※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:無の悟りはたやすい。)
無の悟りとは何か?
このQ&Aのポイント
無の悟りとは、何年か前にお釈迦様が突如信仰に目覚め、信仰とは我が心そのものだという確信を持ったことを指します。
しかし、信仰に思慮を巡らせる者たちや噂話による信仰の誤解が広まりました。
そして、他者の信仰への干渉もまた無であり、有無を超えた無の哲学が生まれました。
何年か前にすでに説明している事だが、憶えている人は少ないだろうから、猿に理解できるかどうか改めて問うよ。
お釈迦様は昔々のインド社会で、突如信仰に目覚めた。
その内訳は、信仰とは我が心そのものだと言う確信であった。
目覚める事も無いくせに信仰に思慮を巡らせる者どもは、噂話が好きだ。
そんなうわさ話に、「信仰心とはそうではない」すなわち君達の信仰に真実は無く、無だ。
そして、自らの信仰に土足で足を踏み入れようとする他者の痴漢行為に対しては、「それは自らの心そのものであり、語る言葉は無い」すなわちこれもまた無である。
そしてどっち道無だから一切が無と言う事にしましょうや。
信仰の道を歩むにあたって、その人生をこのような処世術で終始した。
ただそれだけだが、「有りを隠し無と語る」これと「まるっきりそんなもんありゃしねー」この二つが有無の分別となり交錯するのが、無の哲学の真骨頂だ。
今回はこれを論理を鍛える題材として提示するよ。
とっくの昔に一人でもっと先に進んでいるんだけどそれはまた今度だ。
信仰を排除したありがたみの無い言い回しで説明したので判りにくい部分があるかもしれない。
特別サービスでもっと説明してくれと言うなら、頭の下げ方次第では説明してやるよ。
それから西洋の哲学が何故優れているかと言うと、信仰に目覚め自らである事を自覚した考えであるからだ。
日本人が哲学で免許皆伝するには、仏教を思考の土台に据えて西洋とは別であっても比類するだけの哲学を鍛える事だ。
そこまでしないと信仰が生きているとは言えないよ~ん。
お礼
めちゃくちゃな事を言っておるね。 しかし、有りがたい経文を述べたのが死にまい進する方々だったと言うのならそれでもいいだろう。 そうすると私は弥勒菩薩だがいかがかな。
補足
君が言っているのは、我はあやまつゆえにわれである。とか何とか聞きかじったことでよく判らないよ。 人と神を分かつ事になるだろうよ。 弥勒菩薩の、釈迦を凌駕する知恵はそれでも神を理解できないかと言うとそうでもない。 神と等しくなくても、理解できる範囲であやまつことなく神を理解できる。 そして神様はそれを喜ぶ。 こういうのが人間の完成だ。