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南無阿弥陀仏と南無妙法蓮華経
南無阿弥陀仏と唱える者の顔は静かで穏やかであるのに、 太鼓を打ち鳴らし南無妙法蓮華経と唱える者の形相が畜生に近くなるのは何故か
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noname#184314
回答No.1
もともと、開祖に至る起源の違いではないでしょうか。 浄土宗の開祖である法然のいた時代(平安から鎌倉)は、平穏な時期で 仏教はどちらかというと、位の高い人間の宗教でした。 それを、法然は庶民にも広めるためにわかりやすい言葉をえらんで、 布教していたためだと推測されます。 変わって、日蓮宗または法華宗の開祖である日蓮のいた時代(鎌倉時代末期) は、外敵の侵略、疫病や飢饉が続いたり、はては、宗教弾圧などがあったりと、 すさんだ心の人々をだたすために、邪気を払うことを目的として、人々に 布教したためで、邪気を払うための鬼の形相になったと考えられます。
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- Y Y(@yy8yy8az)
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回答No.2
そう思ってしまうのは、『南無妙法蓮華経』に有るのではなく、人の道さんの心の表れ(こだわり)と知るべし! 河原の小石でさえ下流に向かうほど角が取れて丸くなるというのに。 無駄に年輪を重ねては“人間”として生まれた意味(価値)を無視することになります。 『南無妙法蓮華経』を唱える他人を批判するより、そうした自身の心をこそ批判し、反省して、大切に扱ってください!
質問者
お礼
>そう思ってしまうのは、『南無妙法蓮華経』に有るのではなく、人の道さんの心の表れ(こだわり)と知るべし! 朝は南無阿弥陀仏と唱え、夕方に南無妙法蓮華経と唱える坊さんはいますまい。 それと同じ事、誰しもこだわりはあるものです。 こだわって悪い法はないと思うが。 大乗の善は小乗の悪、小乗の善は大乗の悪ゆー言葉もあります。
お礼
心は形になって現れるとも言います。 念仏を唱える者と題目を唱える者の心はそれぞれがその形相になって現れるに違いない。 時代背景の違いはあるかもしれない。 しかしこの2つの形相の違いはより本質的なるもの、大乗と小乗における心の違いに在るのではあるまいか。