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運命?は変わるのか?

例えば8:00のバスに乗る予定だったとしよう。 しかし寝過ごして乗れなかった。 このバスは大事故をし、乗り合わせた全員が亡くなった。 この場合、運が良かったと考えるだろう。 もし、乗っていたら自分も大変なことになっていた。と が、しかしはたしてそうなのだろうか? 自分がもし乗っていたら運命は変わっていたのではなかろうか? つまり自分が乗る事により状況が変わるのではないだろうか? 事故は一瞬でおきたり、また一瞬で回避したりもできる。 1人乗客が増えれば、この一瞬がズレる可能性もある。 よって、事故はしていないかもしれない。 他にも、自分が入社しようとしていた会社が倒産したとする。 その会社に入社しなくてよかったと安堵する。 が、しかし自分が入社していたら、倒産してなかったかもしれない。 自分が入社する事により周りの状況が変わる。 すべての状況が変わる可能性がある。 よーするに、もし~だったら。というのは意味が無く、 運命?のようなものは変わるのではないだろうか? みなさん どーおもいます?

みんなの回答

回答No.9

自分の運命のカギは自分が握っていると思います。働かないでお金を使っているならお金は直ぐに底を付きます。 一生懸命に働いて、お金を使わないで居たらお金は溜まります。 今現在自分が取っている行動が、明日の自分を作っています。 運命に流されて『今の自分が不幸になってしまった。』という感想は許されないと思います。 努力をしても良くならない場合では、努力の方向性に問題があるのかも知れません。 幾等努力をしても自分の運命が良くならない場合には、その運命を受け入れるだけで『心は満足します』何故なら、最大限の努力をしたと言う満足感が在るからです。 要するに自分の考え方次第で『如何いう人生にも』意味も価値も見出し得るという意味です。 自分の運命に関しては『自分が切り開いている。』という現在進行形のままで墓場まで行く事が望ましいと考えています。

noname#174259
noname#174259
回答No.8

個人的には 1-大きな物事は決まっている 2-細かい物事は自由意思で変わる 人によって決まっている運命と自由意志のよって変わる%に違いがある そんな気がします。

noname#194996
noname#194996
回答No.7

「運命について考える」ということが意味があるかといえば、人間はそういう過去を意味なくいじくる思考実験の楽しみを持っているということで意味があるのかもしれません。 >よーするに、もし~だったら。というのは意味が無く、 運命?のようなものは変わるのではないだろうか? そうかもしれません。そうでないかもしれません。判りません。すみません。 私見ですが あーだったらどうなったか?こーだったらどうなったか? こういった思考ができるのだから、これを意味のある方法に変えればどうでしょうか。 人生において未来をいくつも選ぶことはできません。行ける道は普通たった一つです。 あーしたらどーなるか?こーしたらd-なるか? これを緻密にひんぱんにやれば、ひとはかなり満足のいく人生が過ごせるのではないでしょうか。でも、私を含めて誰もこういった面倒なことをしっかりとやりません。運命のままにながされていくのでしょう。

回答No.6

《よーするに、もし~だったら。というのは意味が無く、》と私も思います。 なぜなら、 1.『もし~だったら』と思っても、それは現実的にあり得ない話です。 2.現実に発生したこと以外のことが起きたかもしれないと思っても、確認も出来ません。   無意味です。 もしも1億円もらったら、もしも提出した答案が100点満点のトップ成績だったら、もしもイケメンで180cmだったら、もしも明日通り魔殺人でやられたら、もしも難病になったら、 もしも、、、、と考えるのが無意味なように、これは運命かどうかを考えるのも無意味です。 運命であっても、運命でなくても、なんら変わることはないのです。   今は、木下という名字だが、森下だったら、運命は変わるのか、血液型がB型だけど、O型だったら、運命が違うのか、そんなことを思っても、意味はないです。

noname#189751
noname#189751
回答No.5

暗い出来事に対して、人はとかく「運命」という言葉を使いたがるのだと思います。 「運命」という言葉でもって整理してしまおうとするのでしょう。 実際はどうなんでしょうね 死に直面するような急な出来事に遭遇した場合ですが その当事者には「運命」という意識はないと思います。 あくまで当事者以外の人の心の整理のように思います。 参考にですが 昔、私が友人と車の無運転免許運転をしていて、高い所から車ごと転落したことがありました(馬鹿なことをしたもんですが) その落ちてゆく間に思ったのは あ~これで死ぬんだな、と思いました。 まったく恐怖を感じなかったのが不思議でした。 気を失ってしまい、気が付いた時には、メチャクチャになった車の中で友人と重なり合っていました。 幸いかすり傷で済んだのですが、 死ななかったことも、生きていることも運命とは感じませんでした。 運命だった、とか 運命が変わった、とかいうのは 当事者以外の人の見方であり、心の整理や決め付けのように思います。 当事者における実際の運命は無い、と思います。 現実が変わりつづける事を、すべて運命というのは誤っているのではないでしょうか。

  • hekiyu
  • ベストアンサー率32% (7193/21843)
回答No.4

運命というのは変えられないから運命と称するのです。 そして、それが運命だったのかどうかは、認識不可能 です。 偶然の積み重ねに過ぎない、といっても同じ事です。 こういう議論をしているから、言葉遊びだ、と 言われるのです。 これは運命の問題、というよりもバタフライ効果の問題で はないでしょうか。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%82%BF%E3%83%95%E3%83%A9%E3%82%A4%E5%8A%B9%E6%9E%9C

  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.3

運命?は変わるのか? ○運命は確定していないというのが正しい見解ですね。 未来は確定していないということなのです。原因結果の連鎖で未来が決まりますが、原因結果の連鎖は個人と集団では違うということです。 一人の参加で集団の未来が変わるということでもあるので、ご指摘のように一人が乗ることで事故が起きないこともありうることですね。事故が起きたのではなく、乗らなかったから事故が起きたとも取れますね。 さて、何が集団の未来を決めるかは、集団の集合想念が決めるとしか言いようがないのですが、逆にいえば、集合想念が変われば未来も変わるということですね。 例えば、集合想念が破壊的であればそのような未来になりますが、もしそこに一人でも悪しき集合想念を覆すだけの力があれば、悪しき未来にはならないこともあるということですね。 車同士の事故ではもらい事故というものがありますが、決してもらっているのではなく、引き込んでいる、あるいは引き込まれているということが正しい見方ですね。つまり、相手が100%悪いことなどないのですね。むしろ、自分あるいは相手の強烈な悪しき想念に引き込まれたともいえるのですね。 大きな災害、天災も単なる自然現象ではないのですね。集合想念が大地に否定されたと見るべきですね。 つまり、あなたたちのような考えでは地上に住む意味がないということになるのですね。 何が悪いかを考えるよすがになりますね。単なる天災だから私たちは何も悪くないと考えるのでしょうが、それでは完全に地上から消え去るまで天災が来るということですね。 自分の心は自分にしかわかりませんから集合になるとわかりませんね。それゆえ、未来もわからないのですね。

  • foosun
  • ベストアンサー率12% (13/104)
回答No.2

運命っていうのは、後付けであーだこーだ言って物事の流れをこじつけてるだけだと僕は思います。 なので運命が変わったのだとしても、私たちはそれを認識できないと思います。

noname#182038
noname#182038
回答No.1

お早うございます。 {うん!」

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