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なぜ、俺たちは孤独なんだろうか?
神は、俺たちを孤独にしかしない。なんで、こんな事たえなくては、いけないのですか?
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それは人間だからです。 他の生き物にはない考える頭が発達した生き物だからです。知恵があるからです。感じる心があるからです。 でもだからこそその逆も考えたり感じたりすることができるわけです。 うまくいっていなければネガティブなことしか考えないのは当たり前。うまくいっていればポジティブな考えになるのも当たり前。 真冬の湖の中に浸かってるという状況で「ギャーッ!アツッ!アツッ!熱いっ!アッツーい!」と感じたり考えたり思う人はまずいないはず。 ネットでこんな話を読んだことがあります。 ある若者Aがそこにいる老人に尋ねました。 「この街に引っ越してきたんですけどこの街の人々はどんな人達ですか?」 老人は答えました。 「前の街の人々はどうだったんだい?」と。 すると若者は言いました。 「もう酷い人達ばかりです。」。 そこで老人はこう言いました。 「そうか。残念だがこの街の人々もみんな酷い人達ばかりだ。」と。 次の日違う若者Bが来てその老人に話しかけました。 「今日この街に引っ越してきたんですけどこの街の人々はどんな人達ですか?」 老人は答えました。 「前の街の人々はどうだったんだい?」と。 すると若者は言いました。 「いやー、もう最高でした。いい人達ばかりでしたよ。」 そこで老人はこう言いました。 「そうか。安心しなさい。この街の人々もみんないい人達ばかりだよ。」と。 つまり孤独になるのもならないのも、良い関係を築けるか築けないかもあなた次第だと思います。
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- 日比野 暉彦(@bragelonne)
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こんにちは。 神がいるぢゃん? だって ★ 神は、俺たちを孤独にしかしない。 ☆ って言ってんだから。 神によって いまの《俺》があるって分かってんぢゃないの? もしそれがいやなら 神におさらばすればよいさ。 いやというほどののしって。神のばかたれえーっ!って。 そうすれば 神はこたえてくれるかも知れない。 ほんとの本気の気持ちだったら こたえてくれるさ。
お礼
わかりません。ありがとうございます。
- 雪中庵(@psytex)
- ベストアンサー率21% (1064/5003)
#1の者です。 簡単に言うほど、日常的概念=現象表面的に拘束され、 通俗的なものか、その反動に過ぎないものになります。 あえて現象的にいえば; この世界の真の孤独は 人に認められない事ではなく なぜここに居るかが解らない事である
お礼
わかりやすいです。その通りだと思います。孤独の恐ろしさを感じます。ありがとうございます。
- ks5518
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>神は、俺たちを孤独にしかしない。なんで、こんな事たえなくては、いけないのですか? そう感じているのは、貴方だけ。 他の人は違うのですよ。 だから、“俺たち”という表現はおかしい。 まして、神のせいではありません。 貴方の“宿業”によるものです。 ■精神論ではなくて、具体的事例があるのなら提示してください。
お礼
ありがとうございます。孤独だけは、真実だと思いませんか?
- 2080219
- ベストアンサー率32% (627/1954)
こんにちは。 これは、神社本庁が作成し、神社に張り出されているポスターの文言です。 忙中 閑有り。 苦中 楽有り。 死中 活有り。 壺中 天有り。 意中 人有り。 腹中 書有り。 甲寅正月 無以会同人 敬しんで呈す 亀井老契 座右 解説 安岡先生のことば。はじめの三つは『新憂樂志』の説明を引用する。 一、忙中 閑有り。 ただの閑は退屈でしかない。真の閑は忙中である。ただの忙は価値がない。文字通り心を亡うばかりである。忙中閑あって始めて生きる。 二、苦中楽有り。 苦をただ苦しむのは動物的である。いかなる苦にも楽がある。病臥して熱の落ちた時、寝あいた夜半に枕頭のスタンドをひねって、心静かに書を読んだ楽は忘られない。貧といえども苦しいばかりではない。貧は貧なりに楽もある。古人に「貧楽」という語があり、「窮奢」という語もある。 三、死中活有り。 窮すれば通ずということがある。死地に入って意外に活路が開けるものである。うろたえるからいけない。それのみならず、そもそも永生は死すればこそである。全身全霊をうちこんでこそ何ものかを永遠に残すこと、すなわち永生が実現するのである。のらくらとわけのわからぬ五十年七十年を送って何の生ぞや。 あと三つは、先生の『百朝集』の註を紹介する。 四、壷中天有り。 世俗生活の中に在って、それに限定されず、 独自の世界即ち別天地をいう。後漢書方術伝・費長房の故事に出ず。 五、意中人有り。 意中の人というと、恋人の意に慣用するが、 ここでは常に心の中に人物を持つ意。或いは私淑する偉人を、 或いは共に隠棲出来る伴侶を、又、要路に推薦し得る人材をここというようにあらゆる場合の人材の用意。 六、腹中書有り。 目にとめたとか、頭の中の滓(かす)ような知識ではなく、 腹の中に納まっておる哲学のことである ☆☆☆ ただ、漫然と日々を暮らしていては、あなたの感じているような感情に引き込まれてしまいます。 心は、外にではなく、内に向けてください。 ではでは。
お礼
ありがとうございます。
- 雪中庵(@psytex)
- ベストアンサー率21% (1064/5003)
量子論的世界像において、「世界(有限的存在性)は自己の認識に おいて生じている(自我仮説(時間の流れ)と時空仮説(空間の広がり) の相補分化)というと、『自分だけ?』と孤独になるかも知れないが、 その実、自己の必要(相補分化)として環境は派生しているのであり、 「孤独=肉体的自我」は、社会化における助け合い、自然環境における 物質循環の自覚化において、他我=愛によって生きる志向を必然に 持ち、その自己存在の本質に根差した意志は、助け合いによって 最大限の生を実現する事における最高の充足=最大充足を可能に するのである。 (そうした本質的共有を見失う時、肉体は環境から隔絶し孤独となる)
お礼
いつも、ありがとうございます。難しいです。やはり、難しい質問なんだろうな。
お礼
すごいです。ありがとうございます。