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文法と訳読に偏りすぎる英語教育の弊害
- 日本の英語教育は文法と訳読に偏りすぎている。しかし、日本語の文法と英語の構造は大きく異なるため、対応が難しい。
- 文法用語を日本語の文法に持ち出す人もいるが、それは適切ではない。
- また、文法と訳読に頼った学習法では、自身の英作文のミスを気付きにくくし、遠回りになる。
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投稿は控えようかなと思いましたが、やはり私が最も興味がある分野の一つですのでちょっとお話を そして、もしかしたら的外れな話かもしれないことを、前もってお詫びいたします 教育体制についてはあまり詳しくありませんが、最終的には教員の能力による部分が大きいかもしれませんね それは「正しい」英語は教えられるけど、間違った英語を評価したり、修正したりできる能力をもった先生が Grammar-Translation型の教授法は、やっぱりやりやすいんですよ 辞書や文法書に載っていることをそのまま伝えればいいんですから そして、間違っているのにはバッてんをして、正解をひたすら求める そして最終的には、結果としての数字だけで英語の「学習」度を測る 誰も間違いのレベルに目を向けようとしない 間違いはしても、英語を操る能力は正解者よりも上、というケースがいくらでもあるのにそれを評価できる人がいない バツはバツなんです 言語の習得には段階があって、英語の場合 否定文だと最初にnoをつければなんでも否定文になる 次に、notをつけるんだと覚える 次に、don’tとdoesn’tの別があることを知る 最終的に、時制の一致ができるようになる ですから、I didn’t went there. なんてのは発達(習得)段階でのあたりまえの間違いです 逆にI didn’t went there. という段階の英文を作れることを評価すべきなんですが、それをしない この間違いは、母語としての習得、第二言語としての習得において全く同じ形であらわれるようです ですから、他の国の英語学習者も日本人が犯すような間違いをしているんです 英語を第二言語としている人との会話がしやすいというのはそういう部分があるかなと思います 私の経験上、スペインの人、中国の人、フランスの人など、国は違っても大体同じような表現の仕方をしますし、同じような間違いも散見してます 質問文や比較文などにも習得の順次があることがわかっています 正解・不正解だけの教授方法だけだとこういう習得状況を見逃してしまう でも、こういうことを観察できる教師というのはそれなりに、知識や英語能力がないといけない ここはニワトリと卵の話と似たところがあって、現在の教師の多くがそういうことをしない教授方法で学んだ人が多いでしょうから、やはり根本的に変える必要はあるとは思います ただし、immersion programのような英語だけを使う授業方法をとったとしても、今度は文法(=型)を学べない どこかの時点で必ず文法(=型)を教える必要はあるということです 伝わればいい、というだけの教え方をしたら、子供というのはこういう点では頭がまわるものだから、いくらでも勝手なルールを作り上げるでしょう でもそれは、暗号に似たもので「英語」とはいえないでしょう 日本の英語教育ではこういう習得状況を測れない教え方をしているから問題なのですが、最終的な型を知っているだけでも評価していいのではないかと思います(ただし、この型が気になってしまって英語を話せない人が多いのも問題ですが) そして、それは単なる知識であって、英語を操る「能力」ではない 事実、難関大学の英語を高得点で通過した人でも、会話になると上記のような間違いをしているのは何度か見たことがあると思います さて、こういう文法的な知識と英語「能力」をバランスよく教えることができる教師が必要です さて、どうやって確保しましょうか そして、そういう教授法をするための時間も必要です プラスαになりますから、全てを賄う時間も費用も必要です 全てを満たす方法を見つけるのも大変なことです こういうことは私でも知っていることですから、たぶん同じように考えてくれる人もいると信じています 現在の英語教育は、話す・聞く・読む・書くをバランスよく教えるように変化してきているという記事もよく見ますから、将来的には現在と違うものになっているのではないですか? この回答が的外れでないことを祈って
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もうちょっと分かりやすいほうがいい? >“Where are you going?”であって “Where do you go?”ではありませんよね。 本当に~? Google検索してみよう。 "Where are you going" 約 59,800,000 件 "Where do you go" 約 35,200,000 件 "Where will you go" 約 7,540,000 "Where are you going to go" 約 3,710,000 件 "Where do you go"ではないって、どこからでてきたのかな? 是非承りたい。 >そして「分った?」は“Have you understood? ”であって、“Did you understand”ではありません。 本当に~? Google検索してみよう。 "Have you understood" 約 2,170,000 件 "Did you understand" 約 125,000,000 件 "Do you understand" 約 11,700,000 件 ←最も普通の言い方 "Did you understand"ではないって、どこからでてきたのかな? 是非承りたい。 当たり前に最も出やすい"Do you understand"を思いつかない理由と一緒にね。 >また、「誰が旗を持つの?」は “Who will hold the flag?”であって、“Who has the flag?”ではありません。 本当に~? Google検索してみよう。 "Who will hold the flag" 約 24,000 件 "Who has the flag" 約 43,700 件 "Who has the flag"ではないって、どこからでてきたのかな? 是非承りたい。 基礎知識と英語の知識を身に着けてからにすることをお勧めしておきましょうか。 ご質問に対して、何を説明しても、お分かりでないのでは困りますしね。 英語が分からないのに、英語カテで回答するのも困りますしね(もし回答されるのでしたらね)。 Do you understand? [Laughter]
お礼
あんたも何も分かっていないね。 Googleはノンネーティブの間違った英語が多数ヒットするよ。 例えば “Where do you go”ももっとつぶさに見てみた? “Where do you go”を私もGoogleで調べてみました。 これはさすがに "Where are you going"の方が多くヒットしてますね。 確かに "Where do you go?"も間違った英語ではない。でも、「どこ行くの?」という意味にはならない? 意味は自分で調べてごらん。
- TANUHACHI
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くだらない、とご自身で仰りながら「学校教育」の現場に関してはあまりご存じない様子ですので、一言申し上げさせていただきます。 学校教育の「国語」で果たして「会話する」ことを単元として扱っているでしょうか。少なくとも国語科で扱う「文章」は二つに分かれています。「説明や論述の文章」と「物語の文章」です。この両者に共通する要素が「文法」です。「用言と体言」の違いに始まり「品詞の性質」や「修飾語と被修飾語の関係」などです。こうした「枠組み」がなければ、文章の意味を理解するには不自由が生じることも事実です。 こうした話は英語でも同じです。名詞を修飾する品詞は形容詞であり、動詞に係るものが形容詞ではないなどの約束事を踏まえて、異なる文化との接点や触れ合いを理解する。質問者様は「訳読」と軽視されている様子ですが、書かれたものの内容を理解することも語学教育にとっては大切な部分です。話すことだけが語学教育の指針ではありません。 「しかし、私たち自身、日本語の文法を体系的に知っていないし、知っていたとしても 英語と日本語ではあまりにも構造の違いが大きいので 対応させるには無理があります。 皮肉なことに、日本語の文法に英文法用語を持ち出す人もいるほどです」とのご指摘ですが、これは「日本語の文法と英語の文法」を関連づけて説明しているわけでもありません。日本語の文法と英語の文法を「対比」させることで「解りやすく」説明する目的での便法であるといえます。 よく「英語の文化圏では子どもですら英語を流暢に話す」と会話能力が全てであると主張される方もいらっしゃいますが、「英語を使う場所」は生活空間のみではありませんね?。セサミ・ストリートなどの教育番組がアメリカで作られている背景にはも学校教育の場で「読み書き」を教えることが意識化されている背景もあります。文章を書き、それを読み解くだけの能力を培うにはどうしても「約束事」が必要です。ネイティブの発音がどうのこうのやらネイティブの表現ではどうのこうの、と言い訳する以前に自らの語学能力(国語力を含む)をより確実な者とすることが大切です。質問者は日本で生活しているわけですから、通常に使うのは「日本語」です。そして「英語で話し掛けられたら」との場合でも、質問者の頭の中では否応なしに「日本語」に置き換えて理解されていることになります。 ニーチェを読むには原語で書かれたニーチェの言葉を聴く以外にはありません。ドイツ語のニュアンスをそのまま表す英語表現などは反って珍しいほどです。「英訳版」をテキストとして用いてもそれはニーチェを理解することにはならない。 英語に本当に堪能な方は美しい日本語を使う方でもあります。それは「言葉」を理解しているからできる能力に他なりません。
お礼
ありがとうございます。 >学校教育の「国語」で果たして「会話する」ことを単元として扱っているでしょうか。 英語教育だけが槍玉に上げられやすいですが、私は国語教育も問題があると思います。 文法はあまり詳しくやらないのに 文学偏重で「話す日本語」としての側面を疎かにしています。敬語の使い方も小学校であまり詳しく教えません。 >質問者様は「訳読」と軽視されている様子ですが、書かれたものの内容を理解することも語学教育にとっては大切な部分です。 #2さんのお礼でも書いたように、ここは物事を極端に考える人が多いようです。TANUHACHIさんこそ訳読を過度に重視してはいないでしょうか? >日本語の文法と英語の文法を「対比」させることで「解りやすく」説明する目的での便法であるといえます。 いや、対比させるから却って難しくなるんですよ。蛇足ですが、フランス語が得意ですが、スペイン語とかイタリア語はフランス語をベースにして学習しています。日本語で説明されると分かりにくいのを実感しました。それに 日本語だと、訳読も返り読みが多すぎて非常に面倒です。 >そして「英語で話し掛けられたら」との場合でも、質問者の頭の中では否応なしに「日本語」に置き換えて理解されていることになります。 英語は英語で理解するように努めてきたので、日本語に置き換えることは少ないですね。自慢でありませんが、10年前に買った英和辞典がほとんど新品に近い状態です。 **余計なお世話かもしれませんが、TANUHACHIさんのようなアカデミックなお方はラテン語とかギリシャ語を学ぶと教養が深まると思いますよ。 ただ単に英語がペラペラなアジア人とは差を付けられます。
- cosycube1
- ベストアンサー率0% (0/9)
最後にいわゆる〈言語汚染〉の問題にふれておきたい。たとえば従来、フランス語はアカデミーの管理の下でその〈純潔性〉を誇っていたが、最近は英語からの docking や new look のような外来語がふえてきて頭を悩ましている。同様の問題はヨコ文字のはんらんする日本語にもあてはまる。しかし、それを規制することは難しい問題もあって、たとえば戦時中の日本で、国民精神の高揚のため外来語を自国語の新造語に置き換え、パーマを淑髪としたような例も想起しなければならないだろう。また、文化的に〈優位〉な言語が〈劣位〉の言語に音声や語彙や統語の面で深い影響を与える言語干渉は、さまざまな言語の歴史の中に見いだされるかなり普遍的な現象であり、ときには相手側言語を圧倒し完全に入れ代わってしまうことさえある。ラテン語がケルト民族に受け入れられフランス語を作り出したのも一例である。この場合ケルト語を基層としてラテン語は大きく変貌した。要するに、それぞれの言語そのものに価値の優劣などないのだが、言語はこれを話す言語集団と運命を共にする。強大にもなれば衰亡することもある。 何か他に解説して欲しい要望は?
補足
>何か他に解説して欲しい要望は? コピペご苦労様です。まあ、膨大なWeb情報を整理する技だけは褒めてあげるよ。
- cosycube1
- ベストアンサー率0% (0/9)
それゆえ国語教育は、逆に書きことばの世界を深くわがものにするための配慮をいっそう工夫せざるをえないわけで、教材としての作品の選択、経験と言語のより適切な結びつき、言語の人間精神への規定性の認識などを教育上工夫しながら、きびしさのなかにも楽しさを伴った国語学習のスタイルをきずきあげていく努力を重ねるべきであろう。それらと、言語理解のベースである経験そのものを広め豊かにすること、他者との深い交わりを実現する言語活動を教育上工夫すること、などが今後の国語教育の共通の課題となると考えられる。 【言語政策】 国家が言語の統一と規準化などのために施す政策。言語を支えているのはその言語を母語としている民族である。しかし政治単位である国家と言語の担い手である民族とは必ずしも一致しない。そこで国家は統一を維持するために民族言語を規制しようとし、民族はこれに反発する。ここに言語紛争の根源がある。国家と民族言語の間には次のような関係がある。(1)1言語が多国家で用いられる場合 たとえばドイツ語はドイツ、オーストリア、スイスなどで公用語とされている。(2)1言語がある1国家だけで用いられる場合 日本語と日本、ノルウェー語とノルウェーにその例を見る。(3)多言語が1国家で話されている場合 旧ソ連、中国、旧ユーゴスラビアのような地域的広がりの比較的大きい国家に多い。大半の言語は(1)もしくは(3)の型に入り、(2)の例は珍しい。 [複合言語国家] 例えば、旧ユーゴスラビアは言語的に複雑で、セルビア・クロアチア語、スロベニア語、マケドニア語が公用語としてそれぞれ用いられ、しかもスロベニア語とセルビア語はラテン文字で、クロアチア語とマケドニア語はキリル文字で表記されてきた。ほかにハンガリー語、トルコ語、スロバキア語、ブルガリア語、ルーマニア語が一部で話されている。このうち、前述の公用語とされている言語は旧ユーゴスラビアの中でのみ使用されている〈単一言語〉である。ロシアや中国はこの種の〈単一言語〉を数多くかかえているが、ほとんどが少数民族の言語である。そのような複合言語国家(多言語国家)では、常に多数民族と少数民族との間の言語調整が問題となる。もし放置しておくと、多数民族言語が少数民族言語を吸収してしまうおそれがある。例えば、アメリカにおけるアメリカ・インディアンの言語や日本におけるアイヌ語はいまや消滅の危機にさらされているし、かつて中国を256年にわたり支配した清王朝の言語である満州語も微少なまでに衰退してしまった。これは満州人が母語を中国語に取り替えたからで、その結果民族としても、いわば中国人に変身したことになる。しかし、イギリスにおけるウェールズ語やスペインでのバスク語のように、よくその本質を保持している例もある。この場合は民族言語が独立運動のよりどころとなることが多い。ために複合言語国家では少数民族言語の弾圧がよく行われた。たとえばスペインのフランコ政権はカタルニャ語による書物の出版を禁止していた。しかし旧ソ連や中国のような超大国家は、それぞれロシア語と中国語を共通語として強制的に国民に教育する反面、少数民族の言語を文化語として確立させるよう配慮してきた。旧ソ連の言語政策について、少し詳しく説明すると、旧ソ連内の少数民族は、まず民族言語の方言の中から標準語を設定し、これに正書法を与えて伝達と文芸の表現手段として活用するように助成された。たとえばチュルク系のウズベク共和国(現、ウズベキスタン)では1939年から、ウラル系のコミ自治共和国(現、コミ共和国)では1936年からキリル文字による民族言語の正書法が確立され、文典や辞書類が発刊されると共に学校でも教授されていた。ただし、エストニア、ラトビア、リトアニア、それにグルジアとアルメニア共和国のように、すでにラテン文字もしくは固有の言語文字の表記法を所有する共和国もある。だがそこでも民族言語による学校教育が主体をなしつつも、やはりロシア語が必須として課せられていた。例えば、エストニアでは、ソ連時代には初等教育の段階でロシア語は初めに週4.5時間、後に2.5時間が割り当てられ、エストニア語の方は中学と高校で週4.5時間教えられていた。 [公用語の制定と言語戦争] かつて強大な国家は植民地を支配するにあたり、自国の言語を被支配民族に押しつける政策をとってきた。インドにおける英語、インドシナにおけるフランス語、インドネシアにおけるオランダ語がそうである。しかし植民地が解放されて支配されていた民族が独立すると、自己の民族言語を公用語として定立させるように努力する。インドネシア共和国における公用語のインドネシア語はジャワのジャカルタを中心に発達したマレー語に基礎をおいたものである。フィリピンでは1937年にタガログ語が公用語として認められたのにもかかわらず、地方語の数が多いため、共通語としての英語の利用は衰えていない。179もの言語を内包するインドでは、有力な言語を中心に14もの公用語が定められているが、母語の異なる民族相互の伝達手段として、植民地時代の支配者言語である英語が共通公用語として用いられている(〈インド〉[言語]の項を参照されたい)。いずれの複合言語国家でも、圧倒的に有力な言語をもたない限り公用語の指定をめぐって構成民族間の紛争はつきものである。ただし、フィンランドのように、フィンランド語が全体の95%の言語人口を占めるのにもかかわらず、文化的な影響力をもっていたスウェーデン語も、フィンランド語とともに公用語として認められているといった例もある。 スイスのようにドイツ語、フランス語、イタリア語それにレト・ロマン語が公用語として比較的うまく共存している例もあるが、ベルギーではラテン系のワロン人とゲルマン系のフラマン人の間ですさまじい言語戦争が展開されている。ワロン人は人口の44%を占めフランス語を常用しているのに対し、フラマン人は55%の多数でオランダ語から派生したフラマン語を使っている。1831年の独立当初はフランス語を公用語に決めたが、フラマン人の猛烈な抵抗運動の末、フラマン語も公認されるにいたった。しかし両言語の社会的背景が異なるため、言語の攻防戦はいまだに継続されており、1993年には連邦国家に移行した。また、英語圏のカナダでもフランス語の人口の多いケベック州がフランス語のみを公用語とする独立運動を企てている。これらは異質言語間の闘争であるが、同質の言語内でも似たような競合が見られる。ノルウェーは1814年にデンマークの支配を脱して独立するにあたり、デンマーク語にノルウェー口語を混和させたリクスモール riksmヴl を作り上げた。ところがこれとは別に西部農村地帯の方言に立脚したランスモール landsmヴl が組み立てられ、両者の間に言語の内戦が繰り返されている。現在でも、それぞれボクモール bokmヴl、ニューノルスクnynorsk と名称を改め、相互に正書法を補正しながら、階級闘争まがいの勢力争いを続けている。 [文字や語彙などの借用] 文化的に〈優位〉の言語は〈劣位〉の言語にさまざまな影響を与えるが、そのひとつに文字の借用がある。言語を表記する文字体系は、それが帰属する文化圏の種類を暗示している。この文字体系を変更することにより民族の自立に活力を与えた例としてトルコ語を挙げることができる。1928年ケマル・アタチュルクは文字改革を断行し、アラビア文字からラテン文字に切り替えることに成功した。モンゴル人民共和国は1944年に旧来の蒙古文字を捨ててロシア字母に基づく正書法を制定し、ハルハ方言(ハルハ語)を基礎とした新文章語を用いているが、1980年代末以降の民主化の過程で伝統の蒙古文字を復活させる動きがある(〈モンゴル〉の項参照)。中華人民共和国では北京語(北京方言)の普及運動に加えて、1956年より漢字体整理とラテン文字化を進めている。また朝鮮文字(ハングル)の場合は、朝鮮民主主義人民共和国では1954年よりすべてハングルによる表記が実行されるようになったが、韓国では漢字とハングルが併用されている。 異種の文字体系の矛盾に悩んでいるのは日本語である。日本は単一言語国家でありながら、国語の表記法をめぐって明治以来論争の絶えたことがない。これは表音的かな文字と表意的漢字の不調和によるものである。1946年になりようやく現代かなづかいと当用漢字が定められたが、これに対する不満はいまだに解消していない。 (続く)
- cosycube1
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【国語教育】 [語義] 国語すなわち自国の国家語(公用語)の発音、文字、語彙、文法、語法などを習得させ、さらにそれらを基礎にして行う聞く、話す、読む、書くなどの言語諸活動の能力の発展をはかり、あわせて国語への正しい関心や言語感覚などの発育をはかる教育的働きかけの総称。日本のように事実上の公用語が日本語一つの場合、国語教育は日本語教育と同義となるが、公用語が複数ある場合(たとえばスイスは四つ、ベルギーは二つ)、国語教育ということばは、各公用語の教育をさすことになる。また公用語(国家語)は一つであるが、一国のなかに多民族が存在していて、各民族語の教育と公用語の教育の両方が行われている場合、通常公用語の教育のほうを国語教育という。外国語教育と対比して国語教育ということばが使われる場合、このことばは母国語教育ということばと重なる。 現在、国語教育は学校においてその能力の育成をめざして編成された諸教科(日本なら国語科)で中心的に行われているが、それはこの教育が公用語(国家語)を国民に広め一般化するという目標をもって出発したという事情と無縁ではない。けれども国語の力は、とくに日本のように(事実上の)公用語と日常の生活言語が重なっているような国では、定型的に組織された学校における教科の教育のなかでのみはぐくまれると考えるべきではなく、誕生後、親や地域社会が施す非系統的であるがたんねんな母語の教育のなかではぐくまれる面が大きい。またそれぞれの国の言語環境や言語文化が国民の国語の力に与える影響も大きく、学校における国語教育はそれらの成果の上にたって、これと有機的に結びつきながら、家庭や地域社会の教育だけでは十分育成できない言語諸能力の発達をめざして行われると考えるべきである。 [歴史、背景] 厳密な意味での国語教育は、いずれの国においても、統一的な近代国家の成立の過程あるいは以降に登場したものである。それまでの言語の教育は、国語(国家語)の教育というよりは、各民族の地方性を伴った民族語の教育が中心で、内容的には話しことばによる、方法的には非組織的な、生活のなかでの教育であった。当時の書きことば(文字と文字による文化)の教育は、貴族や僧侶などの教養・支配階層がいわば独占的に行っており、それも自民族の書きことばよりも、ヨーロッパではラテン語を、日本では漢文を重視するというように、国家や民族意識よりも、それを学ぶことが教養であり支配層としてのあかしであるというような意識に支えられたものであった。 自民族の言語の書きことばで、しかもそれを民衆にまで広げて教育しようとする発想が登場するためには、宗教上の必要ということを除けば、おもに(1)近代国家の成立に伴うナショナリズムの発生と国家語意識の登場、(2)近代的な印刷技術の発生、経済・文化生活の向上、人々の交通の拡大などによって、民衆のなかに書きことばを必要とする条件と習得の可能性が拡大すること、の二つの気運の高まりをまたねばならなかった。このうち前者は国家という立場から為政者(ブルジョアジー)が強く意識し、後者は国民の側が自覚したものであった。それゆえ、両者の立場からする国語教育論はしばしば対立することもあった。現実の各国の国語教育は、それぞれの立場からの発想の交差する地点に成立したものと考えてよいが、その実態は一様ではない。たとえば日本に、寺子屋方式にかわる近代的なヨーロッパ方式の国語教育が採り入れられたのは1872年(明治5)の〈学制〉発布以降であるが、〈国語科〉という名称の教科が登場するのは1900年の小学校令、同令施行規則の改訂以降であり、この時期が標準語政策の登場や、国定教科書制度の実施の時期とほぼ重なることからも、この〈国語科〉の出現には、上記のうち(1)の立場が強く反映していた事情がうかがわれる。先の(2)の立場は、書きことばの教育が国民のすべてに真理・真実に接近する権利を保障するという思想を伴うことが多いが、こうした立場を含んで国語教育をとらえる発想は、第2次世界大戦以降ようやく一般化したものと考えられる。 [内容、方法] 国語教育の内容や方法は、こうした背景のゆえに、もっともふるくからある教育であるにもかかわらず、いまだ確固として定式化されたものが存在するとはいえず、大きくみれば現在も実験段階にある。日本の明治初期の国語教育は、初等教育において〈綴字〉〈習字〉〈単語〉〈会話〉〈読本〉〈書牘(しよとく)〉〈文法〉というように西洋流の方式と寺子屋方式を混在させたものであったが、これらは徐々に〈読ミ方〉〈書キ方〉〈綴リ方〉に整理されていった。1903年の最初の国定教科書はこの三分法をとった〈国語科〉のもとでの教科書であったが、その《尋常小学読本》巻一は〈イ〉〈エ〉〈ス〉〈シ〉というかたかなで始められていることに明らかなように、文からではなく語ないしは文字から出発する発想が強く残っていた。こうした言語中心主義から文学作品重視主義へ移っていくのは明治末から大正期にかけてであるが、なかでも大正期は垣内(かいとう)松三らによって国語教育に関する研究が進んだ時期であった。この時期、〈読ミ方〉の方法や目標の研究が進められる一方で、〈綴リ方〉も、それまでの模範文章を模倣するというスタイルから一歩進み、自由に題を選ばせる方式が登場するようになった。のちに〈生活綴方〉として定式化される、自己の生活事象を題材に、そこに含まれる感動や疑問などを自由につづって、書くことにより生活認識や思想を深め、あわせて文章表現力をきたえるという日本独特の国語教育の方式も、この延長線上に生み出された。 戦後は、まずアメリカのコミュニケーション能力重視の国語教育論の影響があり、日常の言語生活を類型化して、電話のかけ方、討論のしかたなどを訓練するというようなやり方が広まった。しかし、これは読み書き能力の低下を招いたなどの批判を呼び、ふたたび文学作品を中心とする言語文化を重視する傾向が復活された。文部省はその後、国語教育の内容を、〈聞くこと〉〈話すこと〉〈読むこと〉〈書くこと〉の4領域に区分したうえで、授業過程ではこの4者を切りはなさずに、具体的な言語活動の経験を教材の素材にしてつみ重ねさせ、結果としてこの四つの言語能力を身につけさせようとする方式を提唱したが、これは今日にも基本的にひきつがれている。この立場からは、たとえば言語についての諸知識も、とりたてて系統的に教えるのではなく、言語活動の経験に即して、必要に応じて教えるという方法がとられることとなる。1960年代以降は、欧米における思考力重視の国語教育論の影響もあり、先の4者を思考技能としてとらえ直し、国語科を思考技能の養成の教科として位置づけようとする傾向も強くなっている。70年代後半の学習指導要領改訂以降は、先の4領域を〈表現〉と〈理解〉に統合し、これに言語要素の指導を織りまぜた構造が提唱されているが、考え方の基本は同じである。以上は〈国語科〉に限ってみた日本の支配的な国語教育政策にみられる内容、方法の流れであるが、実際にはこれに対立する考え方も多様にあり、今後ともその内容、方法は深められ発展していくものと思われる。 [課題、展望] 国語教育の目標は、日本ならばすぐれた日本語のにない手を育てるということに要約されるだろうが、このことに、すべての国民に真理、真実へ接近する権利を保障するというさきの要請を重ね合わせてみるならば、どの国でも、国語教育の内容、方法をいっそう改善していくことが課題として自覚されねばならないだろう。日本の場合、初等教育における国語教育の時間数が欧米各国に比して相対的に少ないこと、文学科のような教科が独立していないため、読解(読み方)指導の教材が文学作品に集中しやすく、科学的説明文などの読解指導の比重がどうしても小さくなりがちであること、詳しく読みとる訓練は重視されているが、多く読むという読書指導が十分行われていないこと、漢字の指導方式がまだ経験的であるため、反復ドリル方式が中心になって、そのためにさかれる時間が他の学習を圧迫しがちであること、などが一般的に解決すべき課題として指摘されている。また、文法などの言語事項にかかわる指導を、現行のように読解過程に付属して非系統的に行うのではなく、欧米のように独自の教材を用意して、初等教育段階からとりたてて系統的に行うべきであるという意見や一部での試みがあり、さらに作文指導を、日本の生み出したすぐれた方法である〈生活綴方〉の伝統を生かして、あくまでも生徒の生活事実に即して行うことに徹すべきであるという意見等々も民間の国語教育関係の団体から出されているが、これらも今後実践的に確かめられていかねばならない課題であろう。それと同時に、今日および今後の情報環境や情報媒体の変化が、児童・生徒の言語能力、言語生活、言語観などにもたらす変化に国語教育がどう対応するかが、今後より切実な問題になると予想される。今日、児童・生徒はテレビや漫画など視聴覚に訴える情報媒体に囲まれて生活しており、そのため、書きことばの作品から他者の主張や描かれている諸現実を苦労して読みとろうとするよりは、視聴覚的な媒体にたよろうとする傾向が強くなる。これは文章を書いたり古典的な作品を読むことを避けようとする傾向となってあらわれるが、それは他者の経験に深く学ぶことを避けることにつながる可能性がある。 (続く)
- cosycube1
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【外国語教育】 外国語を教育する一般的目標は、(1)言語としての外国語を学ぶことによって学生・生徒の言語意識を鋭くし、国語に対する理解と意識を高め、(2)言語の表現する内容の理解を通じて諸外国の文化に接触せしめ、これによって国民文化をいっそう深く理解せしめることである。学校における外国語教育には、したがって、特定部門を専攻するための基礎を修得させる実用的・専門的教育と、一般教養的な教育との2方向が包含されている。 日本の外国語教育の歴史は、広義には洋学輸入の歴史である。それは江戸中期以降の蘭学による医学、天文学、地理学、植物学、物理学、化学、兵学など実利的な分野の輸入からはじまった。この方向は新井白石の《西洋紀聞》(1715)にあらわれた〈和魂洋才〉の観念に源を発するが、その後、幕末から明治にかけて福沢諭吉らがウェーランドの経済書や修身書を訳すにおよんで、精神文化の領域にも洋学が浸透しはじめた。こうして日本洋学の重心はしだいに蘭学から英学へ移行した。この方向は明治維新後も受け継がれ、1868年(明治1)の教育令には〈漢土西洋、学共ニ皇道、羽翼トス可シ〉とあり、70年の〈小学規則〉にはイギリス、ドイツ、フランス、オランダの4ヵ国語の教育があげられるにいたった。その後72年の〈学制〉では、中学(上・下等)、尋常小学(上等)で外国語が課せられたが、小学のほうは79年にその教科目から削除されることとなった(1884年、選択科目として一時復活)。中学校では86年に第1外国語は通常英語とし、第2外国語は通常ドイツ語もしくはフランス語とすることが定められ、99年には第1、第2の別なくイギリス、ドイツ、フランスのいずれかの国語にすることが定められた。その後昭和にはいって中国語やマレー語の教授も加えられたことがあったが長続きせず、大勢としてはほとんどの学校が英語を採用し、日本の初等・中等教育における外国語教育は、英語教育を意味するといってもいいすぎではなかった。 一方、外国語の専門教育は、1873年に開設された東京外国語学校(入学資格は年齢14歳以上の小学卒業者、修業年限4年、イギリス、フランス、ドイツ、ロシア、中国の各国語を教授した)にはじまる。これ以前にも1855年(安政2)に幕府が江戸にもうけた洋学所(のちの開成所)があり、もっぱら蘭学を教授し、のちにこれを蕃書調所(ばんしよしらべしよ)と改称してオランダ、フランス、ドイツ、ロシアの各外国語を教授した。新たに設置された外国語学校はこの後身ともみられるものである。その後大阪、長崎など6都市に外国語学校を設置したが、それらは内容の上からまもなく英語学校と改称、しかも4年後には廃校となった。85年には東京外国語学校も東京商業学校(のちの高等商業学校)に合併された。その後、中学校卒業を入学資格とし、外国語に熟達し、国際的実務に従事するものを養成する外国語学校は、97年東京高等商業学校に付設されたのにはじまる。それが99年修業年限3年の官立東京外国語学校として独立、さらに1928年修業年限を4年に延長して、イギリス、フランス、ドイツ、ロシア、イタリア、スペイン、ポルトガル、シナ(中国)、蒙古、シャム、マライ、インド、タミルの13語部をもうけ、各語部を文科、貿易、拓殖の3科に分けた。そして44年東京外事専門学校(東京外国語大学の前身)と改称された。このほか1921年設立の官立大阪外国語学校(大阪外国語大学の前身)は、修業年限3年、9語部をもち、私立学校としては25年奈良県に設立の天理外国語学校(天理大学の前身)がある。これらの学校はいずれも、第2次世界大戦後の学制改革によって4年制の新制大学として再編成された。 第2次世界大戦後、日本の学校教育における外国語教育については、学校教育法施行規則(1947)によって根本的に規定されている。中学校においては、外国語(英語)は選択教科として教授されている。高等学校においては、同じく選択教科として外国語(英語、ただし外国語を2種類以上学習することを妨げない)が教授されることとしてきたが、55年8月の高等学校教育課程の改訂に伴い、第2外国語を置くことができることとなった。第1外国語および第2外国語は、英語、ドイツ語、フランス語またはその他の現代の外国語とされている。 欧米諸国において、外国語教育が近代語として学校教育の中にとり入れられたのは18世紀後半からのことである。政治、経済、文化など各方面の活動が活発となり、一方、交通・通信機関の発達により諸国間の交流が頻繁となるにおよんで、外国語をはやく読み、書き、話し、聞くことが必要となってきた。それまでには古典的教養や宗教教育と結びついてギリシア語、ラテン語の学習が行われていたが、これだけでは世界の新しい事態に処してゆくことは不可能となり、近代語の教育が不可欠のものとなった。また方法の上でも新しい言語学習の方法がくふう、研究されるようになり、ベルリッツ・メソッド Berlitz method、グアン・メソッド Gouin method、オーラル・メソッド oral methodなど、ダイレクト・メソッド direct method を基調とする学習指導法が登場してきた。オーラル・メソッドは日本にも導入されている。
- FEX2053
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元々、日本の英語教育は「外国人と会話するため」の ものではなく、「外国の文献を正確に解読する」ための ものですからね。訳と文法に拘って正解なんです。 要は、明治から昭和にかけての、外国に追いつき追い 越せ時代の教育のまま変わってないってだけです。 「教育界」の偉い人はみなトシをとってるので、全員が そういう発想で教育されてますからね、アタリマエっちゃ ~アタリマエですし、実際単純に「論文を解読する」と 言う面から「だけ」すれば、アレでも十分役に立つんです。 あとは、「それじゃダメ」ってことに教育界の人間がいつ 気が付くか・・・って話なんですけどね。 センセを含めてその辺の役人はダメです。頭が固くて・・・。
お礼
ありがとうございます。 >元々、日本の英語教育は「外国人と会話するため」の ものではなく、「外国の文献を正確に解読する」ための ものですからね。訳と文法に拘って正解なんです。 確かに。しかし、ここで見落とされている点があります。大昔の英語学習者は 一部の知識人に限られ しかも多くは漢文やオランダ語の素養もあったので、英語なんてそんなに難しくなかったはずです。それで、現在の学校の英語教育もその点は考慮して、かなり時間をかけて咀嚼しているものの、随分遠回りをしていると思います。 例えば、少年がおもちゃ屋に入って、欲しいゲームを見つけたけど、小遣いが足りなくて "Damn, if I'd gotta bit more money, I could buy that game!” と呟く場面を想像してください。 この英文の内容は ネーティブの子供もよく使うような なんの変哲もない文なんです。しかし、そこまで行くに、人称代名詞とか冠詞とか 文法の説明の連続で、高校に入らないと習わない構文なんです。日本の英語教育はごく簡単なものも 不必要に英文法用語を持ち出して かえってややこしくしてしまっているんですね。 特に、仮定法については、用語だけが独り歩きし、英語教師ですら根本的概念を理解していない人が大半です。
- xNekoNyanx
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抜け出せないというより、会話文と汎用的原則的に要求される英語力は別でしょ? 例えば、日本語会話文法のままで国語の作文程度のものでも書けるかと言われたら、無理です。 そしてまた誰もが英会話として英語を必要としているわけではなく、国際的なジャーナルを執筆したり閲読したりするだけの用途では、基礎的な部分から会話文法のみを叩き込まれてしまうと逆に弊害となるのではないでしょうか。 同様に、バイリンガルなどへ応用するにしてもただ英会話ができるだけでは無意味で、日本語(文法)とそれにどの英語(文法)が対応しているのかを深層下で理解している必要があります。 それらすべてを教育現場に要求するのは…ちょっとね。 むしろ、外国の方に日本語を教える時にいきなり主格抜きを用いるのも酷だと思うのですが…
お礼
ありがとうございます。 ここって極端な見方をする人が多いですね。例えば、肥満を気にしている人に 「間食止めたら。」とアドバイスすると「それじゃ、俺に 何も食うな というのかよ。」みたいに反論するように。
- 409409409
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英会話教育ではなく英語教育だからではないでしょうか。 国語の古典も、文章解読が焦点で、作文をつくり自己を表現せよっていうのはあまり聞きません。 同じことではないでしょうか。 まぁ、あと採点するためでしょうね。 習うより慣れろのような英語だと統一性が保てず、英語試験の点数はあてに出来なくなってしまうかもしれません。 学習指導要領に基づきますので、国の方針ということになりますが。。。 そういう教育を受けてきたための意見です。 それではどのような教育方法が良いとお考えなのでしょうか。 諸外国でも第2外国語教育はどうのようなものなのか、ご存じであれば教えてください。 文科省のエリート官僚が知らないのであれば、ぜひ声を大にして次世代教育を変えていくべきです。
お礼
ありがとうございます。 >習うより慣れろのような英語だと統一性が保てず、英語試験の点数はあてに出来なくなってしまうかもしれません。 国語だと 英語に比べると得手不得手の差が小さく、また試験の問題作成者の意向によって大きく順位が上下することがありますからね。だからこそ、センター試験でも英語は重視されると思うんですが。 >諸外国でも第2外国語教育はどうのようなものなのか、ご存じであれば教えてください。 フランスだと、小学校のうちからフランス語の文法をみっちり学ぶし、またフランス語の文法は英語の文法と対比させやすいので その点では合理的かなとも思います。しかし、発音に関しては日本人と同じくらい苦労するそうです。ですから、フランス人は英語が話せないとか言われるのかしれません。 韓国も教育自体は日本と似ていますが、学生の意欲に大きな差があるようです。 例えば 日本人は日本語でブログを書いて満足していますが、韓国人は英語と格闘しながら英語でブログを書いて世界に発信しようとする人が多いです。
お礼
ありがとうございます。 >Grammar-Translation型の教授法は、やっぱりやりやすいんですよ 辞書や文法書に載っていることをそのまま伝えればいいんですから そして、間違っているのにはバッてんをして、正解をひたすら求める この方法なら 極端な話、少し利発で意欲のある生徒なら 教師なんかいなくても 独学でも何とかなるでしょう。DVDを見て 問題を解いてコンピューターで採点してもらえば済みますから。