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意志決定における情報AとBとC
個人内部における意志決定に関する質問です。 〇 情報Aは、五感という感覚を通して入ってくる連続的で確実性のある情報です。 〇 情報Bは、知識や記憶という非連続的で、ある程度確実性のある情報です。 〇 情報Cは、第六感や閃きという突発的で、非確実性の高い情報です。 個人内部の意志決定において、これらの情報の果たす役割の優位性の序列は 一応、ABCの順序になっているかのように見えます。 また、これらの複数の情報の存在は、意志決定の過程において、その選択が単一的選択ではなく、複合的選択であることを示しているようにも見えます。 以上からですが 複数の情報を同時に扱って意志決定を下す、ということにおいて 情報ABCの優位度とは実際にどのようなものなのでしょうか? 個人差を除外した一般論とします。
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- kurinal
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hetanosuke様、こんばんは 「情報A」は、歴史?というのでしょうか、理系とか文系とか 「情報B」は、もっと卑近的な、「経験的に間違いの無い」というくらいでしょうか? 「情報C」は、「より将来に向かって」と言えば、聞えはいいかも知れないですが、 あるいは、hetanosuke様とは、情報Aと情報Bの捉え方が、違うかも知れません。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
- ベストアンサー率16% (203/1213)
ほかの方の回答を待っていました。 ですが つづけて投稿します。 ★(1) (No.3お礼欄) 五感を通して入ってきた情報Aは、瞬時に知識や記憶といった情報Bと照合されているのだと思います。 ☆ たとえば目上の人間と相い対していてその場で 暑苦しいとか何故だかどこか気分がよくないとかいった感覚をおぼえたとします。つまり《五感を通して入ってきた情報A》です。 感性として知覚したあと《気持ち悪い》といった――言葉をとおしての・つまり概念としての――認識を持ちます。概念をとおしての事実認識を得ます。 これが《気持ち悪い》という概念だというのは それまでの生きて来た経験を記憶したその情報全体と照らし合わせて確定します。 これはこれで いったん落ち着きを得た情報として記憶に納められます。言いかえると やがてこの情報 A は 情報の性質に応じた分類としての《情報 B 》に成るとも言えます。実際の感覚と直接につながっている間は 生まの情報 A です。 ★(2) ~~~ 明確で限られたAに対して、蓄積されている膨大な量のBとの照合の働きを担っているのは感性における直観の働きのようです。 そこには情報の符号化といった検索方法があるようにも思えます。 ~~~~~ ☆ いえ。ただちに情報 A が 情報 B と照合されるわけではありません。照らし合わされたのは 情報 A が 《気持ち悪い》という概念なのだと特定するためにだけでした。《情報の符号化》と言いますか この場合は 《情報の概念化》だと思います。感覚内容の《言葉化》です。 ★(3) 感覚に付随して直観の働きが常にあると思っていいのではないでしょうか。 ☆ これは 《何だかヘンだ》と感じたときの《概念化つまり 言葉の特定》のための照らし合わせの作業です。感じやイメージという意味での直感ではなく 直観は感覚をも概念思考へつなげようとします ひとの知解能力がです。 ★(4) ともあれ、AによってBが喚起されている状態なのだと思います。 ☆ これもまだそういう段階ではないように思います。言いかえると まだまだ知解能力による事実認識の段階までであって 情報として捉えそれを整理しておくまでの作業だと思うからです。 その限りで B は喚起されますが これはまだ A や C やとくらべてその有効性ないし有用性を判断するための優位度を決める段階ではないと見るからです。 ★ そこには主観を抜きにしたAの優位度があるのではないでしょうか。 ☆ この主観が 優位度を決めるときの意志決定なる判断だとすれば そのとおりです。ただし その場合は 優位度はまだ問題にはなっていません。《気持ちわるい》という概念化とその整理までです。 言いかえると 何のためにこの《気持ち悪い》という情報 A を使うかが決まってから 優位度は ほかの情報とくらべて決められて行きますから。 情報の絶対優位度といったものは ないと思います。一つひとつの言葉に 優劣をつけるようなものです 絶対優位度というのは。 というコトは優位度が問われるときにはすでにつねに 意志決定がともなわれて来ます。意志決定するということは 情報それぞれのあいだの優位度を決め取捨選択するということです。この場合も A や B や C やという区別とその確実度は ほとんど決定的な要素とはならないと見ます。現場における主観が 総合的に判断すると見ます。 という筋においてでしたら ★ 選択において主観が働いていても、それ以前の照合においては主観は働いてはいない・・・と思うのです。 ☆ となります。この主観は 知解行為としてのそれではなく(つまり 知解としての主観ならはたらいています) 意志判断としての主観です。それは《選択の以前の照合においては》まだ はたらいていません。情報 A をそれとして言葉によって特定し記憶の倉庫にしまい込むための整理整頓だけの段階です。 ★ すでにAなくしてはBはない、というところにAの優位度があるように見えます。 ☆ これは 視点が別の主題です。感性と理性とは 互いにどのように違っているかという視点のもとに発せられる主題であり問題です。 身体への神経刺激を経てその感性を得たところから その事実認識として知解が始まります。概念化し得たなら 知解ないし理性の扱う対象としての情報になります。つまり 情報 A が情報 B として扱われるようになっていきます。 つまりは 《気持ち悪い》と思ったら どうもこのわたしの目の前のおっさんは じぶんの意識という意識を――どこか虫の居所がわるかったからか あるいは何かそのおっさんのさらに目上の人間から納得の行かない冷遇を受けたからか――わたしに向けて まったく勝手に排泄しているではないか。ガミガミ電波である。 それは わたしと関係ないことだ。おっちゃん ええ加減にしといてや というすでに意志決定が――まだ選択肢としてですが――わたしの中に起こります。 もしこのとき情報の優位度を考えるとすれば こうです。 たとえばこの際ひどい仕打ちに遭っているが だとしてもこの目上の人間は いま怒らせてはならない事情がわたしにはある。となれば どうするか? それでも強行突破するか。それとも いやいや待てよ ここは自重すべきだとなるか。 というようであると考えますが だとしたら 優位度の決定は そのときの相手や情況を勘案したあとでの意志決定のことである。となります。どの選択肢をえらぶかは それぞれ人によります。主観によります。 人によっては 科学的な認識として何がもっとも妥当であるかとか あるいは 倫理規範の問題としていちばんとうとばれるべき判断は何かとか 考えるのかも知れません。 ですが これらもすべて主観によっています。科学を判断の基準とするかあるいは道徳をそれとするか これらも そのときの相手や情況におうじて当の本人が主観によって判断するというかたちです。 いちばんいいのは われもかれもともに生きる・そしてそれぞれの持ち前の能力が自由にじゅうにぶんに発揮されるようになること を判断基準にすることです。ですが それは 情報はぜんぶうたがえ ただしその場でいちばん妥当だと思う方法をえらべ という方針に帰着するのではないか。 つまり 情報の確実度は その共生という判断基準のために仕えるものである。優位度は 情報それ自体としての絶対優位度はないと考えて 相手にも自分にもいちばんいい方法をえらぶ。こういうことになろうかと。 こういったところでしょうか。どうでしょう。
お礼
ありがとうございます。 お答えを一通り読ませていただいて痛感することは 人間内部における情報処理の解明が私自身において不足している、ということです。 それはBさんの反証をもってしても、一可能性として認めるという範囲を超えられないところに表れているようです。 たとえば >。《情報の符号化》と言いますか この場合は 《情報の概念化》だと思います。感覚内容の《言葉化》です。 この説明の合理性を受け止めることはできても、概念としての浅い定着を超えるものには至らない・・・ 直ちに反証が生じてしまう一可能性としての結論なのだと・・・ (反証内容は、情報が符号化されるのではなく、符号としてのみ情報が存在するかもしれない、符号に対する既成的な照合・選択としての言葉がありうる、言葉という概念は符号そのものを超えるものにはならない・・・) といった感じです。 結局、情報処理の解明が進まないことには答えが得られないのでは、と思ってしまいます。 愚問であったのか、とさえ感じます。 でも、まだ諦めないでおきましょう。 向こうから答えがやってくる・・・ C的な感覚が身についてしまった私には、そんなふうに思えるのです。 向こうから来る答えが、どのような形になるのかは分かりませんが・・・ だいたい簡単な場合が多い・・・ Cへの依存は危険ですが、最終的なヒントを与えてくれることはあるものと思っています。 皆様からいただく答えの中にも、Cが含まれる可能性があります。 これからも沢山のヒントを期待します。 Bさんのお答えも立派なものとしていただいておきます。 ありがとうございました。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
- ベストアンサー率16% (203/1213)
No.2です。 たぶんひとつの見方を提出しているのみだと思いますので 手短かにお応えします。 1. 情報の優位度が決まるということは 意志による決定があったということと理解します。ふたつは 別のことではないのだと。 2. 実存とは 情報の取捨選択をふくみます。また 優位度を決める意志決定をふくみます。 3. そして優位度を決めるというのは 《特定の主題をめぐって 相手や情況やを勘案して》おこなうのであり これが最終の意志決定となります。 4. ただし確かに《情報の取捨選択》という場合は それをまだ特定の主題や問題が明らかにならない前に おこなうこともあり得ます。つまり 優位度を 相手や情況とは関係なく決めるという場合です。つまり それは 実際の優位度ではなく 準備段階として一たん 個々の情報を整理しておくといったかたちでおこなわれるものと考えます。 5. 情報の中立性というのは いまの準備段階としての取捨選択を 一たんとしても おこなわないでおくという意味になると見ます。言いかえると 一たんおこなったあとにおいても あらためて白紙に戻すというような行為のうちに担保されるようなことだと見ます。 6. 一般に情報の取り扱いは すべて主観が決める。ということだと見ます。
お礼
幾度もありがとうございます。 1.について取り敢えず述べます。 情報の優位度の決定と意志の決定は同じである・・・ でしょうか? たとえ複雑であっても性質が同じである情報ならばそうかもしれません。 前回の質問のように、外部情報のみの場合でしたらそうと言える感じもします。 しかし、今回は性質の異なる情報の、しかも意志の決定の過程における優位度を問うています。 AとBにおける情報処理の動きを推し量ってみたいと思います。 そのへんからだいたいの察しがついてくるように思えるのですが・・・中々・・・ 五感を通して入ってきた情報Aは、瞬時に知識や記憶といった情報Bと照合されているのだと思います。 明確で限られたAに対して、蓄積されている膨大な量のBとの照合の働きを担っているのは感性における直観の働きのようです。 そこには情報の符号化といった検索方法があるようにも思えます。 感覚に付随して直観の働きが常にあると思っていいのではないでしょうか。 ともあれ、AによってBが喚起されている状態なのだと思います。 そこには主観を抜きにしたAの優位度があるのではないでしょうか。 選択において主観が働いていても、それ以前の照合においては主観は働いてはいない・・・と思うのです。 すでにAなくしてはBはない、というところにAの優位度があるように見えます。 ですが・・・ この見方には何か欠けているような感じがしてならない・・・ そう単純ではない気がします。 その何かを知りたいと思います。 Cを含めるとさらに複雑、といった感じさえします。 Cの一種には、照合すべきデータがまったく無いといったものもあるように思います。 その場合には未分析という選択を主観がせざるを得ない場合もあると思います。 照合すべきデータが少ない、ということであれば優位度は低いのかもしれませんが 照合すべきデータがまったく無い、といったことが生じた場合はどう扱ってよいのか そこにおける優位度とは・・・ まだまだですね。 ヒントを与えてください。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
- ベストアンサー率16% (203/1213)
こういう考え方もあるというのをのべます。 すべて主題に応じて情報を活用するという行き方です。 問題に即して 情報の良し悪しを判断します。 そのときの良し悪しにかんする決め手は 主題に対して回答となるかどうかあるいは問題に対してそれを解決しうるかどうかです。 そのとき 相手の状態やその場の情況がどうであるかに合った内容のもののほうが 情報はそのそれ自体の確実度よりも 有効性を持つ場合さえあろうかと考えます。 そしてともかくおのれの世界についての全体観から 情報一つひとつの取捨選択をおこないます。 ですから この方針は ★ 個人差を除外した一般論とします。 ☆ の前提に背くかに見えるかも知れません。 でも そうではなかろうと思うので回答しましたが ★ 情報ABCの優位度とは実際にどのようなものなのでしょうか? ☆ にかんしては こうです。優位度は その情報の確実性いかんによるのでは必ずしもなく 当面する問題に応じて決まる。こう考えます。つまり 確実性というのは すでに述べましたように 似たり寄ったりであって ぜんぶ疑えという方針をも合わせて持っていますので このようになります。 情報ABCの中から 適宜に必要・有益なものを取り出して用いる。です。優位度は 相手と情況に応じて判断する です。
お礼
情報が特定の主題に対してもつ有用性において優位度が決定する、という事は分かりますが この質問では、意志の決定という、人間内部の情報処理の一端を尋ねています。 意志の決定の過程における、様々な情報の優位度を問いています。 疑う、という意志の決定後からみた優位度ではありません。 そのへんをご承知ください。 また、情報のぜんぶを疑え、と仰っていますが 失礼ながら、多少主観的な偏りがあるように感じられます。 今までに幾度もお聞きしていますので、そのへんに対する私なりの感想を補足の欄で書いてみることにしました。 少し漠然とした内容ですが、情報に対する姿勢を汲み取っていただければ良いものと思います。
補足
情報と実存への問いかけ 実存は情報になりうる。 だが、情報とは実存そのものではない。 実存そのものではない情報とは、実存の情報としては不適格な要素を有する。 情報とは実存を表す度合いであると共に、実存ではない度合いを有する。 では、人が知る実存において、それをもたらしている情報とは どれほど実存を表しているのだろう? 知覚の及ぶ最大の範囲であったとしても、実存の全てではない。 それとも、知覚の及ぶ最大の範囲が実存なのであろうか・・・? 客観的実存と主観的実存は一致しない。 だが情報とは、それらを分かつためにあるものでもない。 多様な実存の証明の立場における情報の求められる性質とは、あくまで中立である・・・ つまり、始めから情報が実存を表している、いない、という主観的前提には危険性が伴う。 情報を受け取る以前に、主観がどちらにか傾いた状態であるならば、情報はその中立性を失ってしまう。 中立性を失った情報とは、すでに選択を経た情報として処理されてしまうおそれがある。 情報の中立性とは、いかなる前提や選択の束縛をも受けていないところにあるのではないだろうか・・・。
少し私見を交えて前提条件を編集します。 情報Aの2次段階で、感情という層があります。これは生理的な、生物の生来のものに近い判断システムで、いわゆる好き嫌いがこれにあたり、人間のA入力は反射的な判断となって、出力はほとんどこれを経由してなされていると思われます。 情報BにA情報が入って、そこで思考され、判断される行動は、優位性で言えば前記よりかなり劣ります。 情報C は Aに属するものと、B にぞ属するものとあるようで、これが判断にかかわることは更にすくないのではないでしょうか。 仰る序列はおおむね当たっているように思われます。 確かに情報の確実性でくくれば妥当なのかとも思えますが、より複雑になった人間の環境、社会性を考えれば、はたしてそれが実際に確実な選択なのかはわからなくなりますね。
お礼
ありがとうございます。 >情報Aの2次段階で、感情という層があります・・・・・ >情報BにA情報が入って、そこで思考され、判断される行動は・・・・・ >情報C は Aに属するものと、B にぞ属するものとあるようで・・・・・ それぞれの情報処理の内部的段階や 情報相互の融和性、照合性がある・・・と受け止めさせていただきました。 そうした解釈からは、単純に優位度を決することは難しいのかもしれません。 >おおむね当たっているように・・・ 当たらずとも遠からず、といったところでしょうか。 皆さんのお答えを基に深めていきたいと思います。 >確かに情報の確実性でくくれば妥当なのかとも思えますが、より複雑になった人間の環境、社会性を考えれば、はたしてそれが実際に確実な選択なのかはわからなくなりますね。 意志の決定に対する疑問でしょうか。 選択の結果に疑問は付きものだと思いますが 私はこうした人間らしさは悪くないものと思っています。 迷いながら選択や決定を下し、その結果にも疑問を抱いてしまう、といったことを繰り返すところに人間らしさがあるように思います。 常により確実な選択を求めていく・・・といった迷いながらも前向きな姿勢でいいのではないでしょうか。
お礼
いくつものヒントありがとうございます。 Aに対して「歴史」というのは面白いと思います。 切れ目のない時の流れの中で生きている自分が知るのは 「生きた積み重ね」であり「生きた歴史」です。 質問の設定は時間軸を定めてはいませんが、鳥の眼でみるといった事も面白いと思います。 私はどちらかというと、魚の眼でみていたのかもしれません。 Bについては、確定度の違いをもつデータの蓄積、という見方でしたら大差ないと思います。 Cについては・・・ >「より将来に向かって」 行く働きと・・・と述べたいのでしょうか とすれば一面的には当たっていると思います。 ですが、それはあまりにも客観的すぎる見方です。 Cの受容における主観の存在を無視しているように感じられます。 維摩の一黙ではないが、個人の主観の領域に落された雷のごときもの・・・といえば何となく分かっていただけるでしょうか。 Cについてはあまり長く述べたくない気分はあります。 情報処理にこだわって、情報そのものの捉え方も未熟だったか・・・ そんな感慨をもちました。 少し新鮮なものをいただいた感じがします。 ありがとうございました。
補足
そろそろ質問の裏側を公開しておいてもいいかもしれません。 理由は最後に述べます。 お読みくださっている皆さんにお伝えしておいてもいいのではないかと思います。 ごく一般的にですが・・・ AとBは不離不則だが、Cはまったく別物と考えられているようです。 ですが Cの体験の多い私からすれば 「CがAの形となって表れる場合」 もあるように思えるのです。 Aに対してBやCが喚起されるという通常の見方からすれば、 有り得ないと思われるかもしれません。 でも確かに起こり得るのです。 私は無理にCの優位度を提示しようとしているのでもありません。 「情報のからくり」を知りたいだけです。 私自身の内で起きている、「情報のからくり」をどうしても知りたい感じがします。 今回の質問を提示したのが5.6でした。 実は5.10の夕方に、その事に対するCが来ました。 Cの形は、俳句の書という 私にとって受け止めやすいものでした。 見慣れたものであるのに、なぜか釘付けになってしまうものがそこにはありました。 ですが、すぐには解釈がつきませんでした。 「知る」、と「書く」ではまったく違うではないか・・・ 何故これが答えなのだ・・・ そう思って、再回答を求めて、5.10の夜に、書についての臨時の質問を試しにしてみたわけです。 少しいらついていたので、お礼も粗々しいものとなってしまいました。 でも、こういった場合、 Cが一度示された場合ですが まず二度と繰り返されて示されることはないのが普通です。 Cの再回答は無いのです。 Cの回答の形をお伝えしておきましょう。 正岡子規の俳句を一流の書家が色紙に書いたもので、新聞の文芸欄で紹介していたものでした。 俳句そのものですが 「祇園会の 錦の上に 京の月」 とありました。 この俳句の言葉そのものにも、答えが秘められているのでしょう。 ですが、私にとってまず示されたのは「書く」ということでした。 以上からですが Aとして受け止めているはずのものが、Cであることもあるのです。 情報に対する感性的な解釈の違い・・・と思えなくもないでしょうが 幾度か体験すると、間違いなくCであることが分かってきます。 その内容の解釈は直ちにできる場合もありますが 時間がかかってしまう場合もあります。 今回のCの一応の解釈がついたのは5.12の深夜でした。 観測の結果が判明しても、何故そうなのか・・・という事が分かるまで時間がかかってしまう場合がある と思っていただければよいのでしょう。 では今回の質問に対するCからの答えです。 Cからの答えは、「書く」ことでした。 書くという、「能動性」でした。 意志の決定という能動性から見た情報の優位度は その情報を捉えうる能動性にかかっている。 というものでした。 知ることにおける能動性にかかっている・・・というものでした。 それは意識されない働きに伴う自然な優位度・・・とも言えるかもしれません。 これで一応の答えが出たものとしたいと思います。 結果的には、自らの質問に自らが答えてしまったようになってしまいました。 釣り質問ではなかったことを分かっていただくために質問の裏側を公開した次第です。 あと一日開けておきたいと思います。 関係した内容で尋ねたいことがありましたらご遠慮なくお聞きください。