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お金ってなんでしょうか?

違うカテでも質もしましたが、哲学的だなと考えたのでこちらのカテでも同様に質問です。 みなさん、お金ってなんだと思いますか? 色々な話を見聞きしましたが、お金にこれだけ価値が集まっている背景を知りたいと思います。 お金は交換を促すためのツールであったはず。 もともと金との交換価値を背景に信用を保っていたはず。それが金本位制をやめた時点でも価値は変わらず、むしろ国がいくら刷ろうが価値が高まっているように感じます。 この背景には何があるのでしょうか?

みんなの回答

noname#182794
noname#182794
回答No.20

まだ開いてましたね。ANo.4です。 前の回答では、面白いと言っていただきましたので、 もっと面白そうなことを考えてみました。 いくつかの側面から考えました。 1.日本が戦争を放棄しているから。 2.日本人が海外へ出稼ぎに行くから。 3.経営者より雇用されて働く人のほうが多いから。 4.景気が悪いから 戦争をしない国の人が、世界を相手に取引をする場合、 これを拒否する国は少ないと思うので、ある意味、日本は世界中の 資源を取り扱える可能性が高いので、それに見合った分の、 お金を作る権利がある。取引の数だけお金が有るのが自然だから。 しかも、日本人の多くは、給与所得者なので、物を買うときに、 どうしてもローンを組まなければ、なかなか買えない。すると、 ローンの返済には、どうしても、お金が必要になる。 通貨代用証券でもいいんじゃないの?とか聞こえてきそうですが。 証券は、景気が悪いと通用しなくなりそうなので、やはりお金の ほうが重要視されると思います。 そこで、近未来の日本のあるべき通貨制度に、名前を付けてみました。 「地球本位制度」これでいかがなものでしょうか。 地球全体の資源と交換できる日本円ということで。ウケましたか? しかし、日本のお金は、政府の税収のために創り出されたという、 私の考えは変わりません。

  • kanto-i
  • ベストアンサー率30% (180/596)
回答No.19

>お金は宗教ということでしょうか? 共同幻想=宗教ではないでしょう。 宗教における共同幻想もあるでしょうが、お金は経済における共同幻想と言う訳です。 例えば、国家も共同幻想ですが、皆がそう思っている(認識している)から成り立つものです。 お金も同じですよね。 もう一つ、日本円を知らない奥地の民族に行って、一万円を渡しても捨てられたり 焚きつけにされるかもしれませんよね。 知らない(認識がない)から、その人達には価値がないものなんです。 その民族は米ドルだけは知っていて、その近くで通用するとします。 円の一万円と米ドルの一ドル、どちらかをあげると言ったら、米ドルを取ります。 その民族は、米ドルに対しては共同幻想を持っていると言うことになります。 哲学においてでしたら、お金は認識だけの問題となります。

  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.18

やっぱり、「信用」ではないでしょうか。 「いつまでも変わらない価値」の魅力とか。

koiprin
質問者

お礼

ありがとうございます。 いつまでも変わらない価値が、お金を一番怪しい存在にしていますね。

回答No.17

>お金ってなんだと思いますか? 国家と個人では全く異なったモノです。 カネは発行する国家にとっては債務の額を示すものであり、所有する個人(法人)にとっては債権の額を示すものです。

koiprin
質問者

お礼

ありがとうございます。 ただ、哲学的な考えを求めています。

回答No.16

 最近は、ものへの執着の象徴のように感じています。1000円札一枚あれば、こんな紙きれで夕食だったら充分食べられるものへ変換ができることを、不思議に感じたりしたことはありませんか?野性の肉食動物だったら、一回の食事を得るのにどれほどギリギリの苦労を強いられるんだろうと想像したりします。逆に今ポケットに全財産100円しかないという状況に置かれた時の不安感とか。お金の量でとりあえず安定して生き続けられる年数がだいたいわかる、逆算していかに一生でかかる金額が膨大かも想像つく。生きる安定剤として、一種の麻薬として執着したくなります。  お金さえあればとりあえず生きていける。本来は、その千円を自分で獲得するためにも1時間以上働かなければならない。ただ親に頼ったり、楽にかせげだり、年金や生活保護など楽にお金を得られるようであれば、その状況を失いたくないという執着もあります。そのためには、魂を売ったり、自由な生活を捨ててもいいという、いわゆる大事なものを放棄してでも生きられればいいという執着もあります。  自分も疲れる職場からなかなか自由になれないのも、生きるためのお金にどうしても執着していることに気づかされます。衣食住最低限でも生きていければそれほど不自由にしなくてもいいのに・・・若干魂を売って安定した生活費を得るような生活にもんもんとしています。お金から自由になる・・・難しそうです。オイルショック時のトイレットペーパーの買い占めのような不安感で貯蓄している現在の様相に、自分も含めやや病状を感じます。バブルショックやリーマンショックをずっと引きずっている心境でしょうか。確かに今頼れるものは・・・きれいごとでなくお金です。

koiprin
質問者

お礼

ありがとうございます。 確かに麻薬ですね・・・

回答No.15

 No.13です。  ★(No.13お礼欄) ~~~~  おっしゃる通り、1971年までは、この等価交換の性質が成り立つ前提があったのですが、金本位制から脱却した時から、貨幣をいくらでも刷れる社会になってしまい、結果、大量にお金が出回っているにもかかわらず、お金自体を重視するスタンスが誰も変わらないというのが疑問です。  ~~~~~~~~~~~~  ☆ 1971年というのはよく分かりませんが もしモノやサービスの価値以上に《おカネが出回っている》なら その上げ底ないしバブルの部分の量が価値として下がるものと思います。  ★ お金自体を重視するスタンス  ☆ 短期としては・そして短期の連続としてけっきょくつねにになりますが それでもそれほど近視眼のような考えやスタンスを持つという人もめづらしいと思うんですが どうでしょう?  経済活動の動きは それぞれの個人があらがい切れないほどの強さを持っており その流れに人は必然的に従わざるを得ない側面があると考えます。(満員電車で急ブレーキを引いたら 人びとは不可抗力によって押されてしまいます。そのように必然性が強いというたとえが言われたことがあります)。    そのように文字通り《おカネを重視するスタンス》をとることと 心ではどう思っているかとは やはり別であるか それとも心でもそう思っていたとしても《人間》にはそのおカネの論理とのあいだには一定の距離があるのではないかと思われます。《おカネ人間》になるわけではない。    あとあらためてですが お札をやたら刷りまくったとしたら ハイパーインフレになるのであってつまり貨幣価値が下がるのであって 以前と同じ価値でおカネが増えたということでもないかたちになりましょう。

  • tibatto
  • ベストアンサー率24% (40/161)
回答No.14

>一方的に儲けることは可能でしょうか? これを「既得権益」といいます。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A2%E5%BE%97%E6%A8%A9%E7%9B%8A 会社というのも実際には、既得権益の一種でして かなり好き勝手に、人を使って利益だけ巻き上げています。 それと、金融業者です。 何で、一方的に利息を付けられるんでしょうかね? 儲けたお金は、どこへ行くんでしょうか? 税金も、何種類もあって大変な負担です。 この話題、書き始めると止まりません。

回答No.13

 こんにちは。  すでに投稿したことのある回答ですが 考えるところとして かかげます。  まづ おカネをきたないものとして見たり おカネを持つことがわるいことだと見られていたなら それは 基本的に言って マチガイであると考えます。そのことを先に捉えるという順序にします。        *  おカネは 言わば中立のものだということについて そうであるのに何故そうは見られていないか? その原因ないし理由として:  1. おカネを持っている人は 相当汚いことをしてかせいだのであるに違いないという通念があって それに引きずられている。それは 部分観にしか過ぎない。  2. 自分がおカネを持つと ついついその交換価値(購買力)によってのみ自分の存在感が得られると考えるに到るまでに あたまとこころとが混乱している。  3. 物質よりは精神だ 一にも二にも心が大切だとしきりに唱えるやからがいて これに影響を受けてしまう人びとのあたまの部分がある。見かけないし耳に飛び込むひびきは ちょっと心地よいらしい。    4. 世の中は 人びとの関係性によって成り立っていると考えているにもかかわらず お金は――以上のような通俗的な考え方になびいてしまって―― それを持つ人の人格を左右するとまで思い込んでいる。  5. 人びとは 一般にふつうに勤勉なのであって そう行動し生きるのであるが大きく経済の仕組みに沿って必然的な行動しか出来ない部分がある。ゆえに その《やむを得ない必然性の王国に生きるという条件》を見ないようにしてしまう《耳に心地よい声》が聞こえると そちらになびいてしまう。  6. 言いかえると 《お金は汚いものだ》と思っていたり言っていたりすれば 人間としての人格が守られるのだと思い込んでしまった。  7. それに毛を生やせば 他律ではなく自律だと壊れたレコードのように言い張る声が出て来る。  8. 《汚いところ》があれば――社会人としての互いの存在関係性において社会政策などなどをとおして―― この汚点をも言わば分け合って乗り越えて行くしかない。それほど確かに資本主義経済の歯車は われらの心を突き抜けて走っているものと思われる。  9. つまりわれわれは 弥縫策でしかない社会政策とともにであっても ときを俟つ。のが正解だと考えられる。       *  さて おカネとは何か?  10. おカネというのは 人間どうしの信用関係を 数量で測るという方式で――実際にそれがよいかどうかを別として――決め合ったものです。  11. 人間の信用の以前には ふつうの友情やライワ゛ル関係やあるいは対立や敵対の関係まですべてを含めた意味での《愛》の関係があった。関係性において互いにつながっているという意味での愛です。  そしてそれにはとうぜん 好きと嫌いから始まるような正と負の愛があり そういうヱクトルとしての信頼関係があったと規定できます。  12. やがて――生産のチカラが 稲などの農耕や鉄などの金属器の使用の始まりとともに 上がり――信頼関係が 衣食住を初めとする経済生活に根差した信用量としても捉えられて行き いつしかその量は貨幣で測られるようになった。  13. 言いかえると 一面として信頼関係を破る対立関係に入って 負の信用による敵対関係にまですすみこれが昂じたなら もしそこで戦争をしたなら戦争奴隷が発生しましょうし そこまで行かなくても貸し借りの関係からは債務奴隷となってしまう場合がある。  14. ところで 奴隷は 人身の全部が拘束され制約を受けるのですが もしこの債権債務の信用関係が交換価値としての量によって測られたなら その量までの拘束および制約となります。  15. つまり その側面においては 貨幣による等価交換なる制度をつうじて じんるいは人身の束縛や身分による制約を解放したと言えそうです。  16. つまり 人間どうしの社会関係が 貨幣としての定量的な債権債務の関係に限るのだと取り決めるならば 人間そのものを売り買いすることはなくなります。理論的には。  そして おそらく人間はその生が所与のものだという存在の条件として・その良心にとっても自由意志としても――公理としてのごとく―― ふさわしかった。      17. よって ひとつに ただ単に需要と供給の対比関係を示すしるしだという見方だけによって成り立ったものだとも思われない。  18. ひとつに 数量にもとづく等価交換ほど 民主的な人間関係の仕組みはないとも言えそうです。 それを 互いの心が包み込むことが出来るなら なおよいでしょう。  19. その交換を――等価交換が取り決めあわれているというのに―― 一方の側にだけ有利なかたちで押しつけたりするのは むしろ経済外の政治的な(社会力学的な)圧力によるのだと考えられます。おカネに罪はない。  20. これを・つまり経済政治学的な力学を 人間の心構えとしても仕組みや制度としても どうするかが 問題なのであって おカネは 単純に人を惑わすものだとかと言ったり ただただ物欲への誘因であるにすぎないのだとかと見たりする見方は どうしたものなのでしょう?  21. おカネには 人びとのあいだにおける自由および対等という民主制の《精神》があります。 会社における付加価値の分配あるいは社会全体としての税制などをつうじての配分は いまの民主制の精神にもとづき 取り決め合われて行きます。  その勢力を作り得ないなら それは われわれ市民の責任です。

koiprin
質問者

お礼

ありがとうございます。 おっしゃる通り、1971年までは、この等価交換の性質が成り立つ前提があったのですが、金本位制から脱却した時から、貨幣をいくらでも刷れる社会になってしまい、結果、大量にお金が出回っているにもかかわらず、お金自体を重視するスタンスが誰も変わらないというのが疑問です。

  • kanto-i
  • ベストアンサー率30% (180/596)
回答No.12

No.5です。 一つ思いだしたので追加します。 お金の実態は「共同幻想」です。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%B1%E5%90%8C%E5%B9%BB%E6%83%B3 形があっても、世の中多くの幻想があります。 だからこそ、思いが現実を作っていくんですけどね。 哲学は、それを踏まえたうえで、どう生活を良くしていくかの為にあると思います。 幻想だからこそ、消えてしまうのか創り上げるのか、どちらでも可能な訳ですから。

koiprin
質問者

お礼

ありがとうございます。 お金は宗教ということでしょうか?

回答No.11

#10の者です。 人はよく「お金があれば何でもできる」と言いますが、あんな 手アカで汚れた紙切れではお尻も拭けません。 お金によってできるのは、『お金があれば何でもできる』と 思っている人に「何でも」させる事だけです。 取引において、有用な物品をもらった方ではなく、汚れた 紙切れ(お金)をもらった方が「ありがとうございました」を 言う奇妙。 お金の真の価値は、そのずっと先で製品を作ってくれている 人々であり、その需給をつなぐ情報=作ってもらった事への 感謝の気持ちなのです(さらに「この人は他人の役に立つ ので厚遇してあげて下さい」というしるし)。 もし、お金にそんなに価値があるものなら、無人島に持って 行く物の第一にあげてはどうか。 そうした感謝の気持ちが、お金という物体に転嫁されたとたん、 人をだまして得たお金でも、汗水たらして得たお金と同じ価値を 持ち、社会は奪い合いの弱肉強食のジャングルと化してしまう。 社会の拡大に意識がついていけず、物質化した需給をつなぐ 情報を、インターネットやICチップといったIT化によって再び 情報化し、買う方に感謝の気持ち、作る方に役に立つ喜びを 起こさせ、自己存在の本質に根ざした、愛(社会生命的自覚化 =自律的社会行動)によって成る社会に戻せるだろうか?

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