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偶然=必然=運命???

ずっと考えていた事なのですが、頭の中がぐるぐるしてきたので、質問させて頂きます。 まず、タイトルにある3つの言葉の意味(定義)は、以下の通りです。 ・偶然・・・何の因果関係もなく予測していない事が起こること ・必然・・・必ずそうなると決まっている事 ・運命・・・生まれた時から定まっている、人の運 個人として全く落ち度がないのに、巻き込まれて被害者になる事ってありますよね。例えば、天災・事故・戦争などです。最悪の場合、命を落とされる方も多いのですが、ここで質問です。 1:こういった場合あなたなら、(生死に関わらず)その原因は「偶然・必然・運命」のどれに当てはまると思われますか?お答え頂けるのであれば、なぜ、そう思われますか? 2:「世の中に偶然はない」という言葉を信じますか?   具体的に、そう思った出来事などはありますか? 私は、「偶然・必然・運命」というのは、言葉やそれぞれの意味は違っても、もしかして同じ事なのかなぁと思い始めています。偶然が世の中になければ、全ての出来事は「必然的」に起こっている事になりますよね?その「必然的」に起こっている事柄の中にいつもいる私達は、それが「運命」なのでしょうか・・・。 この辺りで、頭がぐるぐる状態です(-_-;) 上手く伝えられないのですが、皆様の考えや意見をお教え下さい。私は哲学の専門家でも何でもありませんので、直感的な回答でも構いません。色々な意見を聞きたいです。

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  • ベストアンサー
  • aster
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回答No.9

  存在世界の事象・できごとの生起は、どういう法則によって決まっているのか、というのは、存在世界の側で規定されているのだとも言えるのですが、他方、哲学的には、主観がこの「法則」をどのように把握するか、把握のための「概念」の展開によって見え方・捉え方が違って来るのだとも言えます。 詳論できませんが、事象の生起の「法則」についての主観つまり人間の主体精神の側の「概念の発達」によって、世界の事象生起の見え方が違って来るということです。ここで、「偶然」「必然」「運命」というような、法則概念の前提に、「主体の自由意志」という概念が重要な意味を持つのです。 原始人や幼児がそうである、そうであったと考えられるのですが、初期には、主体の自由意志の発動というものは意識されていないのです。世界の事象の生起は、舞台の劇を見ているように勝手に流れているのであって、自分もその劇に登場していても、自分が何かをしようとして、話やできごとが進行するのではないのです。 こういう捉え方は、偶然でも必然でも運命でもないのです。そこに世界が自分も含めてあって、展開しているという状態です。原始偶然とも、原始必然とも、原始運命とも呼べるのです。 ところが、主体が主体的に、何かを希望し意志し、そのように世界の事象や自己に関係ある何かの状態を、希望の方向へ、形へと展開を望んだとき、展開を意志した時、ここから偶然とか必然という「概念」が成立するというか、主体精神に把握されてくるのです。 「必然」という概念は、比較的、後になって把握されてきます。「自由な志向意志」に対する「抵抗」として、「偶然」と「運命」が把握されるのです。 さいころを投げて、特定の目が出るように意志しても、自由に出る目を決めることができないのです。また、狩猟にでかけて今日は大きな獲物が欲しいと思っても、希望や意志の通りにことが運ぶとは限らないのです。有名大学に入学したいと希望しても、意志の思い通りにはなりません。 このような希望や意志の思い通りにならない世界の事象の生起の法則というか、ありようを体験すると、これを把握・解釈するのに、最初に「偶然」という観念ができるのだとも言えます。入試が成功するかしないかは偶然だと考えるのです。 しかし、意志に抵抗する偶然の事象生起について、そういうことが起こるという事実に意味を見出そうとすると、偶然であるが、それは「意味あることなのだ」とすると、これは「運命」なのだ、ということになります。戦争に勝つも負けるも時の「運」だという把握です。神が偶然のさいころを振って決めているのかも知れないが、それは我々には「運命」であるという把握です。 しかし、事象の起こり方を色々経験し観察もしていると、偶然だと思ったことが、実は、規則性があるということが分かります。例えば、温度や風の具合によって、獲物の収獲に違いが出てくることが分かると、獲物とする動物の行動に、ある規則性があることが分かります。熟練の狩猟者は、こういう規則性を利用して、自己の希望や意志を実現するのです。技術的応用とも言います。 また雨や晴れや暴風などは、偶然に、でたらめに起こったり止んだりすると最初は考えるのですが、そこにまた規則性が発見されます。世界はでたらめに生起しているのではない、という考えが出てきます。起源がよく分からないが、ある「必然」で動いているように思える、という把握をしたとき、「必然」の概念が生まれるのです。 必然は、意志や希望に抵抗することもあるのですが、必然の規則性を利用して、意志や希望を実現することもできるのです。ある季節のある時刻頃には、大風が吹くというのは、必然で、意志では、この風を止めたり、遅らせたりできないとしても、この風を利用して、狩りを有利に行い、獲物を獲得できるというようなことが可能になるのです。 大学の入試は、テストがあって、それである一定の点数を獲得しないと合格できないのです。これは意志に抵抗する必然条件だとも言えます。幾ら祈祷したり、神に祈ったり、「必勝祈願」だとか考えても、必然条件に合わないと、入試には落ちます。 しかし、逆に、試験問題を調べ、その種類の問題を解く練習を繰り返し行い、大学受験塾などで、入試試験問題に対し十分に準備すると、試験で一定の点数を取ることができ、合格できます。点数で合否が決まるという必然法則に対し、意志の技術的応用で、必然があるので、それに準拠して、成功の方法が分かるということになります。 しかし、入試は、合格最低点数があると共に、獲得点数の上位から200人とかを合格にしてゆくという必然システムもあり、ある年度の入試では、獲得点数で合格できたのが、同じ獲得点数の実力なのに、もっと点数を取る受験生がなぜか、入試に加わって、200人の外に押し出されて不合格ということも起こるのです。 入試システムの必然に応じて、可能な準備をして、入試に臨んでも、合格するかどうかは、ときの運、あるいはその年度の偶然によるという事態も生じるのです。 こうして、世界の事象の生起について、「自由意志」への抵抗として、「偶然」と「必然」があり、偶然と必然を技術的に利用して、意志の希望を実現しようとする人間の知恵の展望には、実は、「未来の成り行きの先取りヴィジョン」というものがあるのです。 システムの「必然性」は、未来のヴィジョンを築くのに有効なのです。こうすれば、こうなるという必然法則・因果法則があれば、未来がどうなるか予測できるのです。しかし、偶然という要素が、予測を不完全にします。偶然はさいころを投げるようなことで、結果がわからないのです。 ここで、未来のヴィジョンを前もって展開できるという人間の未来展望能力から、「未来と時間経過の結果」についての、「背後に隠れている構造」を構想した結果の「把握態度・構想態度」という精神の態度が出てくるのです。できごとの生起について、「楽観的」か「悲観的」かというような態度がありえるでしょう。 結局、あらゆる知力、知識を尽くして、未来を予測しようとして予測できないとき、未来に対し、「すでに定まっている」という把握態度を取るか、「定まっていない」という把握態度を取るかです。これは、知識を超越した次元での世界の隠れている構造要素・原理が問題となっているのです。 この把握態度と、「意志の能動性の態度位相」というものが交錯すると、未来展望に幾つかのヴァリエーションが出てくるのです。「既定+能動意志」の場合、能動意志を含めてすでに決まっている運命である(積極的運命従属)。「未定+能動意志」の場合は、決まっていない未来を、意志で切り開こう(積極的運命開拓)。「既定+消極意志」では、運命の前、なすすべもない(消極的運命従属)。「未定+消極意志」では、未来は分からないので、なるようになるしかない(意志放棄運命従属)。 >個人として全く落ち度がないのに、巻き込まれて被害者になる事ってありますよね。例えば、天災・事故・戦争などです。 1)「巻き込まれた」という限りは、「偶然に巻き込まれた」のであるが、巻き込まれた事実において、それは「必然」である。ただし、予見でき回避できた場合は、「必然」とは言えないでしょう。回避しようと思ったが、偶然巻き込まれたか、回避の努力も空しく巻き込まれた、という場合、「必然」ではないでしょう。巻き込まれざるを得なかった場合、必然です。 それを、「運命」とするかしないかは、或る意味、意味のない問いとも言え、未来が既定の場合も、未定の場合も,両方とも、そういう運命だという把握は可能なのです。「運命などない」というのは、意志によって運命を切り開けるというヴィジョンです。 従って、この問いの場合、それは「運命」であった、ということになります。人生のあらゆるできごとは、偶然も必然も含めて、運命だと言えるからです。 2)「世のなかに偶然はない」ということはありません。偶然が一杯あります。さいころの例になりますが、さいころを振って出てくる目が、何であるか、神か悪魔か天使が、一々決めているとは考えがたいので、偶然で決まっているとするのが自然でしょう。 ただし、人生のヴィジョンにおいて、人間の意志や知恵や策謀を超えた彼方で、何ものか人知を超えた法則で、人生の運命は決まっているという展望をした場合、「世のなかに偶然はない」ということになります。これは、そういう事実・事態が「ある」というより、人間の側の認識・把握の問題です。 「世のなかに偶然はない」ので、それゆえ、何を試みても無駄だという考えにもなれば、そうであるが故、運命を切り開いて、未来を切り開くのだ、という考えにもなるのです。 「偶然はない」ので、意志しても、定まった運命は変わらないとも感じられれば、「偶然はない」ので、意志すれば必ず道は開かれる、失敗した場合は、努力が足りなかったのだ、と両方出てくるのです。 人生について、偶然、必然、運命というようなことを考えると、先に述べたように、予測・予見できない次元でのありようが問題になってきて、それをどのように見積もり、意志的に展望するかで、偶然、必然、運命というのはぐるぐる回って行くのです。 一切は必然だと展望すると、そのように展望した世界の運命は、何ものかの気まぐれによる偶然に支配されているとも考えられ、更に、そのような何ものかの気まぐれも、また必然で、偶然ではないのだ、という風に、幾らでも、予見できない次元の決定項について、偶然と必然を入れることができるのです。 わたしは、「運命を切り開くことのできる人間」というヴィジョンが好きです。わたし個人は、力尽きて倒れようと、人類は、その運命を切り開き、星々の未来へと到達するであろうと、展望しています。逆に言えば、経験として、わたし自身について、自己の運命を切り開くのは難しいと痛感しているということです。 しかし、どこまでも希望と意志は持ち続けて行きたいと思っているのです。  

sakura-77
質問者

お礼

回答、ありがとうございます。具体例をいくつも挙げて詳しく回答頂き、感謝致します。 asterさんの回答の中で、「主体の自由意志」「概念」という事について初めて考えました。ちょっと難しい部分もあったのですが、偶然・必然・運命に関して、少し理解が深まったように感じています。 私も、「運命を切り開く」という言葉自体が好きですし、そういう人間になりたいです。希望と意思を持ち続け、運命を切り開いて行きたいですね。哲学も、ちょっと学んでみたい気分です。

その他の回答 (16)

noname#15238
noname#15238
回答No.17

偶然でしょうか? 私も「偶然の哲学」と言うタイトルで、偶然と必然の関係について質問しようと考えていました。 しかし、以前にも、質問内容を検討しているうちに、検討中の質問と同様の質問が発せられたことがあります。質問内容をだらだら検討して質問を躊躇していれば、他の方から同様の質問が発せられるのは必然かもしれません。 偶然と必然に疑問を持つ人は、私たち以外にも多くいるのかもしれませんが、それでも、sakur-「77」さんと、fishbowll「66」が、同じ時期に、同じ疑問を持ったことの因果関係は説明できそうも有りませんね。 回答  1 運命にあまり感心がありませんのでお答えできません。 2 信じません、「世の中は偶然で出来ている」といった、廃頽的でいい加減な精神の持ち主です。 お礼が大変でしょうが、私のつまらない回答にも、一言お礼を下さい。(笑

sakura-77
質問者

お礼

回答、ありがとうございます!私と同じ疑問を持っている方がいる、という事実に驚きです(*_*)こんなコト考えるのって、私だけなのかなぁ、と思ったりしたものですから・・・(^_^;)それも同じ時期に、HNに数字のぞろ目が入っているという共通項をお持ちの方が、という事で、これはまさに「偶然」!? そして、2つの質問にもお答え下さり、感謝致します。 >「世の中は偶然で出来ている」 と捉えるのも、ステキな事だと思います。 でも、偶然・必然・運命といった事を根っこから考えるのは、そう容易ではないかもしれませんね(^_^;) fishbowl66さんの回答、つまらないなんて事ないですよ!とても参考になりました(^o^)丿

  • H_hoko
  • ベストアンサー率14% (1/7)
回答No.16

●なぜ量子力学の不確定性原理が必要なのか?  について着目しなければなりません。  量子力学に於ける 素粒子の存在は現在の科学では  特定不可能なのです。ですから確立もしくは  存在の確定している範囲を求める考え方として  量子力学の不確定性原理は 登場したと考えられます。  つまり 不確定なものを確定というワクにはめる  巧妙な手段なのです。  確かなものは 確かなものにより構成される。  確かなものにより構成されたものは 必ず確かなものになる。  不確かなものは 不確かなものにより構成されている。  不確かなものにより構成されたものは 必ず不確かなものになる。  ↑この簡単な原理が見えなければ 必然・偶然という  概念を把握することはできません。  また哲学とは 過去の論理や概念の踏襲ではなく  自分でその先を考えることにほかなりません。  ただの踏襲だけだは その文献を読んでいるほうが  まだましです。 次を見るために どうあたらしく  考えを起こせるか そこに意味があるのです。

sakura-77
質問者

お礼

またまた回答を頂き、ありがとうございます。 量子力学や不確定性原理については分からないのですが、哲学は深くて難しいですね・・・。私が偶然や必然を考えるには、基礎としてちゃんと哲学を勉強してからの方が良かったかなぁ、と思います・・・(T_T)

  • aster
  • ベストアンサー率70% (374/533)
回答No.15

  哲学は、様様な考えや価値観に基づき、どの考えが正しいということは判断することが難しいヴィッセンシャフト(学問)です。しかし、例えば、哲学史上の学説について、間違ったことを言えば、それは「間違い」になるのです。カントの物自体の考えについては、色々な解釈が可能ですが、しかし、その「色々な解釈」は、カントの哲学の惑組みを理解した上で、解釈されるものです。 違う立場から、カントの哲学は間違っているという主張は,哲学では可能です。しかし、カントの哲学は何か、と述べる場合は、カントが述べていることを勝手に歪曲することは間違いになります。 それと同様に、例えば量子力学の理論が主張しているのは何かについて、色々な解釈があるのですが、観測事実を元に築かれた量子力学について、「解釈問題」というのは物理学ではありますが、この解釈問題は、量子力学の理論と、その理論の前提になった観測事実を理解した上での話です。 量子力学の理論前提の観測事実については、これを否定するものは現在のところ見つかっていません。恐るべき精密な実験を行い、観測事実にずれがあるのではないかという研究はいまでも行われていますが、量子力学の理論前提を覆すような観測事実は出てきていません。 何よりも、量子力学とか不確定性理論について言及するのに、言及しているものが何か知らないで勝手なことを主張するのは、哲学考察であっても許されることではありません。 量子力学についての別の解釈を主張するのには、量子力学の理論構成を理解していなければなりません。理解もしていないのに、量子力学での解釈結果は違っているのだ、というような主張はおかしいのです。 > 素粒子のレベルでたとえば その位置が不確定であることは > 物事が必然でないことの説明にはなりません。 > 不確定であっても 時間の最小単位において > 存在する位置は 必ず現実としてあるわけで > その位置が いまの科学で特定できない性質のもので > あるから不確定としているだけなのです。 時間の最少単位というものは、あると考えられていますが、それはもっと錯綜した話で、時間、空間、物質のあいだの相互関係が、日常世界でのそれとは、まったく別の想像もできないような奇妙な構造であるということを前提にして理論構成が仮説として立てられています。 そのような理論仮説には、量子力学の妥当性が前提としてある訳で、量子力学の不確定性原理の意味が、無効になるというような、理論的見こみは主張されていません。 素粒子を、「粒子」と考え、時間の最小単位の「瞬間」においては、ある特定の位置に存在し、ただ、それが現在の科学が不完全であるので、人間には分からないのだ、というのは、量子力学についての端的な無知を示していることに他ありません。 素粒子あるいは量子とは、そういうものではないのです。日常の物体についての経験を元に、量子力学の理論構成について疑義を呈するのは自由ですが、「そうではない」と主張するには、まぜ、否定している量子力学を理解していないといけないでしょう。 > 不確定であっても 時間の最小単位において > 存在する位置は 必ず現実としてあるわけで そういうものは、「ない」のです。素粒子というものを、「非常に微小な粒子」だと考えているということが、すでに、量子力学も素粒子物理学も理解していないということを示しています。これでは、19世紀以前の古典力学の物質観・宇宙観の話です。 観測精度が、十分に正確でないので、誤差のために、観測対象の位置などが、確率的に、空間に分布するということはありえます。この場合、十分な精度を持って観測すれば、誤差は限りなく小さくできるはずで、粒子は、必ずどこかの点に存在するが、観測技術が未熟であるので、あたかも空間に確率的に分布しているように「見かけ上」見えるというのはあります。 量子力学において、アインシュタインが、「神はさいころを投げない」というようなことを述べて反対したものの、量子現象について、その主張を反映した彼独自の妥当な理論を構成できなかったのは、量子力学の理論が、非常に強固に確認された理論だということで、上に述べた,観測技術の未熟さゆえに起こる、粒子位置の不確定性とは、まったく別の物理学的事態が量子の現象なのです。 > 不確定であっても 時間の最小単位において > 存在する位置は 必ず現実としてあるわけで もう一度強調して言いますが、そういうものは「ない」というのが、量子力学の理論前提で、また理論から出てくる当然の結果なのです。「コペンハーゲン解釈」は、以上のようなことを述べているように思えますが、しかし、「確率波動関数」を、量子・粒子は必ず伴っているのです。 「コペンハーゲン解釈」は、素粒子を、あくまで「非常に微小な粒子」と考えるのですが、その存在位置については、時間の最小単位を仮に仮定しても、波動状態においては、「どこに位置するのか分からない……どこか特定の位置にあるのではない」とも主張しているのです。「分からない」だけではなく、本質的に「どこか特定の位置にはない」と主張しているのです。 「コペンハーゲン解釈」に対しては、なお疑問がありますが、量子現象を理解すると、コペンハーゲン解釈が、まだ分かり易い説明で、その意味で、上記の主張は、量子力学について、まったく分かっていない人間が、自己の思いこみや、勝手な独断主張をしているだけで、物理学的に見せかけた、臆断をただ論じているだけなのです。 物理学における因果律の問題は(これが、物理学の必然や偶然の問題なのですが)、物理学の理論構成を理解しているということが前提で、日常世界の延長を、幾分精密に表現した古典力学の因果律の話と、現代の物理学の因果律の話は別なのです。 物理学的な不確定性が、別の原理によって補完されているという可能性はあるのですが、その場合、物理学について言及するなら、それを理解した上で、補完作用の存在の余地を主張すべきでしょうし、物理学を理解できていないのであれば、日常レベルでの因果についての考察に限定して行うべきでしょう。  

sakura-77
質問者

お礼

再び回答頂きまして、ありがとうございます。 私には高度な内容で難解なのですが、哲学は完全に文系の学問という訳ではないのですね。 私は、哲学=文系だと単純に思い込んでいたのですが、皆さんの回答を拝読して、理系の学問とも深く繋がっているのだなぁ、と驚きました。もっと色々勉強してから、ここに質問した方が良かったかな、とちょっと反省しています・・・。

  • H_hoko
  • ベストアンサー率14% (1/7)
回答No.14

●宇宙の摂理が不確実なものを含んでいないと  明言することはいたしませんが。  かなりの部分は わかってきているのが現実でしょう。  膜宇宙論は いま建設中の加速器での実験で  証明されるとも言われ その折には宇宙の真理が  見えることにもなると言う方もいらっしゃいます。    わたしが 声をおおきくして言いたいのは  宇宙云々 摂理云々 以前にいまこうして見ている  地球の自然 星空のなんと美しいことか?  ということです。つまり 自然・宇宙というものは  確かな摂理によって成り立っているとしか  考えようがありません。不確かな要素は微塵も感じられない  そのような感じがしております。つまり宇宙は必然の  内に時間と共に変容している感じがします。  お暇なら 参考URLをご覧ください。

参考URL:
http://www.hokuriku.ne.jp/cyan/science_1.html
sakura-77
質問者

お礼

何度も回答を頂き、ありがとうございます。URL、拝見しました。「宇宙理学」、初めて聞く言葉で、こういう学問があった事を知りませんでした。お恥ずかしい限りです・・・。 途中まで読んで頭がクラクラしてきたので、まだURLの内容全ては読んでいないのですが、必然や偶然のお話が、こんなに広がりを持つとは驚きです!私はまだまだ勉強が足りませんね(-_-;)

  • dd44
  • ベストアンサー率28% (151/521)
回答No.13

議論をする場でないことは分かっているのですが、すみません。 アナログ、デジタルというのはこの議論では一つのポイントですね。つまり、現実がアナログか、そうでないか。 最小単位の時間、最小単位の位置と言うものが存在するのかどうか。これによって「偶然」が本当の意味で偶然なのかどうか、が決まってしまいます。 H_hokoさんは、「最小単位の時間、最小単位の位置」が存在する、とお思いのようですが、僕は現実はどこまで行ってもアナログだと思っています。つまり、位置も、時間もどこまででも際限なく小さく分けられる。 「いずれ人間は最小単位の時間における最小物質の位置も特定できるでしょう。」と書いていらっしゃいますが、どうなんでしょうね。「じゃあ、その中間は?」と、堂々巡りのような気がします。 そして、H_hokoさんの考える「宇宙の摂理」って言うものは、不確実性を含んでいないものでなくてはならないと言う前提で話をしているように思えるのですが。どうなのでしょう。「宇宙の摂理」そのものが不確実性を内包していてはいけないのでしょうか?  事実から真実を見つけ出すのが科学であって、前提を最初に決めてしまっては、正しい答えは得られないと思いますが。 ・・以上。このサイトの趣旨からはずれてしまっているのでここまでにします。不躾ですみません。物理学の専門でもなく、浅はかな知識での回答ですので、間違いがあればご指摘お願いします。

sakura-77
質問者

お礼

再びの回答、ありがとうございます。皆さん、哲学を学ばれた経験のある方のように感じてしまいます。 私は、自分がぐるぐる考えていた事が、「哲学」の部類に入るという事に気付いたばかりのビギナーなので、アナログ・デジタルという捉え方が出来ない上に、ちゃんと理解が出来ていません(T_T)それ故、この件に関して私がキチンとした自分の考えをお伝えする事が出来ず、申し訳ございません。私が思っていた以上に、色々な分野と「哲学」は繋がっているのですね・・・。

  • H_hoko
  • ベストアンサー率14% (1/7)
回答No.12

●不確定性原理について 考察  素粒子のレベルでたとえば その位置が不確定であることは  物事が必然でないことの説明にはなりません。  不確定であっても 時間の最小単位において  存在する位置は 必ず現実としてあるわけで  その位置が いまの科学で特定できない性質のもので  あるから不確定としているだけなのです。  つまり 問題なのは位置や時間というものが  デジタルであるか否かなのです。  サイコロはアナログだと思われている事象を1~6という  数字のデジタルに置き換えることにすぎません。  つまりアナログが存在するのであれば そこに予期できない  変換があるわけで 置き換える元がデジタルであるならば  単に対応させるだけですから すべては予期できるわけです。  素粒子の位置が不確定であったとしても 現実の時間の  最小単位においては 確定しているわけで  その意味で 世界がデジタルであったとしたら  全ては必然であると言うことが可能なわけです。  人間にとって必然・偶然を語るのであれば  ひとそれぞれ 現象の分析・解釈次第です。  わたしは 宇宙の摂理として宇宙のあらゆる事象は  必然なのか それとも偶然を含んでいるのか?  を考察しているわけです。不確定性原理が正しいと  いうことは 想像に難くありません。  なぜなら 宇宙の全てのものは正弦波の振動であると  わたしは考えるからです。しかし振動もアナログでは  ないようです。最小の真空の場の質の違いの移動こそ  最小の正弦波の正体です。いずれ人間は最小単位の  時間における最小物質の位置も特定できるでしょう。  しかし その未来に於いても宇宙の摂理の中に  居るにすぎないのです。それは宇宙という必然を  かいまみる瞬間なのかもしれません。  

sakura-77
質問者

お礼

三度、回答ありがとうございます!私が今まで考えもしなかったコトばかりで、改めて考えてしまいます。 >ひとそれぞれ現象の分析・解釈次第 で人間は必然や偶然を語れる、というのはハッキリ分かってきました(^o^)丿

  • dd44
  • ベストアンサー率28% (151/521)
回答No.11

まず、心に留めておいて欲しいのは、「偶然」「必然」「運命」ともに人間が作り出した言葉であり、概念であるので、必ずしも、実際の事象と一致しているとは限らないし、それぞれの意味が排他的なわけでもありません。  つまり、物事の見方によって偶然とも言えるし必然とも言える、なんて事はいくらでもあるわけです。・・・というか、極論してしまえばどんな物事もすべて「偶然」「必然」「運命」のどれでも説明できてしまいます。 例は・・分かりますよね。省略。 **たとえば今、コインを投げてたらそれが床に落ちる。 これを運命、必然、偶然で説明(描写)しようとしたらどれでも出来てしまいますからね。たとえば、「コインが落ちるまで、偶然誰もキャッチしなかったし、偶然何も障害物がなかった」わけですから。 それは、言葉と概念の話。 でも、じゃあ、すべての物事はあらかじめ決められているのかという問いは、どちらかというと、物理学的な話になります。 ラプラスの魔という話をご存じでしょうか。 [http://www2.plala.or.jp/kamkamkam/gimon6/gimon66/275.htm] これは、むかし、数学者のラプラスと言う人が言ったことで、つまり、「世の中の物質の動きはすべてニュートンの物理学法則に従っている。いまは、それがあまりにも複雑で大まかな予測しかできないが、もし、すべての物質、原子の動きを把握することの出来る悪魔(ラプラスの魔)がいたなら、世の中のすべてを予知し、未来まで把握しているだろう」 ・・と言うものですが、これはじつは現代では否定されています。物質の原子よりさらに小さいレベル、素粒子などのレベルでは不確定性原理と言うものが働き、それらの動きと言ったものは、確率でしか記述できないというのです。(観測していること自体が、その物質に影響を及ぼしてしまうため。) つまり、この世は、大まかな確率での予測は出来ますが、実際はこれから何が起こるのかは未確定である、と言えます。 もし、5%でも未確定な部分があれば、「カオス理論」(蝶の羽ばたきほどの小さなきっかけが数千キロ離れたところで台風を引き起こす可能性を生む)とのかねあいで、ほとんど全く未確定だとも言えますしね。 (けれど、数秒後に人類が全く居なくなってしまうほど、未確定ではない。) でも、やっぱり生きていたら、これは運命だよな~。とか思うことは往々にしてありますが。

sakura-77
質問者

お礼

回答、ありがとうございます!「ラプラスの魔」、恥ずかしながら全く知りませんでしたので、URL拝見しました(-_-;) 偶然・必然・運命が、物理学と繋がっているなんて、思ってもみませんでした!驚きです★物事の味方によって変わる、というのも理解出来ます。しかし、言葉と概念以外に、物理学的な要素もあるとは・・・。深いですね・・・。

  • H_hoko
  • ベストアンサー率14% (1/7)
回答No.10

●まず 人間の精神は必然です。  その構成要素である ニューロン・電流・時間が  すべてデジタルである可能性が高いからです。  つまり きまぐれで何かを行っていても そうする  脳内の処理は ちゃんと決まっているということです。  さてサイコロの出目については どうでしょう。  構成要素の力というものが アナログな可能性が  ありますが 実際に動くサイコロも空間も時間も  デジタルなわけですから 実質的には  サイコロに与えられたモーメント・ベクトル・  ころがるテーブルの表面の状態などすべてが  分析可能な範囲にあることが わかります。  したがって サイコロの出目は必然であると言える  可能性は 高いと思うのです。 ただし サイコロに  あたえられた最初の力が アナログであったならば  空間の最小単位を進むのに そのアナログをどのように  デジタルに置き換えるのか?という疑問はのこります。  その点に於いて 偶然を含む可能性も否定できません。  わたしの感ですけれども サイコロの出目は たぶん必然だと思います。  人間の精神は 宇宙の摂理の部分集合でしかなく  映画「アキラ」のアキラのように たとえあたらしい  宇宙を作れたとしても それすら宇宙の摂理の中の  できごとなのです。人間がどのように あがき苦しみ  もがいても 所詮宇宙の摂理のなかの必然にすぎません。  もし 宇宙の摂理をこえた「モノ」を作りだせたなら  そこに偶然は 存在する可能性はあるとおもいます。  また「究極の運命」を変えれる可能性はあると思います。  しかし いまだそれができた人はだれもいません。

sakura-77
質問者

お礼

再びの回答、ありがとうございます!私には、アナログ・デジタル、という捉え方がまだ難しいのですが、全ては「宇宙の摂理の中の必然」という事でしょうか。うーん、なるほど・・・。

  • nyozegamon
  • ベストアンサー率45% (895/1969)
回答No.8

1.すべての現象は、その原因が必ずあって「必然的」に起こります。 全知全能の神であれば、その原因を把握できますが、人間の知能では何が原因であるか分からない事が多すぎますね。その場合、一般には偶然に起こったものとみなされます。しかし、現象の発生そのものは必然と思われます。 2.信じます。 運命とは本来、自由に変更可能なものです。 しかし、最初から定まっていると思っている人にとっては、それは変えられない宿命のようだとも言えます。

sakura-77
質問者

お礼

回答、ありがとうございます!とてもシンプルながら濃い回答で、私にもスッと理解出来ました(^_^;) >現象の発生そのものは必然 >運命とは自由に変更可能 というnyozegamonさんのお考えは、共感出来る部分があります。 >最初から定まっていると思っている人にとっては、それは変えられない宿命のようだ これも、そう言えますね。過去に似たような言葉を聞いたのを、今思い出しました。

  • Conall
  • ベストアンサー率33% (7/21)
回答No.7

まず問題設定がちと詰めが甘いので、混乱しているのだと思います。(以下引用文はgooの国語辞典からです) 偶然:事象の因果系列に対して、それに含みえない事象または因果的に予測できない事象が生起すること。 必然:必ずそうなると決まっていること。それ以外になりようのないこと。また、そのさま。 で、ここで問題になるのが、「必ずそうなると決まっていること」ってなによ?ということです。なにによってきまっているのでしょう?「因果系列」ですね。もっと簡単にいえば、「因果法則」ですね。つまり、科学的ルールや宗教的ルール、哲学的ルールによって、場合によっては個人の主観に基づくルールによってきまるということになります。つまり、”そのときどきによって決定するルールが違うので、「必然」は普遍的にきまったものではない”のです。 では、「偶然」はどうでしょうか。因果論自体がきまったものではないので、「偶然」の範疇もその時々で変わってきてしまいますね。 つまり、「偶然」v.s.「必然」には、前提として共通するルールがなければ議論自体が崩壊してしまいます。よって、以後の回答はすでに挙げた角度からお答えします。 「運命」ですが、これは他の2つとは次元が違うものです。宗教的、主観的ルールにおいては存在しえますが、これは科学的ルールにはないものです。よって、運命については宗教の研究(哲学はキリスト教前提であることをおわすれなく。)の勉強をしてみるといいと思います。ということで、とばします。 1:「こういった場合」を交通事故による死、と仮定します。 科学的ルール→交通事故による死は毎年コンスタントに出ている。よって、これによる死はさまざまな要素のデータを無視したとしても可能性としては当然あるものです。よってただ単にその交通事故死の1例になっただけで、交通事故死自体は必然。交通事故死の一例になったこと自体は偶然。 宗教的ルール→宗教によって違うのでなんともいえませんが、それまでの行いによって当事者が死んでも当然とされた場合は必然。どう考えても死ぬにはあたらない場合は偶然。 2:「世の中に偶然はない」 偶然が普遍的に定義できないために、この言葉自体が意味をなしていない。 仮にあるとするならば、主観的ルール、宗教的ルールによって決定された因果律によって、すべてが説明できる、という自信の表明程度の意味があるだけ。 まぁ、そう思うこともあるにはあるんですけどね。 結論:共通するルールを決定しない限り、「必然」と「偶然」の対立は存在しえない。「運命」は宗教的、主観的ものであり、「必然」と「偶然」の対立と、必ずしもかかわるものではない。 です。 参考になったでしょうか・・・(汗

sakura-77
質問者

お礼

回答、ありがとうございます!問題設定の詰めが甘いコトも教えて下さり、感謝致します。 >その時々によって決定するルールが違う というのも、「なるほどなぁ」と思いました。2つの質問に対する回答も、理解出来ました。私が問題提起した言葉の裏には、「ルール」が存在していたのか!と思いました。 余談ですが、私は哲学に特別な興味もなかったのですが、この件以外にも最近ぐるぐると考えている事柄は、哲学の類のようだ、と気付きました。これをきっかけに、哲学や宗教の本を読んでみるのも、理解を深める手段になるかなぁと考えています。