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北前船による京都と酒田のつながり

北前船による京都と酒田のつながりを調べています。 時代背景と、どのようなものが交易されていたのかを 教えてください

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回答No.2

こんにちは。 私は、自称「歴史作家」です。 >>北前船による京都と酒田のつながりを調べています。 船が大型化して、北前船として全国を廻るようになったのは、寛永年間の頃からと言われています。 もちろん、それまでも小型の船で瀬戸内だけの航路や大坂と江戸を結ぶ航路などはありましたが、全国的規模での取引は千石船として、それまで以上の積載量が見込めるようになってからです。 では、一体どのような物が・・・と言うと、 夏の頃、主に大坂の堺港からの出帆になりますが、京都や大坂で買い付けた、綿や半紙、縮緬(ちりめん)、砂糖などを積み込み、長門の岬(下関)を超えて日本海に入ります。 そして、敦賀あるいは能登などで漆器などと交換をし、一気に松前まで行き、ここで紅塩鮭や鰊の乾物、鱈の乾物、昆布、ワカメ、アラメなどを買い付けます。 その後、酒田へ立ち寄り、松前で買い付けた品々を売りさばきます。酒田も海に面しているので、わかめや昆布も採れますが、松前の海産物は北の海の荒波に揉まれているせいか、総じて肉厚で料理屋などでは珍重されました。また特に、紅塩鮭や鰊、鱈などの乾物類は正月の一品に加えられるほど流通をしたと言われています。 また、松前で買い付けた海産物も全部を酒田でさばくのではなく、約半分はそのまま船に積んで堺港まで持ち込み、大坂や京都、大和地方の人々には大変好評でした。 酒田からは、主に米や材木などを積み込み、恵比寿講(10月20日前後)が近くなる頃には、日本海の波も高くなるので、多くの千石船は佐渡の小木の港へ入り年越しをします。佐渡ではこれを「囲い船」と呼び、水主(かこ=船の乗組員)も陸(おか)へ揚がって船宿に腰を据えます。この時、小木の船宿では、水主一人ひとりに「飯盛り女」を宛がいます。 飯盛り女たちは、付いた男を「お前さん」などと呼んで、亭主と同じように尽くします。従って、佐渡の小木の女は、吉原の遊女などとは違い、気位はあまり高くはないが情の濃さが売り物でした。それだけの要素を持っていたからです。 また、水主たちも陸に揚がったとはいえ、ただダラダラと日がな一日を過ごすわけではなく、構造上の傷んだ箇所は船大工などに修理を依頼し、自分たちは船の一年間の垢落としや縄梯子の修理、帆の手入れなどをして過ごします。 こうして、翌年の3月下旬頃になると、佐渡で買い付けた佐渡米や竹細工などを積み込み、敦賀などに立ち寄り、ある程度の米や竹細工などを売りさばき、再び、長門の岬を廻って堺の港に入り、酒田や佐渡で買い付けた米や材木を売りさばきました。 大坂や京都の商人には、米や材木は高値で売れました。また、酒田あたりからは石も積荷にしたという記録もあります。 この石は堺や京都の人々の庭園造りや石垣などに人気があったと言われています。 米などに限って言えば、それまで陸路での運搬手段しかありませんでしたが、千石船(北前船)の発展と共に、大量に、そして、安価に輸送することができ、商人たちの儲けも大きくなりました。

noname#174472
質問者

お礼

ご丁寧に説明していただき誠にありがとうございました。 とてもよくわかりました。 佐渡の小木はにぎわったでしょうね。 石も奥が深いので、茶人達が好んだのでしょうね。 日本の文化歴史の勉強になりました。

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  • tanuki4u
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回答No.1

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