手元にあるのがハードカバー版なので、ページ数がちがいます。
念のために確認しておきますが、第三章「思考のイマージュ」の“思考とドクサ”というパラグラフの最初から三分の二あたりにある箇所ですよね?
正確を期すならば原文を参照するしかないのでしょうが、残念ながらわたしの手には余るので、とりあえず翻訳された本文から意味をとることにしましょう。
> 「新しいもの」は、
> 「再認の威力群ーここで列挙されている威力・悪しき意思・意気喪失など」の(中から?)それらのネガティブな要素を(かいくぐって~~)
> 「思考にやってくる」
のではなく、本文にあるとおり、
「新しいもの」は「威力」「枢要な悪しき本性と悪しき意志〔やる気のなさ〕」「枢要な意気阻喪」から「思考にやってくる」のです。
「かいくぐって」などとはどこにも書いてありません。
その前の「第一の公準」~「第三の公準」をもういちど読み直してください。この章で問題になっているのは、「思考」、すなわち「新しいもの」の始原はどこにあるのか、ということです。「思考」というものは、これまで西洋哲学ではどのようなイメージとしてとらえられてきたか。
そうして「思考者の良き意志と思考の正しき本性」という「哲学の暗黙の前提」が批判されています。ざっくりと言ってしまえば、そのようなものは「再認」でしかなく、「思考」ではない、と。
だからこそ、「新しいもの」とは「再認とはまったく異なる」「力」を「思考のなかで駆り立てる」ものである。そうしてそれはどこから来るかといえば、「悪しき本性と悪しき意志……」などからやってくる、と続いていきます。
ふたつほど先へいって“諸能力の差異的=微分的理論”というパラグラフにはこのような文章があります。
「思考において始原的であるもの、それは不法侵入であり、暴力であり、それはまた敵でもあって、何ものも愛知(フィロソフィー)〔哲学〕を仮定せず、一切は嫌知(ミゾゾフィー)から出発するのだ」(p.218 河出書房新社)
ここと対応するのがご指摘の文章であるといえるでしょう。
この本のキモ、というか、やっかいなのは、つぎの第四章のシステムのところなので、細かな語句にとらわれず、大きく論理の流れをつかみながら読み進んでいってください。
お礼
ご回答ありがとうございました。 ドゥルーズは、(そこが魅力的なところでもあるのですが) 概念の使い方に、天の邪鬼なところがあって、 時々迷ってしまう事があります。じっくり読んでみようと思います。