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大岡政談で有名な、江戸南町奉行の大岡「越前守」につ

江戸南町奉行の大岡越前守について教えて下さい。 1.まず、名前の「忠相」はどこへつながるのですか?江戸南町奉行大岡越前守「忠相」というのですか?江戸南町奉行大岡「忠相」越前守というのですか? 2、「越前守」は、官位というのですね。実質的な役目(権限とか義務)はあったのですか? 3、「越前守」は、幕府が大岡に与えるのですか?、あるいは大岡が、自分で手に入れるものですか?4、江戸南町奉行大岡越前守忠相を現代語風に訳すと、東京都南方面警視総監大岡福井県知事忠相になると思います。江戸時代の人は、東京都南方面警視総監と福井県知事とが、並んでいても、違和感がなかったのですか?

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  • poomen
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回答No.1

・官職が先で名前は最後です。他に有名なところでは、井伊掃部頭直弼がありますね ・これは律令制の官位です。鎌倉幕府が成立すると源頼朝を通さずに官位を受けることが禁止され、その後も幕府から朝廷へ一括申請するという形になりました。その時代にはすでに実質的な意味合いを無くして形式化していました。「掃部頭」は本来御所・禁裏の清掃を担当する「掃部寮の長官です」  これらは「武家官位」といいます http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%AE%B6%E5%AE%98%E4%BD%8D  今のNHK大河ドラマの登場人物の一人、松平容保は、松平肥後守容保です。 http://earlgreyimperial.bufsiz.jp/edo_q/edo_q01_bukekani.htm ・徳川氏の体制が確立すると叙任権は幕府が握ります。京の朝廷に伺いを立てず自由に与えることが出来ました。  官職は位階に(一位とかです)従属するものですから大名の序列付けにも使われました。たとえば御三家でも尾張藩国主は従二位ですから尾張大納言○○、水戸家は従三位ですから水戸中納言○○でした。将軍だけが正一位となります。 ☆武家官位より抜粋 1712年(正徳2年)刊行の「和漢三才図絵[6]」記載の官位。 侍→諸大夫→侍従(相当従五位下)→少将(相当正五位下)→中将(相当従四位上)→参議(相当正四位下または従三位)→中納言(相当従三位)→大納言(相当正三位・従三位)→内大臣(相当正二位・従二位)→右大臣(相当従二位)→左大臣(相当正二位)→太政大臣(相当正一位・従一位)  徳川家康も豊臣政権下では「内府」でしたよね、内大臣というわけです。 ・東京都南方面警視総監大岡福井県知事忠相・・名訳ですね。しかし身分社会ですから官職などは知らなかったし、興味もなかったんじゃないですかね。大岡忠相なら「南町奉行様」、松平容保は「会津公」で事足りたと思います。  この時代苗字はともかく「名前」を呼ぶことは避けるのが常識です。時代劇は便宜上呼んでいますけどね。 http://homepage2.nifty.com/kenkakusyoubai/zidai/namae.htm

park123
質問者

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1.まず、名前の「忠相」はどこへつながるのですか?江戸南町奉行大岡越前守「忠相」というのですか?江戸南町奉行大岡「忠相」越前守というのですか? 2、「越前守」は、官位というのですね。実質的な役目(権限とか義務)はあったのですか? 3、「越前守」は、幕府が大岡に与えるのですか?、あるいは大岡が、自分で手に入れるものですか?4、江戸南町奉行大岡越前守忠相を現代語風に訳すと、東京都南方面警視総監大岡福井県知事忠相になると思います。江戸時代の人は、東京都南方面警視総監と福井県知事とが、並んでいても、違和感がなかったのですか? 回答ありがとうございます。 1.<官職が先で名前は最後です。> ですね。 2.<形式化していました。> ですね。 3.<叙任権は幕府が握ります。> ですね。 4.<知らなかったし、興味もなかった> のですね。 各項目につき、細かくかつ豊かに説明して頂き、疑問が溶解しました。 南町奉行という表(おもて)から・正統的な面から歴史をみるのとは別に、越前守という影の点から歴史をみるのも、歴史の内情がよくわかり、楽しいもの、と感じました。

その他の回答 (23)

  • Tacosan
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回答No.4

厳密にいうと, 「越前守」は官位ではなく官職ですね. 官位は官職と位階を合わせたもので, 大岡忠相の場合「従五位下越前守」 (のちに従四位下を与えられていますが) となります.

park123
質問者

お礼

早急な回答ありがとうございました。 <「官位ではなく官職ですね. > 今の私にはまったくわからぬことですが、当時ははっきりとした区別があったのですね。 Tacosan様は、自然科学にも社会科学にもその他にも守備範囲が広く、驚きます。

  • blackhill
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回答No.3

4)についての回答です。  江戸には2つの奉行所がありましたが、南や北は単に位置を示しただけの通称で、正式の名称ではなく、また管轄区域を示すものでもありません。2つあるのは、月番で民事訴訟を受けつけるためです。  また、奉行所は町方の裁判所も兼ねているので、奉行は東京地方裁判所長でもあります。  なお、奉行所の職員である与力や同心は世襲の役職であり、奉行の直接の部下ではありません。奉行とは、幕府から子会社に派遣された雇われ社長といった感じでしょうか。喩えるなら、戦前の官選知事です。もちろん、少数ですが直属の部下(内与力)もいました。

park123
質問者

お礼

早急な回答ありがとうございます。 思い出しました、南と北は月番でしたね。 <奉行は東京地方裁判所長でもあります。> ですね。 そして、奉行は一般行政も扱っていたようですね。 大岡忠則は、現代語風に訳すと、無粋な日本語ですが、第一警視総監兼東京地方裁判所長兼東京都知事大岡福井県知事相当忠相になりました。 そして <国選知事>ですね。

noname#180427
noname#180427
回答No.2

こんにちは。 面白い質問と思いましたら、あなたでしたか! 1)についてはNO1の方が詳しく回答されておりますので、 私は2)、3)のことを少し・・・ 2)の「越前守」は、官位というのですね。仰るとおりでしょう。 官職と言っても良いのでしょうね。 ご承知と思いますが「大岡忠相」は41歳の時に、 江戸町奉行に抜擢されておりますね。 その時に「越前守」に変えておりますが、それ以前は「能登守」です。 官職名と言うのは実体がないものです。 ただ職位が上がるという意味はあります。 「能登守」は山田奉行在任中の官職名ですから、 改名の必要もあったのかなと思います。 「能登守」から「越前守」への改名は平安時代の「延喜式」からでしょうね。 越前国が枝分かれをした能登国より格が高いという理由と思います。 権限と義務については、布衣役、諸大夫役、あるいは、 奉行職を検索されれば詳しいと思いますので・・・。 長くなりますので、少し端折りましょう。 3)の「越前守」は幕府が大岡に与えるのですか? これは自分の裁量に任されていたようですよ。 幕府に届ければ許されたようですね。 ただ布衣役が幕府限りの序列であるのに対し、町奉行は諸大夫役ですから、 朝廷からの任命書類が必要でした。 最後の違和感ですが、どうなのでしょうね? 最初にお話したとおり実体のないものですから、あまり感じなかったのでは?(笑)

park123
質問者

お礼

早急な回答ありがとうございました。 守備範囲の広いturukamejirou様では、逃げれるすべがありません。 2、<官職名と言うのは実体がないものです。> ですね。そして <越前国が枝分かれをした能登国より格が高い> 当時の人は、このような細かいところまで、評価していたのですね。 3、<幕府に届ければ許されたようですね。> ですね。ある程度の自由があったのですね。 4、<あまり感じなかったのでは> ですね。形式は形式、内容は内容、と分けて考えていたのですね。

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