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人は神の前に孤独でしょうか
人は神の前でのみ生来の孤独に耐えうるのでしょうか。
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質問者が選んだベストアンサー
休憩時間を使って少しばかりお話しさせていただいてもよろしいでしょうか? >私はネット空間を大切にしたいと思っているひとりです 誰とも解らないが、誰かとの一期一会を求めて流離っているのですね、質問者様は。それは恰もモールス信号に似ている様です。 CQ、CQと言葉を発するのは特定の相手を求めてではなく、誰か居ますか?何処に居ますか?と寄る辺なき海を渡る二艘の船そして舫い綱にも似ていますね?。 蜘蛛の糸の如く細くて見かけは頼りないけれど、でも何れかがそれを断ち切らない限り、その実なによりもしっかりとしている。 敢えて希望の言葉や励ましは掛けません、それは反って仇為すことにも為りかねないから。でも「私が今ここにいること」だけは何よりも強く確実な事実だから。
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- ukiyotonbo
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一人狭い棺桶に収められて生き埋めにされる快感。 一人乗りのヨットで遭難した無風の夜。 真っ暗闇で何も聞こえない現実とそしてそれこそが無限に広がる世界への倒錯。 ゆっくりと進行するだろう孤独死の恐怖。 神との対話をする人はその孤独の快感を取り逃がす。
お礼
自分が無そのものになっているような感じでしょうか。繰り返し読ませていただきます。
- zebura23
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自分が神であり、神の一部であることに気づくとき、 孤独そのものが雲散霧消します。 「孤独」とは分裂した意識が作り出すものであるからです。 「神」は外にではなく「内」にあるのです。
お礼
言葉にすれば書いて下さった表現があり様なのだろうと感じました。
- TANUHACHI
- ベストアンサー率31% (791/2549)
孤独は人間との関係にのみ構築されるものである。従って神や宗教なんぞという低次の俗諺に縛られる限り、本質的な孤独を知ることはない。 哲学的そして合理的発想を持たぬ者は孤独の意味を決して理解することはできない。
お礼
私は何も分かっていないように思いました、ご教示ありがとうございました。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
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こんにちは。 《孤独》ということをすなおに受け取るならば というよりもけっきょく信頼関係にある友情も愛情もになりますが その内容は どこまでも相対的なものだということなのだと考えます。 これで 答えはおしまいだと思います。 つまりは 時間的で有限で相対的な世界にあるということは 絶対で無限で時空間を超えた神を想定しているということにもなる。 これだけのお話なのではないかという意味で もう初めの命題でおしまいになると考えます。 この世界の内に生きる存在であるならば 宇宙の鼓動とつねにあいたずさえて生き動き存在しているということになると思います。 中途半端ではないですよ。そのように世音を観るのが 観世音〔というハタラキ〕でしょうし。 でも どこまで行っても ひとは孤独です。それが 孤独関係であるという点で発狂をまぬかれています。 つねに きよらかなおそれにつつまれているのだと思います。聖なる甘えと言ってもいいと思います。
お礼
勉強させていただきます。
- sidnad
- ベストアンサー率35% (10/28)
う~ん、何とも言えませんね… 人間は生まれたときから一人でもちろん死ぬ時も一人です。 考え込んでいるとよけい孤独を感じるのではないですか。 神といってもいるのかどうかもわからないしその前でなら孤独でなくなるとしたら、今の自我が消えた状態ということで、孤独を乗り越えたというより人間ではないものになってしまったということではないでしょうか。
- strain1217
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質問の意味を 人は生来孤独である しかし 神の前でのみ、その孤独に耐えることができる と解釈します 答え NO 仏陀は、法を友とし法を師とせよと言っています この場合の法とは、真理とでも解釈していますが、 この法を友とし師とすれば孤独ではないと思います
お礼
勉強します。
- sutorama
- ベストアンサー率35% (1689/4748)
いやぁ ネットで訴えている人の なんて多いこと 多いこと
お礼
もう少しご説明いただけませんか
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お礼
ネット空間では実社会の空間ではそれなりに存在する虚栄のようなものが初めから成立しないところが凡人にとって救いのように思います。ご教示感謝いたします。