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なぜ人は有限を求めるのか
- 宇宙の形や誕生についての考え方は様々であり、無限なる宇宙には一定の形は存在しない。
- しかし、問題はなぜ人は有限を求めるのか、なぜ無限を拒み有限であることを望むのかである。
- この疑問には教会、イスラム、ヒンズー、ブータンなどの宗教的な観点も含まれている。
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>この無限なる宇宙がある時をもって誕生する訳はなく、 >この無限なる宇宙に一定の形などあるはずは無いのにである。 結論から先に;ご見解に同意というか同じ考えです。flatter、へつらいではない。 無限なる宇宙にどうして有限なる観念カテゴリーとしての時間、空間ができ、それによって知覚したものを認識という経験、経験という認識をしているか。 ご回答の中には人間が有限であるというフレーズが使われているものもあります。 そのように有限なるものという把握と判断はどうして生じているのか。 無限の中に有限なるものとしての知覚の判断とはどういうものか。 区切りと別々化、個別化という都合的な仮の方式ではないだろうか。 そうすることにより、一定の範囲と時間という囲みをつくり、自己の世界というものをつくり、おくことができる。 確認と安全なる自己と自己の世界を持つ。 そういうことなのではないだろうか。 無限の宇宙が無限の自己を無限として知覚し、経験、認識しているとしたら、この狭く短く限定している人間の自己はその構成要素たりうるであろうか? 構成要素にならないような存在と存在の意識、そしてその勝手な方式は原理としては欠陥があるといえないであろうか? 更に、“人間は有限なるが故に無限を愛し、あこがれ、求めるのだ”というフレーズも散見する。そして“だから自己の存在を無限に求めて子孫やらなにやらも継続を欲する”と。 しかしそれも結局、造っている有限の枠の中での継続でしかない。結果としても原理としても、欲求としても。 “人間が無限を愛し、あこがれ、求める”のは潜在的にそして存在的に、そして本来的に“人間が有限なる存在”という本質ではないからではないだろうか。それが自己だから、見失った自己を求めているのが、“無限を愛し、あこがれ、求めている”ということではないだろうか。 だから子孫や財産、国家や地位、名誉などにその実現を求める事は、迷妄以外のなにものでもない。 宗教の枠や戦争も、有限の中に無限を求めるという意識の愚かさ(愚かな考え方)ではないだろうか。 掴み処のない無限は有限に限定している人間意識には不安であり、自己の確認も安居もできない。 ではことばや観念で無限を提示できるか。 それは無理であろう。だからそういうものを越えた宇宙全体になることしか人間の永遠の課題は実現しないであろう。 私は、Self-Realization Fellowshipというヨーガの勉強と精進をここ40年ほどしてきております。その教えの受け売りでした。
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- cat-food
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No9です。私の回答を丹念に読んでいただいてありがとうございます。貴方の考えもよくわかりました。 紙面の関係で、ひとつだけ…。 貴方は「宇宙の誕生が137億年前だということを科学者が自身をもって言える訳が無い。」 とおっしゃっていますが、これについてだけちょっと反論したいと思います。 宇宙には数千億の銀河が存在します。科学者はそれぞれの銀河の動きを一つずつ丹念に調べて行きました。その結果、銀河は止まっているわけでも、勝手気ままに動いている訳でもなく、放射状に広がりつつあるということが観測されているのです。 それはちょうど打ち上げ花火が上空でポンと破裂したとき、火花が放射状に広がっていくようなものです。この銀河の動きを逆にたどっていくと、137億年前にすべての銀河が宇宙の1点に集中していたという結果がでるのです。 これを素直に解釈すれば、137億年前に宇宙は、宇宙のある1点から広がり始めたということになります。科学者が自信を持って言えるとはこのことです。 科学者は決して有限を求めたり、望んだりした結果そのような結論に達したわけではありません。貴方は愚かな発想とおっしゃいますが、別に科学者は発想しているわけでもありません。観測事実を素直に解釈しているだけです。このように考えることが愚かだとは私には思えません。 貴方は宇宙が有限であるか無限であるかは哲学の領域であって、物理学で実証的に示される世俗的な現実とは関係ないのだとおっしゃるなら、それはそれで結構です。それは貴方の心の中の世界であって、だれも否定することはできません。
お礼
>宇宙には数千億の銀河が存在します。科学者はそれぞれの銀河の動きを一つずつ丹念に調べて行きました。その結果、銀河は止まっているわけでも、勝手気ままに動いている訳でもなく、放射状に広がりつつあるということが観測されているのです。 それは宇宙の中のごく微小な一部分において、そのよーな動きをしている空間が存在するとゆーだけのことであって、その観測事実をもって宇宙全体が膨張しているなどと主張できる訳がないんです。 この無限なる宇宙の中にあって、部分的に膨張縮小しているよーに見える空間はあるかも知れない。 しかし我々人間が観測できる範囲などこの無限なる宇宙の中にあってはビー玉にも満たないことを知るべきです。 そんなことは、少し考えれば直ぐに分かることです。 にもかかわらずなぜ「137億年前に宇宙は、宇宙のある1点から広がり始めた」などとゆー結論に向けて走るのか。 それはやはり宇宙は有限であってほしいと望む人類共通の思い入れがあるからなのでしょう。
- cat-food
- ベストアンサー率61% (124/201)
科学者は「宇宙は137億年前に誕生した」と言いますが、別に有限を望んでいるわけでも求めているわけではありません。観測事実を素直に解釈したらそうなったというだけのことです。事実は望むとか求めるとかに関係ありません。 ちなみに科学者は宇宙は137億年前に誕生したといいますが、宇宙が有限であるとは一言も言っていません。137億年前に宇宙ができたというのは現在の宇宙のことであり、現在の宇宙の以前にも別の宇宙が存在したかもしれない。 あるいは137億年前が本当の宇宙の始まりであり、このときに時間というものも誕生し、それ以前は時間というものがなかった可能性もあります。その場合は有限とか無限とかいうこと自体意味がありません。 しかし、科学者が自信を持って言えるのは「現在の」宇宙の誕生が137億年前だということだけで、宇宙が有限なのか無限なのかそんなのは、いまのところわからんと言っているのです。将来もっと観測事実が集まって、その結果、宇宙が有限である、あるいは無限であるという結果がでてくれば、科学者は素直にその結果に従うでしょう。求めるとか望むとかは関係ありません。
お礼
こんにちは。 まず、この考えにはいくつもの大きな誤りがあることを指摘しておきます。 >観測事実を素直に解釈したらそうなったというだけのことです。 第1に、宇宙が有限か無限かを考察することは物理学の領域ではなく、純粋に哲学の領域であるゆーこと。 何故なら物理学は実証を必要とするが、観測に拠ってこの問題を解決することは不可能だからである。 どのよーな観測手段を用いよーと無限を観測することはできません。 あまりに明らかなこと、あまりに自明なこと。 この問題は純粋に哲学的なものであり、真理の探求とゆー深い思索によってのみ解決可能な領域だからです。 >137億年前に宇宙ができたというのは現在の宇宙のことであり、現在の宇宙の以前にも別の宇宙が存在したかもしれない。 第2に、その前の宇宙など有り得ません。 宇宙とは全世界であり、全てであり、全体集合Ωのことです。 Ωは1つであり、それ以外は空Φです。 宇宙は1つです。 あまりに明らかなこと、あまりに自明なこと。 >あるいは137億年前が本当の宇宙の始まりであり、このときに時間というものも誕生し、それ以前は時間というものがなかった可能性もあります。その場合は有限とか無限とかいうこと自体意味がありません。 もし137億年前に時間が誕生したのであれば、そこが時間の始点であり、時間軸の一方は閉じていることになり、これで直ちに時間の一方は有限であることを意味する。 あまりに明らかなこと、あまりに自明なこと。 >しかし、科学者が自信を持って言えるのは「現在の」宇宙の誕生が137億年前だということだけで、・・・ 第3に、そんなこと科学者が自身をもって言える訳が無い。 もしそのよーなことを自身をもって言う者がいたとすれば、その者は科学者ではありません。 >将来もっと観測事実が集まって、その結果、宇宙が有限である、あるいは無限であるという結果がでてくれば、科学者は素直にその結果に従うでしょう。 どれほど時間と金をかけて観測しても無限を測ることはできません。 あまりに明らかなこと、あまりに自明なこと。
- Mokuzo100nenn
- ベストアンサー率18% (2123/11344)
ZFCにもとづく公理的集合論が難しくて判りにくいからでしょう。
「実体を把握したい」んじゃないでしょうかねー 頭の中に収めて安心したいのです。 無限って把握しきれないじゃないですか。 未知のものって基本的に怖い。こちらがどう対処して良いか分からない。 有限なら、全体像を把握できる。 そうなると、対処方法がある程度明らかになる。 頭の中に収めて、ある意味自己の所有物にし、自分の制御下に置く。 安心するために。
お礼
>「実体を把握したい」んじゃないでしょうかねー >頭の中に収めて安心したいのです。 おそらくそーなのでしょう。 しかし有限宇宙は実体ではなく、人の脳内に作られた世界に過ぎない。 有限宇宙を望むことは真理から遠ざかることになる。 その結果、ますます漬かることになるゆー・・・ あ~、
- williumblake
- ベストアンサー率29% (379/1287)
人の道などという質問者がまかりとおっております。 それを信奉する信者もおります。 あまりに愚かな発想、あまりに愚かな考え方。 この独善なる質問者がある真実をもって話をする訳はなく、 この独善なる質問者に一定の真理などあるはずは無いのにである。 しかし問題は別のところに有るよーである。 なぜ人の道は回答を求めるのか、 なぜ信者は総じて一般論を拒み、独善であることを望むのか。 教えてgooの中においても然り、yahoo知恵袋においても然り、okwaveにおいても然り、公布の広場においても然りなのである。 問題の真偽を問わず皆同様に考え、同様に望むのであるから不思議である。 単に漬かりたいからなのか。 漬かるためには正論が邪魔なのであろーか。 どーやら答えはこの辺りに有るんではなかろーか。
お礼
さよーですか。 ではそんな貴殿に1つの詩を差し上げましょう。 深き考察を加え解釈して下さい。 アルケーを思ふ詩 アルケーは近きにありて、遠きにあるもの そして永遠なるもの、深遠なるもの よしや たとえ全知全能なるアルケーであろーとも 決して願い祈ってはならぬもの ひとり海辺の星空に アルケー求めて思い描くもの その心もて アルケーと共に歩みたし アルケーと共に生きたし あ~、アルケー あ~
>なぜ人は有限を求めるのか、 なぜ人は総じて無限を拒み、有限であることを望むのか。 それは違います。 誰も有限を求めては居ません。 現実というものが有限そのものなのであり、 有限なものは容易に想像でき、ひとの考えのうちに入り、容易に求められるものです。 むしろありえないもの、神秘的なもの 悠久不滅とされる無限にこそひとは憧れるのでしょう。 それに漬かるあなたがその見本です。
お礼
>有限なものは容易に想像でき、ひとの考えのうちに入り、容易に求められるものです。 1つゆーておきます。 真理の探求は、容易ではないゆーこと。 結局イージーな道をあゆもーとするから漬かることになるんです。 >むしろありえないもの、神秘的なもの 悠久不滅とされる無限にこそひとは憧れるのでしょう。 宇宙の本質は無限です。 宇宙の根本原理は無限の中に有るんです。
- hekiyu
- ベストアンサー率32% (7193/21843)
”なぜ人は総じて無限を拒み、有限であることを望むのか” ↑ 逆じゃないですか。 人は有限の存在であるが故に、無限に憧れるのです。 だから、人は家族を造り、子を造り、家を造り、国家を 造り、神を造って、少しでも無限に近づこうとしているのです。 無限は、有限の存在である人間には想像が難しく 手に負えないところがあります。 それで、拒絶しているように感じられるだけです。
お礼
有難う御座います。 人は無限に憧れるが、一方において無限を恐れ拒絶する。 そこで真理を突き放し、漬かることを選んだ。 こーなるゆーことですか。 良く分かりました。
- 雪中庵(@psytex)
- ベストアンサー率21% (1064/5003)
>なぜ人は有限を求めるのか 自分が有限だからです。 自分から世界が派生している(自我仮説との時空仮説の 相補分化)と考えれば、有限でなければならないからです。 (無=無限(不確定性∞)からの分化ゆえに) 一方、無限の何かがあるとすれば、それは先入的な何かが あるという事であり、法則であれ神であれ、「それはどうして 生まれたの」という(まさに)無限連鎖の質問攻めに陥ります。
お礼
有難うございます。 >自分が有限だからです。 >自分から世界が派生している(自我仮説との時空仮説の 相補分化)と考えれば、有限でなければならないからです。 自分から世界が派生している。 つまり完璧に自己中心的世界観がもたらす結末ゆーことになります。 やはり完璧に漬かっているゆー以外言いよーがありません。
- dogday
- ベストアンサー率29% (2313/7949)
洋の東西を問わず自分だけが違うなら、自分が間違っている可能性のほうが高いのでは? 世の中にはそのことだけと向き合って人生終える人が相当数いるのです。 片手間に想像することなんて、それしか考えない人の足元にも及ばない愚かな浅知恵。 工学部は明日のことを考えますが、宇宙工学部は明後日のことを考えます。
お礼
>洋の東西を問わず自分だけが違うなら、自分が間違っている可能性のほうが高いのでは? そーとは限りません。 何故なら、歴史を顧みれば分かることですが、真に正しいことはごく少数の人によって打ち立てられたとゆー歴史的事実があるからです。 すべての歴史を通じ、真理は常に少数であり、多数は誤りであった。
お礼
>無限の中に有限なるものとしての知覚の判断とはどういうものか。 区切りと別々化、個別化という都合的な仮の方式ではないだろうか。 そうすることにより、一定の範囲と時間という囲みをつくり、自己の世界というものをつくり、おくことができる。 確認と安全なる自己と自己の世界を持つ。 こんにちは。 krya1998さん、あなたの説明は少々判り難いが簡単にゆーとこーである。 漬かるためには何が要る。 桶が要る。 では桶は何のために要る。 お湯を溜めるためである。 つまり囲いである。 囲うことにより自分だけの小さな世界を作るのである。 この有限な空間、自分だけの小さな世界を作りその中にどっぷり漬かっていれば安心だからである。 だから人は有限を求めるのである。 しかしこのよーにして漬かっても真理からはますます遠のくゆーことである。