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江戸城 登城日の交通整理
月次登城にせよ式日の登城にせよ、大手門前やそこに通じる道路は大混雑したと思います。 そこでお聞きしたいのですが、 1.登城日、大名・小名・旗本等は、全て「大手門」から入ったのですか。 2.混雑によるトラブルを避けるために、何らかの規制や慣習はありましたか。 なにしろ典型的な階級社会ですから、上位者には道を譲るとか、下位の者は早めに登城するとか…。 3.記録に残っている事件はありますか。 よろしくお願いします。
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こんにちは。 私は、自称「歴史作家」です。 >>1.登城日、大名・小名・旗本等は、全て「大手門」から入ったのですか。 「親藩」、「御家門」、「譜代」大名は「大手門」。 「外様」は「内桜田門」(桔梗門)と決められていました。 >>2.混雑によるトラブルを避けるために、何らかの規制や慣習はありましたか。 当然ありました。 大名は登城の際、槍を先頭、または、籠の側面に配して行進をしましたが、その槍の数や槍に被せてある各家の紋様を見極めて、家格が上位の籠が停止するまで足踏みをして待機しました。 そして、籠の行列は、市中であっても城付近であっても、「絶対に止まってはならない」という決まりがありましたので、足踏みをしながら待ったのです。 >>3.記録に残っている事件はありますか。 特に記録に残る混乱はありませんでした。 (よもやま話) 1.それぞれの門の手前の橋には「下馬所」の立て札があり、基本的には、ここで下馬または駕籠から降りました。ただし、格式の高い大名や老齢で幕府の許可を受けた大名は、その先の「下乗橋」の手前にある「下乗所」まで駕籠に乗ったまま入ることができました。 加賀の前田家だけは、「下乗所」でも、一番「下乗橋」の近くが確保されていました。御三家はさらに進んで「中雀門(ちゅうじゃくもん)」まで駕籠を乗り入れました。 http://www.viva-edo.com/edojou.html 2.大名の玄関 格式により決まりがありました。 御玄関・・・・正式な玄関で、「表大名」と「溜之間詰大名」。 中之口・・・・奏者番、寺社奉行などの役職者。また、役職ではないが「半役人」とされる「雁之間詰大名」「菊之間縁側詰大名」。 御納戸口(別名・老中口)・・・老中、所司代、大阪城代、若年寄りなど。 御風呂屋口・・・御三家とその家老、中奥役職者。 大名が玄関を入ると300人ともいわれる「表坊主衆」がお出迎えをし、坊主たちと懇意にしている大名を、それぞれの部屋まで案内をした。 殿中は、複雑な間取りとなっており、一人では自分の詰め所まで行けなかった。 3.お供の人数 格式により、ある程度の決まりがありました。ただし、正確に記した史料は乏しいのですが、一例として、伊予(現・四国の愛媛県)吉田三万石の伊達家(宇和島伊達家の分家)の記録によると、文化13年(1816)閏(うるう)8月15日に当主の宗翰(むねとも)の登城では、当時は伊達家も経費節減を強いられ「倹約中」でしたが、士分8人、徒(かち=徒目付を含む)6人、道具持ちおよび小者53人、計67人、とあります。ここから推測すると、十万石前後では50~100人位だったと考えられます。 おもしろいところでは、広島藩主浅野長勲(ながこと、または、茂勲(もちこと、とも呼ばれた。かの有名な赤穂浅野家の本家)の逸話では、浅野家の上屋敷(現・霞ケ関付近)を出た先頭が「下乗所」に到着したが、最後尾はやつと上屋敷を出たくらいだった、そして、行列を「切り」と称して1~2箇所隙間を開けてやり、町人たちが通れるよう配慮した、と言われています。 4.お供の人々 「下馬所」または「下乗所」までお供として来た人々は、領主が下城する刻限(およそ八ツ=午後2時頃)までは、どんなに雨や雪が降ろうと、その場で待機させられました。ただし、ござを引くことは許されましたので、横になって昼寝をする者、唄を歌って時間稼ぎをする者、チンチロリンなどをする者、また、蕎麦屋などの屋台も出ていましたので、そうしたところで、時間潰しをしました。 5.大名の詰所 http://bungetsu.obunko.com/newpage501.html 6.部屋を間違えてしまいました 明暦3年(1657)、旗本であった八王子千人頭の石坂勘兵衛正俊が殿中を迷い、違う部屋へ足を踏み入れてしまった。「まいるまじき席に入り越度(おちど)」と処罰され、千人頭の職は一代限りとされ、さらに、「躑躅之間(つつじのま)」から「御納戸前廊下詰」に降格させられた。
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- 川原 文月(@bungetsu)
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こんにちは。 bungetsuです。 >>大名の玄関が「格式により」決まりがありました、という個所です。 私は、「客」と「身内」を分けていたのでは、と思います。 客は御玄関から、身内の者はその他の入り口ではないでしょうか。 老中、所司代などは、幕府の「使用人(従業員)」ですから、御納戸口から、 その他の役人は中之口から、という分け方です。 どちらも「通用門」という感じです。 御三家は身内ですからもっとも私的な御風呂屋口からという解釈で、何かの本で読んだときに、なるほどと納得していました。 あなたの考えでおおむね良いですよ。 「表大名」とは、「外様大名」ですので、将軍家からみれば「お客さま」です。 敬意を表して、「御玄関からどうぞ」と言う意味でしょうね。 身内になればなるほど、「勝手口からどうぞ」と言っているのでしょうね。
お礼
再度のご回答ありがとうございます。 私の曖昧な記憶も間違いではなさそうで安心しました。
- あずき なな(@azuki-7)
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普請番を請け負うではなく普請を請け負うでした 失礼 その名のとおり江戸城や親藩大名の城普請の際に人夫や資材を供出する義務のある大名家のことで 石高が10万石以上の大名家に義務付けられていました
お礼
解りました。 再度のご回答ありがとうございました。
- あずき なな(@azuki-7)
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1 大手門から入れるのは石高10万石以上の普請番を請け負う義務のある大名のみ 小名 旗本は半蔵門など他の門から入った 2 当然到着時間は藩ごとにきめられており 同じ時刻の場合は石高 譜代 外様の順で入る 3 事件は知りません
お礼
早々のご回答ありがとうございます。 「普請番を請け負う義務のある大名」の意味をNetで調べたのですが、分かりません。 もし、よろしければ教えて下さい。
お礼
親切丁寧なご回答ありがとうございます。 大変よく解りました。 「外様」は「内桜田門」から入城したのですね。 外様は大身の大名が多いですから、幕府の配慮は正解ですね。 行列は、「絶対に止まってはならない」という決まりがあったので足踏みをしながら待った、という決まりは、待つ方としては大変だったに違いない。 何十分も待つことがあったでしょう。 「よもやま話」は、この回答に限らずいつも楽しみにして読んでいます。 今回はちょっと疑問に思う個所があります。 大名の玄関が「格式により」決まりがありました、という個所です。 私は、「客」と「身内」を分けていたのでは、と思います。 客は御玄関から、身内の者はその他の入り口ではないでしょうか。 老中、所司代などは、幕府の「使用人(従業員)」ですから、御納戸口から、 その他の役人は中之口から、という分け方です。 どちらも「通用門」という感じです。 御三家は身内ですからもっとも私的な御風呂屋口からという解釈で、何かの本で読んだときに、なるほどと納得していました。 それから、「4.お供の人々」は大変参考になりました。 「お供の人々は待っていたのですか」という質問をしたかったのですが、質問が多くなるので引っ込めました。 どんなに雨や雪が降ろうと、その場で待機させられたのですね。 今では、想像すらできないことです。