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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:無の悟りはたやすい。)

無の悟りとは何か?

このQ&Aのポイント
  • 無の悟りとは、何年か前にお釈迦様が突如信仰に目覚め、信仰とは我が心そのものだという確信を持ったことを指します。
  • しかし、信仰に思慮を巡らせる者たちや噂話による信仰の誤解が広まりました。
  • そして、他者の信仰への干渉もまた無であり、有無を超えた無の哲学が生まれました。

質問者が選んだベストアンサー

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回答No.12

 確かに!  我々一人一人に有る「考え、思い」と、「実際の行動」の違い、は“普通に有る事であって”でもその事に以外と気づいていないように思う。  解かったような事を言う御仁たちは、その事に気づいていないのだ!

Flareon
質問者

お礼

めちゃくちゃな事を言っておるね。 しかし、有りがたい経文を述べたのが死にまい進する方々だったと言うのならそれでもいいだろう。 そうすると私は弥勒菩薩だがいかがかな。

Flareon
質問者

補足

君が言っているのは、我はあやまつゆえにわれである。とか何とか聞きかじったことでよく判らないよ。 人と神を分かつ事になるだろうよ。 弥勒菩薩の、釈迦を凌駕する知恵はそれでも神を理解できないかと言うとそうでもない。 神と等しくなくても、理解できる範囲であやまつことなく神を理解できる。 そして神様はそれを喜ぶ。 こういうのが人間の完成だ。

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その他の回答 (12)

回答No.2

 西洋の信仰は哲学とは言えない、と思う。

Flareon
質問者

お礼

間違いなく信仰を起源として知性に発展させてるよ。 すなわち、人間を人間たらしめる知性とは神の発見と密接に関わっておる。 ところで何も信じられない君は、全ての信仰を自らのうちにとどめるのみにしろ。 なぜなら、人間の備えるものでしろ、知性とは神に由来し、君はその神を否定しているからだ。 哀れかな。 君に知性は無く、他者の知性に便乗しているのだ。

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回答No.1

 Flareonさんの言う処の“信仰”は哲学としての信仰だよね。  その観点で言えば、空とか無とか、とらわれないとか、使い古された昔の言葉に依存しなければ“語れない”信仰の世界、ならばそれは活きた信仰とはいえない、と思う。  Flareonさんの批判を受けてみたい。

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