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決定論

(1)意志の自由(自由意志を持つこと)、(3)(自由意志に基づく)行動の実現。 (1)を持つことから(3)がきちんと達成されるまでの過程に「決定論」の成立がどう関わるのかということを、「決まる」と「決める」の区別を含めて論証してください。 何から調べればいいのかわかりません。見解をお持ちの方がいらっしゃれば教えてください。 参考になるサイトが有れば教えてください

みんなの回答

  • amaguappa
  • ベストアンサー率36% (140/385)
回答No.7

大学の授業に出ていても、どこから手を付けたらよいかわからないのですか? ふつうの教師は授業と関係ないレポートは出さないと思うけどなあ。 わたしなら、テレーズ・デスケルウやボヴァリー夫人を例証に挙げ、テーヌの決定論「時代」「場所」「民族」の三要因を分析する。 おまけにポランスキーの映画『テス』を傍証に組み込み、三要因を超越した要因について考察する。 やってみるといいと思いますが、何故こんなことをしたと聞かれたら正直にネットで聞いたと言った方がいいんじゃないかな。この回答を見ただけで自力でまとめられたらたいしたものだもの。

milk1618
質問者

お礼

回答ありがとうございます。参考にさせていただきます。 ちなみに私は通信制の大学に通っていいるので、授業はありません。 なので回答者さんたちの意見が、すごく勉強になります☆

回答No.6

 横入槍之進です。  見栄を張るのも 目先の利益に目がくらむのも およそ悪事をたくらみこれを実行するのもみな 自由意志のしわざです。  世の中には 悪事が三度の飯より好きというの手合いが まだいるようです。  悪のばあいには 機能が変になっているということではありません。    正真正銘 自由意志がはたらいています。  ここから・つまり この意志自由という共通の地盤に立って コミュニケーションを互いに図らねばなりません。

milk1618
質問者

お礼

回答ありがとうございました。

回答No.5

>意志の自由が行動の実現へと達成される過程は、意味を持たないということでしょうか? 「自由意志」の『自由(自らに由る)』が、真の『自』ならば、 宇宙=自己(自らに由る宇宙)として、完全な自由が可能 なのに対し、不完全な自覚による意志が、他律的(~虚栄心) だったり、即物的(~短絡的利己)に誘引される時、自己矛盾 としての意志の阻害(他律的因果律)は生じるのです。

milk1618
質問者

お礼

その決定論がどのように関わっているのか。調べてみます。 回答ありがとうございました。

回答No.4

「意志の自由=心」、「意志による行動=存在」だとすれば、 量子論的世界像において、心=存在となる時、その分別は 本質的意味を持ちません。 認識性を除外した存在は、無=無限不確定性になります。 その無限の闇に、認識体の仮定断面の運動を想定すれば、 相対的に無の風は光になり、認識体はその光(量子相互 作用パターン)の向うに、自己の補完(相補的不確定性)と しての宇宙を認識するのです。 潜在的認識可能性(感受表面=現在=光速)からの、自我 仮説(記憶=時間の流れ=過去=超光速)と時空仮説(予測 =空間の広がり=未来=光速下)の相補分化(階層現象表面 的定性化による非光速性)として、宇宙が派生している場合、 全てのものは、あなたが存在するための(物理的根源にまで 遡った)補完だと言えます。 全宇宙の全てが「あなたが存在するための必要」だとするなら、 なぜ、意志の通りにならないのでしょう? それは、そうした自己存在の本質に根ざした自覚ではなく、 階層現象表面的な定性化による物質的な自己(肉体)に 拘束され、即物的な欲望や短絡的衝動に支配される時、 「自己矛盾」として対立(外的存在性)するのです。

milk1618
質問者

お礼

意志の自由が行動の実現へと達成される過程は、意味を持たないということでしょうか? 回答ありがとうございました。

回答No.3

 ★(No.1お礼欄) 回答者さんの見解は、決定論と自由意志は両立しないというものですね。  ☆ 精確にのべます。  決定論は もし或る人がその主観の内で世界はそのとおりに(つまり 決定論の言うとおりに)出来ていると思ったとしても そこまでの問題です。それ以上は話を伸ばすことは出来ません。主観の内にとどまります。  言いかえると 決定論のごとく世の中は成っているかについては それが人間にとって分かるか分からないか これが 分かりません。  このことと ひとは自由意志がそなわった自然本性として生まれて来ているという仮説とは けっきょく相いたずさえて成り立っている世界観だと思われます。  となります。  早い話が 或る人が おれは決定論で生きるのだと言ってそのように生きた場合 それも 自由意志による選択に発すると見られます。このように自由意志は位置づけられるものです。

milk1618
質問者

お礼

なるほど。 決定論と自由意志の関係がわかったようなわからないような・・・ 自分の言葉で説明するのは難しいですね・・・私の勉強不足です。 回答ありがとうございました、参考にさせていただきます。

noname#194289
noname#194289
回答No.2

一つの考え方に熱力学第二法則を適用する考え方があります。自由意志はこの法則に逆らうように見えます。生物がその実例です。生きているということ自体が自由意志ということではないでしょうか。しかし生物も実はこの法則に逆らっているわけではないことが知られています。つまり自由というのは不自由を利用してのみ実現可能ということではないかと思います。

milk1618
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 熱力学第二法則を調べてみます。 これがわかれば、生きていること自体が自由意志ではないこと、しかしそれに基づく我々は熱力学第二法則に逆らっているわけではないことがわかるのかなぁ・・・

回答No.1

 こんにちは。  1. まづ 《決定論》というのは そもそもの話が 成り立ちません。  2. 仮りに人間の思いや振る舞いが前もって決まっている(もしくは決められている)とした場合 その場合でも そのような決定という事情についてわれわれ人間はいっさい分かりません。  3. 決定されていたということがもし分かるという場合は あくまでその人の主観の範囲内でのことです。    4. 一般に普遍的な見方としては 《決まっているかどうか》あるいは《決められているかどうか》については それは人間が分かるか分からないかが分からないということになります。  5. 《分かるか分からないかが分からない》ゆえ 人によってはその主観の内部で《分かる》つまり《あらかじめ決まっていたと分かる》という場合があり得ます。そうして そこまでです。それ以上は 不毛の議論になります。    6. もし自由意志というものを 《自分の思いどおりにことをおこなうことであり そのチカラである》と規定するとしますと――つまり ほんとうはそうではないはずですが―― およそこの世の出来事は ひとりの人間の出来ることと言ってそれは限られていますから たいていが 《自由意志は存在しない》というひとつの結論にたどり着くもののようです。  7. 一般にその場合言えることは 遠くその昔からまた広くほかの人びとや社会とのあいだで そもそも人がおのおの自由意志のまにまに考え振る舞って来たその結果として いまの状態としては この自由意志が発揮される余地がなくなって来ている。のだと見ます。  8. 言いかえると そのように自由意志の発揮される機会が少なくなって来たというのは ふたつの側面があります。  9. ひとつには 近親婚の禁止といったナラワシのように――と言っても いまでも 婚姻とは別に近親姦は自由意志のよく成すところであるのかも知れませんが―― 《自由》の問題をよく考えた結果 それは自由である必要はないと人びとが見なしたから 自由意志の余地を残さなくなったという場合です。クローン人間なんかは どうでしょうね。  10. そのようなおそらくしかるべき自由意志の発揮という主題をめぐる場合のほかには 要するにありとあらゆるワルイことを考えこれを自由意志のまにまにやりからかした結果 その同じ自由度のことしかもうやらかすこともなくなったという側面 これがあります。  11. あるいは そのような無法地帯にも自由意志を思う存分発揮するのだというパイオニアたちが開拓し暴れ回った結果 どういう状態になったかと言えば 世の中は けっきょく早いもん勝ちであり声の大きい者がのさばり おまけに社会という家が 国家というかたちの二階建てになってしまっている。  12. これはどう見ても モノがつまりエネルギーと成りうるモノの自己運動が人の手に負えないというそのことと同じであるかのように 社会としてのチカラ関係がモノとして成り立ち この力学に従って人びとは動いているということになりましょうか。  13. この側面つまり 社会力学としての世の中の動き これについては たいていの人はお手上げになる。つまり 自由意志の出る幕はないとなる。  14. 問題は 自由意志については ひとつに 自由意志をなくすのも自由意志のなすところだということ――つまり自死は 自由意志の成すところです――。ひとつに 自由意志が内面においてあたかも良心のごとく命ずることを 同じ自由意志が曲げる・それをひっくり返すというのも そのとおりに自由意志の発揮となります。  15. そして――さらにひとつに そして―― 一般に 自由意志を発揮する余地などないと捉え その情況と自分の置かれた・相手との位置関係より自由意志を抑えあるいは放棄して その社会力学の命ずるところにしたがうという行為 これも じつは 自由意志の成すところであるのです。  16. 自由意志は おのれ(つまり意志自由)を発揮しえないと見たとき そのようにする(つまりおのれの自由意志を出さない)のは これも自由意志のしわざです。奴隷が その状態に甘んじるのも 反抗するのも すべてみな 自由意志の成すわざです。ほかに見方はありません。  17. ほかに見方はありません。言いかえると ひとは この自由意志をそなえた自然本性として生まれて来ています。それよりほかの仕方で ひとの存在が成り立っているという気遣いはありません。あり得ません。これが 人間に生まれたという人間の条件です。  18. 自由意志をそなえた生物として生まれて来ているという条件 これは 人間にとってそうとすれば《決定論》であるかも分かりません。  19. でも決定論は 人間にとってあり得ない相談です。そもそも決定論は成り立ちません。  20. では ひょっとして 神にとっては決定論はあり得るのか? さあ どうでしょう?

milk1618
質問者

お礼

回答ありがとうございました。 回答者さんの見解は、決定論と自由意志は両立しないというものですね。

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