思って「今の自分(ないし他人)の人間性を否定ばかりする」のではなく、その、不細工だと思っている自分人間性(他人も)が起こす出来事にも期待しなさいな。 そうすることで、今の不細工と感じられる自分(他人も)は、意味あるものとして、あなたの中で大切にされるであろう。 そうすることで、はじめて今の自分(他人も)は、不細工であろうが不純であろうが、活きてくる。 かなり脚色しましたが、 こんなかんじでしょうか。 カントは、多くの人や文化の、師になっている人物です。 ですから、このような解釈を、私はしました。   もう一つは、神的なものを前提とした解釈が、私は思いつくのですが、今は、とりあえず上記のものを回答としておきます。

noname#7970
質問者

お礼

ありがとうございました。 回答をよませていただいたり、本で調べたりして、なんとなくわかってきました。

noname#7970
質問者

補足

ご回答をありがとうございます。 カントの考えは他人を目的達成のために利用してはならないということですか?

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