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価値?
生きる過程で子孫を作ったものはもう意味がないと思っています 例えば90歳のご老人。癌だと言われれば死にたくないと治療をし、どうにか生きようと足掻きます。 ですが、この時点でこのご老人は非生産的な人であるので、足掻く必要はないと思います。 これが生産的な人であれば意味はあると思います。 結果的には、人は必ず死ぬのに、何故生きようと思うのか訳が分かりません。 政治家はどれだけ努力しようと自分が死ねば努力は泡となる。 自分がどれだけの栄光を築こうが、自分が死ねば自分には関係がなくなる なのに何故人は頑張り生きるのか 何故人は死を受け入れず足掻くのか 何故神が与えたからという言い訳で考えることから逃げるのか 全て分かりません
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- Mokuzo100nenn
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頑張って生きる人もおれば、頑張らずに生きている人もおりますがな。 それぞれの人の個性であって、一般解を求めてもあきまへんやろなぁ。
人間は生殖をし終えた後も死なずに、生きることに情熱を燃やすのはなぜか?というご質問ですね。 単純に考えれば人間は死ぬことに大変な恐怖を覚える生物であり、周囲も彼らを死なせずに置いておくことに利益を見出すようになったからだということでしょう。 老人は長期にわたる経験で様々な情報を豊富に持っており、若者達がゆきづまった時に様々な知恵を授けてくれるからだ。進化論的には、そういった老人を大事にしていたグループが気候の激変や天変地異に対応して生き延びてきたということがあったのでしょう。 老人たちにとって最大の危機は祖先が文字を発明して情報を記録するようになったことですが、文字はそういった危機を悟った人間達によって、極めて少数のものによって独占することでその危機を乗り越えたのです。 現在またこのような疑問を持つ者があらわれたことで、われわれ世の老人達はふたたび危機に見舞われているといっていいかもしれません。
- hekiyu
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”人は必ず死ぬのに、何故生きようと思うのか訳が分かりません” ↑ 人間の特徴はその脳にあります。 人間の脳は前頭葉と大脳新皮質が発達していることに その特徴があります。 大脳新皮質は理性を司り、大脳旧皮質は本能や感情を司ります。 人は必ず死ぬ、というのは理性であり、これは新皮質の問題ですが、 生きようとするのは、本能でありこれは旧皮質の問題です。 だから、人間は死ぬということが解っていても、本能の働きにより 何とかして生きようとするのです。 そこに理由はありません。 人間は、そのように出来ている、ということです。 ”老人は非生産的な人であるので、足掻く必要はないと思います。 これが生産的な人であれば意味はあると思います。” ↑ 価値、というのは関係概念です。 何かに関係づけて、初めて論じることができる概念です。 この事例では、老人には社会的価値がない、ということですね。 何かに関係づけないと、価値を論ずることはできません。 老人には社会的価値は無いかもしれませんが、その老人に とっては己の生命は価値があるでしょう。 尚、老人は社会的価値が無い、と断言することは科学的では ありません。 例えば、お婆さん仮説、というのがあります。 これは生理が終わった女性は、社会的価値が無いはずなのに、 何故人間に限っては、生理が終わっても寿命が続くのか、という 問題に対する仮説です。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8A%E3%81%B0%E3%81%82%E3%81%95%E3%82%93%E4%BB%AE%E8%AA%AC 価値が無いと断言してしまうのは、無知なるが故かも知れず そう簡単に即断すべきでは無いと思います。
他の動物は子供が親の世話をすることはないと思います。かれらは、それで文句を言うこともなさそうです。なぜ文句を言わないかというのも不思議とも言えそうです。肉体は死ぬことを嫌がっていないようです。人でも体は別に死ぬことを嫌がっていないのではないかと思います。死ぬ原因が与える苦痛にしても体はそれを嫌っているわけでもないように思います。
- 雪中庵(@psytex)
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人の生きる目的が、物質的繁栄や肉体的増殖、経済性で あれば、あなたの指摘は正しい。 重度の身障者は生産性において、社会のお荷物でしか ないでしょう。 では、親はなぜ子供を育てるのでしょう? 年老いた時に面倒をみてもらうためでしょうか? それもあるでしょうが、そうでなくとも育てるでしょう。 それが喜びだからです。 もっと端的に、セックスは利己的な行為だと考えられ がちですが、実際はさんざん面倒なプロセスを経て、 激しい運動で体力を使い、あまつさえタンパク質まで 放出するという、非利己的な行為なのです。 そう、生きるのは物質的な損得のためではなく、「精神 的な充足量を、人生を通じて最大化するため」です。 それは社会化において、「~の全人類の総和」が挿入 されます。 その「充足量の生産性」において、意識ある全ての人は 寄与できるのです(将来的には社会性を共有できる他種も)。 高齢者も身障者も同じであり、一方、回復見込みのない 脳死状態の人が除外されるのも同じ文脈によります。 その社会生命的自覚化=「人類全体の充足量の総和の 最大化(博愛)」において、時間的延長も含まれ、その 自らの信念において未来への貢献が信じられれば、 その意志は未来にわたって果たされる=限られた人生に おける無限の充足感を可能にするのです。 逆に、自らの肉体に閉塞された即物的欲求や衝動的 快楽に拘束された意識の充足は、自らの力の及ぶ限り に閉ざされ、肉体の消滅において限定されるのだ。
お礼
回答ありがとうございます とても参考になりました。
- loveaice
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死ぬのはわかりきってますが、 死んだ後の経験を語る人がいませんからね。 その前に沢山死んでいても自分が第一人者のように感じます。 つまり、人柱です。 例をあげますと、 橋から飛び降りたらどうなるか。 一瞬で死にます。痛みも感じません。 でももしかしたらしばらく生きていて、物凄く痛いかもしれない。 そういうことではないでしょうか。
お礼
回答ありがとうございます
お礼
回答ありがとうございます お婆さん仮説については私は反論派なのでなんとも言えませんが、脳で生きるというのはとても参考になりました。