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WIKIPEDIAの故城一片之月の史実捏造????
wikipediaの安城市という記事で、故城一片之月が、岡崎の城を受取りて御身は猶安祥におはしける、と徳川実紀に記述されているのに、松平清康が「安祥城→山中城→岡崎城」と移住したと、捏造しています。自分は、正しい記述を挿入しているんですが、リバートしてきます。WIKIPEDIAは信用出来ないか???????? 東照宮御実紀巻一 その太郎清康君。これ東照宮の御祖父に渡らせ給ふ。永正八年九月七日御誕生。大永三年四月四日十三歳にて世をつがせ給ふ。幼より武勇膽略なみ/\ならず。萬にいみじくわたらせ給へば。御内外様のともがらも。この君成長ましまさば。終に中國に旗挙し給ふべしと末頼母しく思ひ。なびきしたがふ事父祖にもこえ。信忠の御時に離散せし者どもゝ。ふたたび来りて旗下に属するやから少からず。」岡崎并に山中の両城主松平弾正左衛門信貞入道昌安は。信忠の時よりそむきまいらせ自立の威をふるひしに。清康君十四歳にてこれをせめんとて。元老大久保左衛門五郎忠茂入道源秀が謀を用ひ給ひ。難なく山中城を攻抜かれ。其猛威に乗じ終に岡崎をせめられしに。昌安入道敵しがたくおもひ。をのが最愛の女子をもて清康君を聟とし城をまいらせんとて和を乞ひしかば、これをゆるされ。その女をむかへて北の方となされ。岡崎の城を受取りて御身は猶安祥におはしける。(岡崎城はじめ泰親の築給ひし城なりしが。信光の時五男紀伊守光重にゆづり給ひ。昌安入道までこゝにありしが。此とき再び此城本家に帰せしなり)世には安祥の三郎殿と称し。その武威を恐れける。」享禄二年五月の頃西三河は皆御手に属しければ。是より東三河を打したがへ三州を一統さられんとの御志にて。牧野伝蔵信成が吉田の城を乗とらんとて。安祥を打立ち給ふ。 徳川実紀の記述から、安城にいたのは確実。岡崎領主古記の記述は誤り。 安城市史や岡崎市史が典拠とする岡崎領主古記は、江戸末期編纂の地誌で信憑性ゼロ。 なぜ捏造するんでしょうか?
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- izuhara
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とすると19世紀編纂の「徳川実紀」も似たようなものですね。 史実と違う内容も書かれていますから「徳川実紀」も捏造になりますね。 その辺りから考え直してください。
補足
あと、寛永譜・寛政譜を引用・校正してつくったのが、徳川実紀です。 引用書目一覧に、寛永譜・寛政譜があり、それらを、引用・校正して完成したのが、徳川実紀です。 徳川実紀が一番最後につくられている幕府編纂史料です。 当然、徳川実紀の記述が優先する。