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妙法蓮華経
法華経とは何をいっているのですか? 蓮華の花は、開いた時にすでに実を結んでいるものです。また、妙な法であるということです。 また妙法蓮華経の現代語訳が置いてあるページなど、いい所があれば教えてください。宜しくお願いします。
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法華経を論ずるに当たっては、すべからく法華経に三種あることを知らなければならない。第一に釈迦在世および正法時の法華経二十八品であり、第二に像法年間における天台の摩訶止観であり、第三には末法に広布すべき南無妙法蓮華経の五字七字です。 日本国に御出世の御本仏・日蓮大聖人様が、 『今末法に入りぬれば余経も法華経もせんなし、但南無妙法蓮華経なるべし』 と明らかにお示しのごとく、末法の法華経とは、まことに三大秘法の南無妙法蓮華経にほかならないのであります。 したがって、法華経二十八品は、三大秘法の仏法の序文として流通分として用いるのです。 末法は、白法隠没とされ、釈迦仏法の効力がなくなっております。それなのに、現代語訳を論じ学んだところで、何になるというのでしょうか? 「南無妙法蓮華経」を表面的に解釈すれば妙法蓮華経すなわち法華経に帰依(南無)するという意味です。 日蓮正宗以外の日蓮宗各派では、本仏といえば釈尊であり、究極の経典は釈尊の法華経であると立てておりますから、南無妙法蓮華経の意味も、「釈尊が説いた法華経二十八品の経典に帰依する」ということになります。 しかし日蓮大聖人様は、 「今日蓮が唱ふる所の題目は前代に異なり、自行化他に亘りて南無妙法蓮華経なり」(三大秘法禀承事・新編一五九四) と仰せられ、大聖人様が建長五年四月二十八日に唱え出された南無妙法蓮華経は、いまだ誰も唱えなかったものであると説かれています。 さらに大聖人様は、 「仏の御意は法華経なり。日蓮がたましひは南無妙法蓮華経にすぎたるはなし」(経王殿御返事・新編六八五) とも、 「彼は脱、此は種なり。彼は一品二半(いっぽんにはん)、此は但題目の五字なり」(観心本尊抄・新編六五六) とも仰せられるように、この南無妙法蓮華経は釈尊の法華経とは異ったものであると示されています。 では南無妙法蓮華経のほんとうの意味はなにかというと、 「無作の三身とは末法の法華経の行者なり。無作三身の宝号を南無妙法蓮華経と云ふなり」(御義口伝・新編一七六五) と説かれています。すなわち無作三身(宇宙法界を我身・我体として悟られた根本の仏)とは法華経の行者のことであり、その仏名を南無妙法蓮華経と称するのであるというのです。ここでいう法華経の行者とは日蓮大聖人様にほかなりません。これについて、さらに、 「本尊とは法華経の行者の一身(いっしん)の当体なり」(御義口伝・新編一七七三) と仰せられており、法華経の行者の当体こそ一切衆生を済度する本門の本尊であると示されています。 したがって南無妙法蓮華経とは本門の本尊のことであり、法華経の行者日蓮大聖人様の当体なのです。 大聖人様は、 「本尊とは勝れたるを用ふべし」(本尊問答抄・新編一二七五) と私たちに本尊の大切さを教えられています。 いかにお題目がありがたいといっても、日蓮宗各派のように、釈尊像を拝んだり、竜神や大黒天あるいは稲荷に向かったり、さらには霊友会や立正佼成会のように死者の戒名に向かって題目を唱えることは、本尊と題目がまったくちぐはぐなものとなり、大聖人様の教えに背く悪業を作ることになります。 人でも自分と違った名前をいくら呼ばれても返事をしないどころか、かえって非礼にあたると同じ理屈です。 せっかく日蓮大聖人様を崇め、南無妙法蓮華経の題目を唱えるのですから、大聖人様の御真意に叶った正しい御本尊に向って唱題すべきです。 如何でしょうか?
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- fukuyori
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見守っていましたが、ご質問に対するストレートな回答が出てこないようですので、書き込みます(部分的にかも知れませんが法華経をお読みのようですので、既にご存じのことかも知れませんが)。 法華経が何をいっているかについては、古来、「二乗作仏」「久遠実成」の二つがいわれます。前者は、法華経以前の大乗仏教が小乗仏教(=二乗)は成仏できないと非難していたのに対し、二乗でも仏の真実の教え(=法華経)によって成仏できると説くもの。後者は、歴史上の釈尊は八十歳でお亡くなりになったけれど、それは後代の人々を救うための手法であり仏の本当の寿命は遙か昔から今に至るまで継続しているというものです。 蓮華については「不染世間法如蓮華在水」と経文にあり、泥の水の中から美しい華を咲かせる蓮華のように法華経の菩薩は世間の悪法に染まらない、という意味です(下記URLで解説しています)。「妙法」については一番の方が紹介しておられたURLにもありましたが、現代日本語で言う「妙な」という意味ではなくて、「正しい教え」を意味するサッダルマというサンスクリット語(古代インド語)を中国語に翻訳する際に「妙法」と訳したものです。 法華経の現代語訳については、残念ながらネット上で公開されている例を知りません(多分ないのでは)。一番の方が紹介しておられた本の他に入手しやすいものを挙げるなら、岩波文庫に全三巻で収録されていますし、もう少しすれば中公文庫の「大乗仏典」シリーズとして全二巻で刊行される予定です。 以上、お役に立てば(odd-artさんとの会話は興味深く拝見させていただいてます、どうぞお続けください)。
お礼
ありがとうございます! 仏の命が永遠であるということを言っているのはわかったんですが(知ってるだけです。)、小乗も成仏できるということもあったんですね。もとより法華経は、一切衆生を成仏させるものらしいので、小乗も大乗も関係ないですよね。 しかし、参考URLの蓮華の花のお話はたいへん参考になりました。ありがたい話ですね。その通りだと思います。 >法華経の現代語訳については、残念ながらネット上で公開されている例を知りません ついに、「やさしい法華経物語」というのを見つけました。かなり読みやすかったですね。案の定、分からなかったんですが、。(笑 http://www.sunlotus.org/index.html このページはいいですよ。綺麗でまとまってるし。ここのお話し(tale)というカテゴリにあります。 もしよろしければご一読ください。薬王の話とか、じゆの菩薩の話もありました。 >以上、お役に立てば 非常に参考にさせて頂きました!書籍の方も、機会があれば手にとって見たいです。ありがとうございました。
- odd-art
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どうも勘違いをされておられるようであります。 釈尊は、末法に御出現されてはいません。幸福の科学、GLA等では、上手く、自分達を仏陀と称しておりましたが、そのような証拠などはありません。 仏教では、文証・理証・現証の証拠により論じます。 末法というのは、釈尊が亡くなってから、五五百歳をいいます。 何度も述べますが、法華経二十八品は、三大秘法の仏法の序文として流通分として用いるのです。 ゆえに、日蓮大聖人様の「御書」こそ、われわれの正依であり、一切の思想哲学の根本と拝さなければならないものであります。 仏教は、因果の理法を無視するキリスト教等の造物神を邪宗としております。 本当に、正法正義を求められるのなら、我見にとらわれず、しっかりとした御指導と御本尊によらなければと存じます。 もう、この地球上等においても、(法華経というのは)「南無妙法蓮華経」しかないのです。他にあるとしたら、それは邪宗教の教義だからであります。 日蓮正宗では、他宗教を邪教として破折しております。 どうも、殆んど御理解されておられないご様子ですが、これは難信難解であり、「信」を持って知るしかありません。 他宗教を信じられておられるようでは、到底、無理からぬことでありましょう。 如何でしょうか?
お礼
>釈尊は、末法に御出現されてはいません。 うおーっ!これは僕のすごい勘違いじゃないですか!? >日蓮大聖人様の「御書」 これはどうしたら知れるのですか?調べて見ます。 >どうも、殆んど御理解されておられないご様子 やっぱりそうですよね。真理は深く細かいのです。実に、ほとんど解していません。(笑) >これは難信難解であり、「信」を持って知るしかありません。 まさに、その通りだと僕も思います。 >仏教は、因果の理法を無視するキリスト教等の造物神を邪宗としております。 造物神をダメとしてしまうことはわかります。その考えは、キリスト教の解釈で、異端とされる考えにもあるほどです。 ここだけはとくに、読んでいただきたいと思います。 実に、人間のために死んだ、キリストの行為を日蓮が知ったとしましょう。日蓮はキリストを非難するでしょうか?日蓮がキリストを非難しないなら日蓮宗の者もそれを非難しては当然いけません。実に、イエスが、衆生成仏のために生きた、日蓮の行為を知ったとして、イエスが日蓮を非難するでしょうか?イエスが非難しないならキリスト教徒もまた、日蓮を非としてはいけません。 >他宗教を信じられておられるようでは、到底、無理からぬことでありましょう。 僕は、無宗教です。経文より仏を信じます。聖書より神を信じます。 >本当に、正法正義を求められるのなら、我見にとらわれず、しっかりとした御指導と御本尊によらなければと存じます。 そのとおりです。ほんとにそうです。odd‐artさんのおっしゃっておられることは正しい。我見にとらわれてはならないのです。odd‐artさんには僕のいっていることが矛盾しているように見えられるかもしれませんが、本当はそうではないことを了解していただけると、うれしいです。僕は、一の言葉を百の言葉で解することが出来ます。千の言葉を一の言葉に解することが出来ます。それは、odd‐artさんももちろんそうです。しかし、たった一つでも、言葉を発する事の出来る者は、世には少ないのです。 >如何でしょうか? odd‐artさんのご助言、本当にありがたいものでした。感謝しております。日蓮の御書、ぜひ勉強させてもらいます。ありがとうございました。
- odd-art
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末法は万年とされています。 釈尊の仏法は、ここまでです。 あとは、日蓮大聖人様の教えに従うのみであります。ゆえに、日蓮大聖人様の「御書」こそ、われわれの正依であり、一切の思想哲学の根本と拝さなければならないものであります。 法華経に関しては、前前回にも述べたのですが、念を押すならば、日本国に御出世の御本仏・日蓮大聖人様が、 『今末法に入りぬれば余経も法華経もせんなし、但南無妙法蓮華経なるべし』 と明らかにお示しのごとく、末法の法華経とは、まことに三大秘法の「南無妙法蓮華経」にほかならないのであります。 日蓮大聖人様の仏法は今どこに!? しかるに、日蓮大聖人様が御出現されてから七百年が経過する今日、世の中に、日蓮宗を自称している宗派の、なんと多いことでしょう。戦後になって、雨後のタケノコのように発生した新興宗教の多くも、ただ南無妙法蓮華経と唱えれば尊しと思ってか、これを看板にして自分勝手な教えを説き、それが、あたかも日蓮大聖人様の教えであるかのごとく装っている、という有り様です。こうした仏法の破壊・混乱が、何故、起きたかと申しますと、それは、すべて「相伝」という重大事を無視するところに起因しているのです。しかして、日蓮大聖人様の仏法における相伝は、日蓮大聖人様から第二祖日興上人、日興上人から第三祖日目上人へと正しく受け継がれ、現在の第六十七世日顕上人に至るまで、「日蓮正宗・富士大石寺」にのみ連綿と伝わってきています。 付随しておくならば、 そもそも、仏が世に出現せられるのは、まったく偶発(ぐうはつ)的なものではなくて、一大事の因縁(いんねん)によるのである。「一大事の因縁」とは、『法華経方便品』に、 「諸仏世尊は、衆生をして、仏知見(ぶっちけん)を開かしめ、清浄(しょうじょう)なることを得(え)せしめんと欲(ほっ)するが故に、世に出現したもう。(中略)舎利弗、是(こ)れを諸仏は唯(ただ)一大事の因縁を以(もっ)ての故に、世に出現したもうと為(な)づく。」(法華経一〇二頁) と説かれるように、一切衆生を成仏せしめよう、との大目的である。 これを、インド応誕(おうたん)の釈尊についていえば、釈尊出世(しゅっせ)の一大事因縁は、法華経を説いて在世の衆生を成仏へと導くことであった(これを出世の本懐ともいう)。 日蓮大聖人様におかれては、『御義口伝』等に、一大事因縁とは事の一念三千・南無妙法蓮華経なり、と示され、さらに、 「余は二十七年(にして出世の本懐を遂ぐる)なり」(御書一三九六頁) と仰せられて、弘安二年十月十二日、事の一念三千の当体たる本門戒壇の大御本尊を建立せられた。この大御本尊の建立こそ、大聖人様出世の一大事因縁であり、出世の御本懐に他ならぬのである。 この本門戒壇の大御本尊は、末法万年にわたって一切衆生を成仏せしめる根源の法体(仏法の本体そのもの)であり、二十六世日寛上人が、「三大秘法を合する則(とき)んば但(ただ)一大秘法の本門の本尊と成るなり、故に本門戒壇の本尊を亦(また)三大秘法総在の本尊と名づくるなり」(聖典八六三頁) と仰せのごとく、本門の本尊・本門の戒壇・本門の題目という三大秘法の全てを具(そな)えて、欠けるところのない大御本尊である。 さて、こうした筋道の上から拝(はい)すれば、御本仏日蓮大聖人様は、末法の世に出世あそばされた大目的(一大事因縁・出世の御本懐)を三大秘法総在の大御本尊として、余すところなく成就(じょうじゅ)され、御入滅(ごにゅうめつ)なさったのであるから、この地球上の末法時代には、二度と再び出世あそばされないのである。 ゆえに、『法華経方便品』には、 「諸仏世に興出(こうしゅつ)したもうこと 懸遠(けんのん)にして値遇(ちぐ)すること難(かた)し」 (法華経一二五頁) と説かれ、御法主日顕上人猊下は、 「末法万年の間に、御本仏日蓮大聖人様が再び人間の形をとられてお生まれになるということは、二度と再びないのであります。そのかわりに大聖人様は、本門戒壇の大御本尊様として末法万年の闇を照らされるわけでございます。そこのところは、はっきりしなくてはいけません」 と仰せられている。 したがって、他の人師・論師や大衆であればいざしらず、御本仏に限っては、いったん出世の本懐を遂げられれば同じ時代に再び出世されることはありえない――この道理に違背(いはい)して、もし、大聖人様が再び末法に出世あそばされるというならば、大聖人様は七百年前、出世の本懐を遂げられずに、説き残しをされたまま御入滅された仏、ということになってしまう。御本仏に対する冒涜(ぼうとく)、これに過(す)ぐるものはないということであります。 如何でしょうか?
お礼
ずいぶんお世話をかけて申し訳ないです。odd‐artさんのご親切、たいへんありがたいです。 >現在の第六十七世日顕上人 この人は今生きているんですよね?この方は仏ですか? >「末法万年の間に、御本仏日蓮大聖人様が再び人間の形をとられてお生まれになるということは、二度と再びないのであります。そのかわりに大聖人様は、本門戒壇の大御本尊様として末法万年の闇を照らされるわけでございます。そこのところは、はっきりしなくてはいけません」 これは、おっしゃってられることはよくわかります。日蓮が人間として再び現れることはありません。しかし、末法万年のあいだに、仏は少なくとも二度は現れています。釈迦と日蓮です。ここらへんから、もしよろしければ、現代の仏に対するご意見を伺ってよろしいでしょうか。(これ以上のお世話をかけるのは、本当に無礼ですが、お気が向けばお願いします。) >大聖人様は七百年前、出世の本懐を遂げられずに、説き残しをされたまま御入滅された仏、ということになってしまう。 そういうことはないと思います。すべてを体現して、南無妙法蓮華経を説いていったのでしょう。無論、本懐をきっちり遂げて、入滅したとおもいます。 >一切衆生を成仏せしめよう、との大目的である。 法華経に、「私は繰り返し現れる。その寿命は永遠である。しかし、あえて皆前で入滅して見せるのは、あなた方が私に頼りきって、怠けてしまわないためである。仏に出会えるものは少ない。だからこそ、一心に精進しようという心があなた方に起こる。」というようなことが書いてました。法華経は繰り返し現れるのです。もちろん、出会える者は少ないのですが、。だからこそ、釈迦が現れ、日蓮が現れたのではないでしょうか?おそらく、永遠に、あらわれて、入滅する、を繰り返すのでしょう。その偉大な慈悲。 すなわち、法華経は今に見出す事が可能ということです。日蓮にそれを見出すのか、釈迦に見出すのか、キリスト(異教)に見出すのか、おのずの世界に見出すのか、それはドコでもいいのだと思います。なぜなら、法華経は、永遠に繰り返し現れ、また永劫に繰り返し入滅するからです。つまり、いまということです。今、すべてに法華経はあるのです。 このような結論に至ってしまったのですが、odd‐artさんのご意見を伺えるとありがたいです。しかし、ずいぶんお世話をおかけしました。お気が向けば、お時間あいたときにでも、お返事いただけるとありがたいです。 >如何でしょうか? 十二分ですよ!odd‐artさんの忍耐ある親切な対応に、とても感謝してます!ありがとうございました!
- odd-art
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法華経は、末法の御本仏が予証されております。 難信難解とされていますから、私達凡人には、なかなか理解することは難しいことなのであります。 大体、今の宗教家という連中すら理解出来ず、間違えているのですからね。 末法においては、前回に述べたように、序文の流通分としてしか用いないのですが、釈尊一代五十年の説法のなかで、最高真実の教は法華経です。 では、何故、法華経が最高真実かといいますと、一念三千の法門といって、老若男女・善人悪人を問わず、一切衆生をその身のままで成仏せしめる大法が説かれているからであります。 この法華経二十八品には、本門と迹門とがあります。 まず迹門とは、垂迹・・・仏が衆生を化導するために、迹を垂れる(真実の仏の姿を隠して化身として現われる)こと・・・した仏(迹仏)が説く法門のことです。 これに対し、本門とは、本地・・・真実ありのままの姿・・・の仏(本仏)が、その真の悟りを説き明かした法門のことです。 この本門と迹門の関係は、太陽の光が本門、そして太陽の反射した月の光が迹門にたとえられ、ちょうど本体と影の関係にあたります。 釈尊は、法華経に、末法に日月の光明のごとき大人格者が出現され、経文に示される種々の大法難を体験して、法華経の肝心要の法を説き弘めることを予証しています。 末法に弘通される法華経の肝心要の法が、すでに白法隠没した釈尊の法華経ではないことは自明であり、釈尊の末法に関する予証も、釈迦仏法にかわる、末法のための最高真実の仏法が出現することを示しているのです。 しかして、釈尊の種々の予証を寸分違わず身に実証され、末法のために、法華経の文の奥底に秘められた肝心要の法を説き弘められた御方こそ、全世界において日蓮大聖人様ただ御一人であります。このことは歴史に照らしても明らかなところであり、大聖人様の三大秘法の仏法こそ、末法の長い闇を破って民衆を救済する、前代未聞の大白法なのであります。 如何でしょうか?
お礼
>末法に弘通される法華経の肝心要の法が、すでに白法隠没した釈尊の法華経ではないことは自明であり、釈尊の末法に関する予証も、釈迦仏法にかわる、末法のための最高真実の仏法が出現することを示しているのです。 末法の、その時々に、そのときのために、仏法が出現するということですね。釈迦が言う法難を身で示し、仏法として出現したのが日蓮ということですよね。 しかし、末法の世はまだ続いています。日蓮の出現した時代から、数百年、日蓮仏法は今の時代において白法隠没してはいないのでしょうか?現代の法華経は日蓮の示した仏法なのか、現代という末法にまた新たな仏法が変わらぬ真実を伝えるために出現するのか、最高真実の仏法は現代において、今においてどのような形であるのか? 日蓮が今においても法門であるなら、その法門、現代においてどの様にあるのですか? 又、日蓮のひろめた法華経の肝心要は何ですか?何と問うのがおかしい事はわかるのですが、今に残る日蓮の法門、少しでもいいですのでお聞きかせさせてもらえるでしょうか?
- mimidayo
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http://www.seiya.co.jp/sho2/book4.html http://www.shunjusha.co.jp/book/11/11182.html 本です http://www.ceres.dti.ne.jp/~kosho/kyo_001.html
お礼
ありがとうございます!早速行ってみます!
お礼
よく来て頂きました。ありがとうございます。 >法は、白法隠没とされ、釈迦仏法の効力がなくなっております。それなのに、現代語訳を論じ学んだところで、何になるというのでしょうか? ほんとにそう思います。当時のインドで、仏陀に直接話して欲しいと思います。まぁ無理なんですが、、。古代サンスクリット語で読むのも無理、漢語も無理、累々と時を経て、現代語となったお経に、残る光を読み取りたいのです。日蓮に話をしてもらうことも出来ないし、、、。 >法華経の行者の当体こそ一切衆生を済度する本門の本尊であると示されています。 日蓮=釈尊 ということですか?それとも日蓮が釈尊の意(法華経)に従っている仏だということですか? 重要なのは法華経の行者の当体であり、「すなわち無作三身(宇宙法界を我身・我体として悟られた根本の仏)とは法華経の行者のことであり、その仏名を南無妙法蓮華経と称するのであるというのです。」ということですか? つまり、末法の世に、実に生きている仏こそが、南無妙法蓮華経であるということですか? 漢字が読めずに苦戦しましたが(笑)、odd‐artさんの解説をがんばって理解したように思いますがどうなんでしょうか?宜しくお願いします。