NO3、4で回答したfumkumです。もう、出しそびれた証文状況ですが、先日買った本の中に関連する項目があったので、参考までに引用します。
本は、網野善彦著『日本の歴史をよみなおす(全)』の「第二章 貨幣と商業・金融」の「宋からの銭の流入」です。
(略)十三世紀の後半から十四世紀にかけて、日本の社会に、金属貨幣が本格的に流通し始めます。(略)
この(皇朝十二銭)貨幣の性格についても、いろいろな意味で考えなくてはならない問題はあるのです。中国の制度の受容にともなって鋳造されたという側面が強くて、庸・調などの貢納に用いられていますが、実質的に社会の中で貨幣が流通したのは、ほぼ機内にかぎられており、全国的には流通しなかったと言われています。(略)
十二世紀後半から十三世紀にかけて、本格的に中国、宋から銭が流入してきます。とくに平清盛が日宋貿易に、大変、力を入れましたので、宋の貨幣がどしどしはいってくるようになりました。
ところがその最初のころ、十二世紀後半の清盛の時代、疫病が流行すると、これは「銭の病」だ、銭を使うようになったために起こった病だ、という噂がひろがるような状況がまだみられたわけで、貨幣の流通はかなり活発になりつつあるのですが、金属貨幣を呪物として見る見方が強く、まだ流通手段として充分社会に浸透しきったとは言えない時期がしばらくは続いていました。
ところが松延康隆さんの研究(「銭と貨幣の観念」『列島の文化史』6、日本エディタースクール出版部)によると、十三世紀の後半から十四世紀にかけて、土地の売買は米ではなく銭で支払われるようになってくるわけです。
銭の流入も、非常に大量になってきました。
最近、朝鮮半島の南西の海中から、いわゆる「新安沖沈船」という沈没船が引き上げられました。(略)
船には厖大な青磁、白磁が積まれており、その船底には、船の安定をとるためのバラストとして、銭が大量に積み込まれていました。その重さは約二十八トンにおよぶといわれていますが、これが全部、日本列島に流入するはずだったのかどうかはわかりませんけれども、たぶん相当部分が日本列島にはいってきたことは間違いないと思われます。二十八トンが何十万枚になるのかはわかりませんが、ともかく大変な量の銭が積み込まれていたことがわかったわけです。
しかもこの船が沈んだ年が十四世紀の前半、一三二三ねんであることも、木簡によってはっきりわかりました。実際、文献によってみても、十三世紀後半から十四世紀にかけて、非常に活発な中国大陸との船の往来があったことがわかりますから、それにともなって驚くべき大量の銭がはいってきたことは間違いないわけです。
このような銭の流入は、日本列島の社会自体の変化にともなう、銭に対する強烈な要求があったことを物語っていますが、一方、それだけの銭が社会に流通しはじめたことになる。おのずといろいろなものの取引き、現在残っている文書では、動産の売買はほとんど文書に残りませんが、土地の売買はもちろん、あらゆるものの価値尺度が銭で表されるようになってきます。金融も銭が主になりますが、あとでふれるように、米が依然として交換・支払いの手段、価値尺度としての機能を失っていない点にも、注意しておく必要があります。(以下略)
なお、NO3で記述した下記の部分は、青木美智男著『大系 日本の歴史(11)-近代の予兆―』からとっています。
「[この文政(一部天保にわたります)の改鋳は文政小判だけではなく、二分判(二度)・一分判・二朱銀・一朱金・一朱銀・二朱金と広範囲に及び、金3800万両プラス銀22万貫にあたります。]これにより都市と農村の商品経済の活性化と、農村での貨幣流通量がこれまでになく増え、貧しい農民まで銭使い現象が浸透しだしたとされます。農村では農民の商品需要に応じて小商人が多く誕生し、インフレ的な活況状況産み出され、それに伴い農村によそ者が頻繁に出入りし、中には農村に落ちる小金目当てに無宿渡世人が横行し、博打場も開帳されたり、博徒の出入りがしばしばおこり、村落秩序の動揺と新たな社会不安を招いたとされます。」
貨幣の普及について、網野(松延も)の文章にある十三世紀の後半から十四世紀にかけて(鎌倉時代末期~)の「驚くべき大量の銭がはいってきたこと」を重視するのか、青木の文章にある江戸時代の文政期の「貧しい農民まで銭使い現象が浸透」を重視するのかは、貨幣の普及とはどのようなことかとの定義にもよると思います。
なお、佐藤雅美の『十五万両の代償 十一代将軍家斉の生涯』に、文政期の貨幣改鋳で幕府が手にした利益について次のように記述しています。
『幕末外国関係文書』(巻二十一)に勘定奉行土岐下野守朝昌の「御勝手向御入用増減取調申上候書付」という、大老井伊直弼に提出した書類が収録されていて、それに水野忠成が貨幣の改鋳をはじめた文政元年から四十年間の「吹替御益」という名目の金額が記されている。
合計 千七百九十六万九千両余
一ヵ年平均 四十四万九千両余
松平越中守定信と松平伊豆守信明ら寛政の遺老の時代、寛政元年から文化十三年まで二十七年間の歳入は平均(七、八十万石あった米は別)。
百二十二万両余
貨幣を改鋳することによる儲けは実に、かつての歳入のおよそ三十七パーセントにものぼっていた。(以下略)
最後に、前回書こうとは思ってのですが、租庸調の「租」の性格ですが、これは現代の税とは違うとの有力な説があります。これに関連する出挙について網野の著作などを読むと一部書いてありますが、出挙は神に奉げる初穂料の性格が強く、出挙の原資たる租は性格を同じくするとの説です。ですから庸調の方が現代の税に近いとするものです。
以上、時間が過ぎた再々回答になってしまいました。参考にもならないかと思いますが、このような考えもあったということで。
お礼
回答有難うございました。 とても興味深く読めました。