> 大地震や地球温暖化の前では宗教より自然に対する畏敬の念の方が大切ではないかと思います。
⇒ 大地震や地球温暖化の前と後で、何がより大切なのかの考えが変化する理由や根拠が不明確な文章です。
> 太陽崇拝や自然信仰は原始的と言われても、地球温暖化を経済としてしか考えない近代的思考よりエコなどとは別にはるかに信ずるに値するように思います。
⇒ 信じるに値するか値しないかの判断基準が不明です。「信じるに値する=自分にはピンとくる・フィット感がある」ということなら、個人的な好悪・親愛ですから、他人が関与できることはありません。
> 逆に寒冷化で全地球がアイスボールと化すような場合、宗教には救いがあるのだろうかとも考えます。
⇒ 日照り干害・多雨冷害・疫病流行のような場合にこそ、宗教行事や祭祀が盛んになった歴史的事実は無視できません。アイスボールになった時期に人類はいなかったし、氷河時代の人類の文化状況は不明ですが、岩絵などから見ると昔から祭祀・宗教行事は盛んであったと推定する方が合理的でしょう。「宗教に救いがある」という言葉で何を意味させているのかが不明ですが、何かの期待や価値を感じて祭祀や宗教行事は行われたと考えるのが合理的です。それが不安や恐怖からの解放という効果であったにしても同様です。
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宗教とはどのようなものとお考えなのかわかりませんが、教会や寺、神社、聖地や尊像、儀礼、呪文、聖書や経典の片言に示された節理・思考方法あるいは戒律やタブーを重視し心を寄せることで、不安を除き、安心を獲得するようなことを宗教とされているのであれば、平和でも戦時でも、同胞意識の集団内でも、対等競争者の中でも、暴風雨や快晴、寒冷化、温暖化、津波、噴火、洪水、砂漠化、湿潤化、大陸の移動分裂集合、隆起沈降、紫外線や宇宙線の増加、新興感染症の大流行、高齢化、少子化、強盗殺人の増加、テロや戦役の増加、貧富の格差増大、敵対感情の増大など、どのような状況になろうとも、宗教は重要性を失うことはないと考えて良いでしょう。
人間が理性のみで生きていくのが辛い状況があるなら、上述の意味での宗教はそれなりに大事にされるでしょう。
上述の意味での宗教がそれなりに大事されていることを「宗教による救いの効果」により起きる現象であると考えるのであれば、温暖化・アイスボール化・大地震襲来などを不安に感じる人がいるならば、そうした不安に感じる人が増えるほど、宗教による救いに依る(拠る)人は増えて当然です。
「自然に対する畏敬の念」とはなにかも考えた方が、問題追求はしやすいです。
「自然に対する畏敬の念」とは「自然を畏れ、敬い、恭順を示す・受容する・讃仰 ・崇めたてる」ということです。 内容的に、上述の意味の宗教の一部です。
宗教と自然畏敬崇拝とをまったく別のものであるとするなら、その意味での宗教は求道者・真理探究者・覚悟者たらんとする人の追求する人の求めるものでしょう。一般民衆には無関係のものです。 そうした意味での宗教は民衆に救いや安心をもたらさないというよりも、もともと民衆は、そうした求道心・探求心・全てを捨ててでも悟りをあくまで追求する気持ちを持ちません。 通常の教会や寺社、神父、牧師、層、禰宜や社人、行者、巫女、宗教本や呪、賛美歌、御文、戒律、礼拝儀礼などを尊重し生活の一部に組み入れる前述の宗教と、他の一切を無視して真覚醒や神や仏を真に追求する宗教を混同しては、思考が整理できません。
お礼
私は科学的知識と自然に対する畏敬の念とは両立するものだと思っています。ご教示ありがとうございました。