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文章の意味を分かりやすくしに助けてください

与謝野晶子の「月夜」を読みます。この小説には太田お幸といった少女について書かれています。お幸は弟がいました。昔は大地主であった太田家は財産をほとんどすべて失った。 後は私に分からない文章です: 「自家に所有権のあったその沢山の田に取巻かれた三本松の丘の家は、今では村の晒問屋《さらしどんや》の山仁《やまに》の別荘になっていることもお幸兄第にはお伽噺《とぎばなし》の中の一つの事実くらいにしか思われないのでした。」 「…別荘になっていることも」の後の言葉の意味は理解しがたい。助けてください。

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  • hakobulu
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回答No.6

大地主であった太田家が財産をほとんどすべて失い、家は他人の別荘になってしまった時、お幸はとても小さな赤ちゃんだったはずです。弟は生まれていなかったかもしれません。 最後のほうに、「おまへ達は知らないがそれはそれは無駄に広い家なんだからね」という母親の言葉が出てきます。 お幸兄弟にとっては、自家に所有権があった頃のことは記憶にないので空想するしかできません。 「空想的な話」のことを「お伽噺」と言います。 つまり、お幸兄弟にとっては「自家に所有権があった頃の話」はお伽噺のようなものだと言えます。 しかし、そのお伽噺の中に出てくるような家が、現在「村の晒問屋《さらしどんや》の山仁《やまに》の別荘になっていること」は事実として知っています。 これが、「お伽噺《とぎばなし》の中の一つの事実」の意味です。   

MGhast
質問者

お礼

そうか!hakobuluさん、感謝の至りに堪えません!

その他の回答 (5)

  • plokij75
  • ベストアンサー率45% (716/1567)
回答No.5

#4です。 すみません! 誤りを訂正してください。 (誤) ・お幸兄弟 = お幸と言う前の女性を含めた兄弟姉妹。 (正) ・お幸兄弟 = お幸と言う「名前」の女性を含めた兄弟姉妹。

MGhast
質問者

お礼

はい、分かりました!ありがとう!

  • plokij75
  • ベストアンサー率45% (716/1567)
回答No.4

「…別荘になっていることも」の後の言葉: 「お幸兄第にはお伽噺の中の一つの事実くらいにしか思われないのでした」 と言うのは、 ・お伽噺 = 現実には有り得ないような物語。 空想の話。 ・一つの事実 = 現実に存在する事柄。 つまり、 ( 自分の家であった三本松の丘にある家が、)お幸兄弟には、今では山仁の別荘になっているという事実を信じる事が出来ないので、「その事実」を空想の話の中で起った出来事のように思った。 と言う意味だと思います。 ・お幸兄弟 = お幸と言う前の女性を含めた兄弟姉妹。 ・その事実 = 現在は山仁の別荘になっている事。

MGhast
質問者

お礼

plokij75さん、どうもありがとう!

回答No.3

「お幸兄第」たぶん,正しい文章では「お幸兄弟」だろうと推測します。   お幸は女ですが,きょうだいを「兄弟」と書いたのでしょう。日本では普通,「姉弟」ということばを使うことは無く,姉と弟であっても「きょうだい」と言って,漢字で書くと「兄弟」を使うことになると思います。 大田お幸とお幸の弟の(二人の)ことです。 「お伽噺……」以下の説明は他の方がすでになさっています。

MGhast
質問者

お礼

KENIGOSHIさん、如何にもその通りだが、しかし青空文庫からダウンロードされた与謝野さんのテキストには「兄第」と書かれた。これは古い書き方とかもしれませんな...

  • pasocom
  • ベストアンサー率41% (3584/8637)
回答No.2

私は#1様とは全く逆の解釈をします。 「お伽噺の中の一つの事実」が問題だという点は同じです。 この「お伽噺」というのはつまり「フィクション=作り話=非現実」という意味ですね。 そして「事実」とは、現代では普通「ノンフィクション=作り話ではない本当の話」という意味で使いますから、ここの矛盾が理解しにくいのではありませんか。 ここでの「事実」というのはそんな風に解釈する必要はありません。お伽噺の中の「一つのエピソード」という意味でとらえたらいかがでしょうか。 そうすると全体の意味は、 「自分の家の持ち物であった家が今では他人のものになっていることが、お幸兄弟には『フィクションのなかの一コマ』としか思われないのでした。」 となります。 結局、兄弟にとって「過去、凄い金持ちだったということが全く現実感が無い」のではなく、逆に「自分達がすっかり落ちぶれて貧乏になったことが現実感がない=事実として認識できなかった。」ということだと思います。 もと金持ちの家が没落するという、この作品を読んだ場合、たいていの人は「チェーホフの桜の園」を思い出すのではないでしょうか。 桜の園では没落したにもかかわらず、いつまでも自分は金持ちの貴族だと思い込み現実を認識できない女が主人公です。 桜の園は1903年の作品。与謝野晶子の「月夜」は1918年の発表。晶子が「桜の園」を下敷きにして「月夜」を書いたと考える事も可能なのではないでしょうか。

MGhast
質問者

お礼

そうかもしれない...とにかく、pasocomさんの解説は面白いだ!どうもありがとう!

  • FEX2053
  • ベストアンサー率37% (7991/21371)
回答No.1

こういうのは、「日本語の訳の問題」ではなく、社会的な常識や 人間としての想像力の問題なんですよね。他国の言語を読む時 って、そういうのを忘れがちなんです。 これは、日本人が英語の原文を読むときも同じなんですよね。 別に外国人が日本語を読むときだけの問題じゃないです。 ということで。 「お伽噺の中の一つの事実」 これが問題なんだと思うんですが、「おとぎ話」とは「親が子に する寝物語(寝付かせるときに聞かせる民話みたいなもの)」 と考えていいです。 そういうトコに出てくる「一つの事実」ってのは、「昔々ある所に おじいさんとおばあさんが居ました」という場合の「おじいさん」が、 実は自分の曽祖父だった、とか言う場合と同じなんですよね。 事実なんだけど、具体的にそうだ・・・という想像すらしないって ことです。 この場合、この「お幸兄弟」は、「今現在、貧乏過ぎて、過去、 凄い金持ちだったということが全く現実感が無い事実だった」 と言うことになりますね。 ただこれ、文学作品でしょ? そんな中に、こういう現実的な 表現が合っているのかどうか。特に日本人は、「直接的な言い まわし」を嫌って婉曲な表現をすることが多いですから、文学者 がそんな判りやすい言い方をするはずが無いんです。 ですので、まずは出てくる単語をしっかり理解して、そのうえで 「社会的な常識」と「人間としての想像」をやらないと、ちゃんと した理解が出来ないと思いますよ。

MGhast
質問者

お礼

FEX2053さん、ご回答をありがとうございます。これを理解するのは容易なことではないですが、僕は努める!

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